この日記は全てノンフィクションであり、登場する人物・団体名などは全て実在のものです。
5月
5月30日(木)曇り
毎日数枚ずつ小説を書いて、ようやく80枚に達したところだが、ここで大きな矛盾に気づいて大幅書き直し(泣)。長編はやっぱきついわ。入念に構成を練ったはずなのに書き始めてから気付く矛盾。こんなこっちゃ駄目やな。やっぱ基本的に頭悪いんだろうな。
ワシごときの腕で賞をとれるなんておこがましいことは一切考えていない。ただトライして落選すればすっきりしそうだから、駄目でもとりあえず書いている。トライしないで後悔するのだけは絶対に避けたいから。
それにしても長編はある意味面白い。前にも「千の灯火」の時に同じ感覚を味わったが、登場人物が勝手に動き出すから不思議だ。書いてる自分が先が楽しみになってくる。
出来上がりは10月かなぁ。とにかく頑張ろう。

「矛盾」

生まれ出でて 所詮全ては 矛盾かな

5月27日(月)曇り
アルファーホーム」さんにいる時に、全盲のランナー柳川春巳さんが来られた。なんでもくーちゃんのファンで時々触りに来られるらしい。くーちゃん癒しになるんやなぁ。
それにしても柳川さんにはただただ頭が下がる。33歳でマラソンを始め、バルセロナパラリンピックで6位入賞、そしてアトランタパラリンピックでは堂々の金メダル。2時間50分56秒で走ったらしい。あぁ全くなんというか、素晴らしいの一言だ。どういう賞賛の言葉も足らない。一言もなく脱帽だ。
柳川さんは頂上まで登りつめてもまた新たなチャレンジをされている。それはトライアスロンだ。6月に開催される世界ロングディスタンストライアスロン選手権にも出場されるということだった。(今日はその前にくーちゃんに触りに来たということだった。)
凄すぎる。本当に凄すぎる。それにひきかえワシは何を頑張ってるだろうか?思えばどれも中途半端。情けない話だ。
これからは気合が入らない時は柳川さんを思い出そう。

「 目は見えなくても、夢はみえる 」 (柳川春巳)


「夢」

光なき瞳 眩しき夢を見る

5月24日(金)晴れ
今日は仕事のあいまに時間があったのでフェアレディZの試乗をした。すんごい車だ。このエコカーのご時世に独り立ち向かうという感じだ。燃費?減税?関係ないね。車は速く!かっこよく!と言いたげだ。集団の中でこういう迎合しないものがあってもいいと思うんだがな。
どうしてこう日本人は多数派の意見に流されてばっかりなんだろう?みんなそっちがいいというが俺はこっちにする!という人がもっといて欲しいと思うんだがな。
それにしてもZはすごい。オートマだったがパドルシフトでガンガン走れた。シフトダウンの時に勝手にブリッピングするのには驚いた。
しかし車の動きをハイテクで制御するようになると、今のF1のように乗る人の腕なんて二の次なんてことになりかねんな。そこそこローテクも残して運転技術を生かせるようにして欲しいもんだ。

夜は姫と「ラ・ニッシュ」へ。ずっと行きたかった創作フレンチ。噂には聞いていたが確かに群を抜いて素晴らしいクオリティだった。ワインもおいしかったし、接客もよかった。プロの仕事だなぁとしみじみ思った。

「さからふ」

風下に 押されてゆくも ひとつなら
風にさからふ そもひとつなり

5月20日(月)晴れ
久しぶりに「中国鍼灸院」さんへ。

「夕陽紅」

呉炳宇

海外尋仙三十載、(海外に仙を尋ね三十載)
白頭方悟神在心。(白頭まさに悟る神は心に在りと)
華容追歳月遠去、(華容歳月に追われ遠く去れど)
青春伴夕陽尚存。(青春夕陽を伴いて尚あり)

(以下、えしぇ蔵的博多弁訳)
外国(日本)に仙人探しにきてもう30年になるばってん、
歳とってから神様は心の中におるてようやくわかったばい

長い月日がたってから若さはどっか行ってしもうたばってん、
若い気持ちは歳とってからでんまだあるばい。

ここでワシはふと「富野バプティスト教会」の黄先生が引用した漢詩を思い出した。「老木にも花が咲くのは心が老いていないからだ」という意味の漢詩。つまりはそういうことだな。
肉体的に若くても夢や希望を捨てたのならそれは年寄りだ。夕陽の中にも青春はあるのだ。


今日は「雷山千如寺」さんで仏式の結婚式の資料を作った。結婚式をお寺での仏式や本物の神社での神式を選ぶカップルがいるという現実はなかなか素晴らしいことだなと思う。特に信仰がないのなら結婚式場でするか、もしくは”にわかクリスチャン”になって教会でというのが相場だ。そういうパターンが大半を占める中でしっかりと信仰に基づいて式の形を選ぶカップルというのは実に実にいいもんだと思う。
この豊かな国に欠けているのは信仰だな。

「夕陽」

我が身より 華容遠くに 去りゆけど
夕陽待つ身に 未だ夢あり

5月19日(日)曇り
どういうわけか明け方に強烈な眩暈に襲われた。すごい勢いで天井が回っていた。しばらくするとおさまったが、どうも調子が今一つなので今日は夕方に少し散歩した以外はずっと家で大人しくしていた。過労だろうか?原因不明。

夜、DVDでダニエル・クレイグの「ディファイアンス」を見た。第二次大戦中にユダヤ人狩りから逃れて森でキャンプを作り生き延びた人々の話だ。これは実話らしい。最初は兄弟だけだったが徐々に同じように逃走しているユダヤ人と合流し、時にはゲットーから脱走した人も加わって、主人公はモーゼのようにみんなを率いて森を逃げ回る。キャンプが発見されれば移動し、また新たな地でキャンプを作る繰り返し。終戦時にはなんと1200人の規模になっていたらしい。なんとも感動的な話だ。
戦争中のこういう感動秘話はもっともっと隠れていることだろう。こうして映画化して世間に知らせるのは素晴らしいことだと思う。この生き延びた1200人の子孫は現在では数万人になっているらしい。

「平和」

銃を持つことの なき世の ありがたさ

5月18日(土)晴れ
日中の車の中は夏のように暑かった。
今日は筑後巡回の日。「スマイルホーム」さん、「星香園」さん、「江田建設」さんとまわった。

ずっと年下だと思っていた牛島さんの奥さんが年上でしかも姉貴と同い年と判明してビックリ。見た目じゃわからんもんだ。いやその前にワシが老けすぎているというのもあるかもしれない。
星野村は去年の水害の復旧がまだ終わらない。梅雨入り前にある程度済ませておこうというのか、あちこちで忙しそうに作業していた。
それにしてもどうしてもっと早くできないもんだろうか?予算がつかないのだろうか?何かもどかしいものを感じる。

星香園」さんの新茶は今年もうまかった!



「傷跡」

山肌の こぞの傷跡 癒えぬまに
雨期に入るや 星のふるさと

5月17日(金)晴れ
今日の夜はM島さんと、親戚の方が去年店屋町にオープンしたイタリアン「ファンタジスタ」で食事した。素材を生かした本格イタリアンには本当に感動した。本場イタリアでうまいものに感動してきた身ではあるが、いやいや福岡のイタリアンもなかなか負けてないと思った。しかもここはお店のつくりや接客も申し分ないし、地下鉄も近く利便性もいいので今後いろんな人に紹介しようと思った。
M島さんはビール、ワシはキャンティをしこたま飲んで楽しい夕べを過ごすことができた。
(M島さん、ありがとうございました。)



「店屋町」

イタリアの 夜おもふかな 店屋町

5月15日(水)晴れ
旅行から帰ってから小説を書き始めた。11月までに何が何でも書きあげてやろうと思う。この作品は構想に3年かかった。まだ下調べが十分ではないのだが、時間がないので調べながら書いていこうと思う。
書き始めてみると意外に筆が進むので面白い。 数年前に「千の灯火」を書いた時のことを思い出した。あの時は毎朝早く起きて朝食前に必ず5枚書くようにしていた。今回も5枚まではいかずとも少しでもいいから毎日書こうと思う。毎日書くことで常に作品の世界が頭にあるので新しいアイディアも浮かんでくるからだ。
これが完成した時はさぞ嬉しいだろうなと思う。ずっと自分の頭にしかないものを外に出して形にするなんてやはり感動ものだ。賞をとれずともそれだけでも喜びは十分だ。
 
今日は筑紫野の麦畑がきれいだった。
 
「穂先」
 
こがねいろ ゆれる穂先の やはらかき

5月10日(金)雨のち曇り
今日は「雷山千如寺」さんの恒例イベント「御経会」の日。雨だったので護摩は御堂で焚かれた。
思えば先週はローマカトリックのサンピエトロ寺院にいたわけだが、今日は一転して真言宗大覚寺派の千如寺大悲王院にいるんだから面白いもんだ。宗教を通じて人が集まる場所というのは荘厳な空気は共通だ。やはりここでも心洗われる感じがする。
 

 
「緑雨」

音もなく 緑雨のあらふ こころかな

5月8日(水)晴れ
昨日から筋トレ再開。都合2週間もあいてしまった。やっぱりきつい。たった2週間でこんなにきつくなるものか。
 
まだぼーっとイタリアのことを考えてしまう。本当に楽しい旅だった。既に次いつ行くかを検討中だったりする。
とりあえずの急務は旅行の日記を書くこと。記憶が新しいうちに。この年になるとどんどん消えていくから怖い。
 
「こころ」

わがこころ いまだテベレの 畔なり

(日本時間)5月6日(月)ミュンヘン快晴 福岡曇り
お昼ぐらいの便でミュンヘンを後にした。乗り換えはソウル。インチョン空港でしばらく仮眠をとって福岡へ。無事帰国。
まぁしばらくはイタリアの余韻を引きずるだろうな。
というわけで長旅も終了。明日から仕事!
 
「夢のあと」

夢のあと 今とりあえず 風呂恋し

(日本時間)5月5日(日)ヴェネツィア快晴 ミュンヘン晴れのち曇り
宿をチェックアウトし、早朝の水上バスで空港へ。ルフトハンザでまずはチューリッヒへ。そして乗り換えてミュンヘンへ。
 
チューリッヒへ向かう途中、アルプスの上を飛んだが連なる雪山の美しさは息をのむばかりだった。God Almighty! なんという素晴らしい仕事。
アルプスを見ながら思った。次は是非アイガー北壁を見に来ようと。そしてトニー・クルツとアンドレアス・ヒンターシュトイサーが死んだ場所までケーブルカーで登るのだ。アイガー北壁は世界でも登攀が困難な3大ルートの一つ。芸術品のように美しい山だが多くの登山者の命を奪っている死の山でもある。山男たちが果敢に挑戦した壁を是非見てみたいのだ。
 
ミュンヘンの空港に降りた時、外の景色にまず目を奪われた。美しい自然とそれに調和して点在する家。空港から乗った電車の中からの郊外の眺めも素晴らしかった。
駅を出て初めてドイツの街並みを目にした時、まず思ったのは「きれいな街」ということ。古いものと新しいものがうまく共存している感じ。清潔感もあった。だがさすがにイタリアよりはだいぶ気温が低かった。
わずか1泊のドイツだがめいっぱい楽しんでやろうと宿に荷物を置いてすぐに街へ。姫は買い物に夢中。
 

 

 
夜は2軒のお店をはしごしてビールとソーセージやホワイトアスパラの料理などを堪能した。とにかくビールがうまい。この旅行中にドイツビールを3種飲んだがどれも甲乙付け難し。いくら飲んでも飽きない。帰国したら同じビールがどこかに売ってないか探してみようと思った。お店の冷やし加減もちょうどよかったのかもしれない。それに炭酸が強くないことも。ソーセージやプレッツェルがあればなんぼでも飲める。なるほどさすがに本場は違うと唸らせられた。

最初の店ではメニューが全てドイツ語でどうしていいか迷っていたら、なんと隣の夫婦が英語でいろいろと教えてくれた上に代りにオーダーまでしてくれた。奥さんはリコーで働いているということだった。これもなにかの縁か。わずかな時間しか話せなかったがとてもいい思い出になった。異国での人とのふれあいはいいもんだ。
 
最後に行ったお店は市庁舎の建物の地下にあったが、ワシらが店を出て市庁舎の中庭から出ようとしても鍵がかかって出られなかった。市庁舎だから閉まってしまうのだ。お店の人にきくと店の反対側から出られるようになっていた。ちょっと焦った。
写真を撮ってたら通りすがりのおじさんが2人一緒に撮ってあげようかというので頼んだがこのおじさんがからきしカメラが駄目で何度教えてもうまく写らなかった。とうとうおじさんでは駄目で横で笑っていた奥さんが撮ってくれたがワシらも大いに笑わせてもらった。
 
「いざない」

思いやり ミュンヘンビール ソーセージ
われさそふなり ゲルマンの風

(日本時間)5月4日(土)ヴェネツィア快晴
昨日の雨のせいか朝のヴェネツィアは霧に包まれていた。だが陽が高くなってくると霧は晴れて素晴らしい快晴になった。ヴェネツィアを堪能するには最高のコンディション。
道は迷路のように入り組んでとにかく狭い。両手を広げられない所もある。そこを観光客がどっさり歩いているから大変な混雑だ。かつてゲーテはこの道を地図も持たずに適当に歩いて街の全体像を把握したと「イタリア紀行」に書いていたが方向音痴のワシにはとても無理だ。



「サン・マルコ広場」はヴェネツィアの中心地。世界で最も美しい広場と言われているが、誰が初めに言ったにしろそれを否定する人はほとんどいないだろう。本当にこれ以上美しい広場があるなら見せて欲しいものだ。
宿に昔の「サンマルコ広場」の絵が飾ってあったが、そこに描いてある人々の衣裳が違うだけで、それ以外は今と同じだ。なんと素敵なことだろう。願わくばこれから先もこのままであって欲しい。
ちなみにサン・マルコとはヴェネツィアの守護聖人マルコのことだ。新約聖書にある「マルコによる福音書」を書いた人。



「ドゥカーレ宮殿」は総督邸兼政庁だった建物で8世紀に建てられた。運河を挟んだ対岸の牢獄とは有名な「ためいき橋」で繋がっている。罪人がこの橋を渡って牢獄に行く時、そこから見える景色がこの世の見納めということでため息をついたということからこの名がついたが、どうも実際にはこの橋ができた時には対岸の牢獄は短期刑の囚人しかいなかったようで、この世の見納めでため息をついたということはなかったらしい。まぁ言い伝えというのは案外そういうもんだ。
実際に橋を渡って牢獄に行ったが、なんともおどろおどろしい雰囲気だった。写真を撮ったら変なものが写りそうな感じ。ひんやりとして気持ち悪かった。





狭い街中をぶらぶらとウィンドウショッピングしながら「リアルト橋」へ。

「リアルト橋」は「白い巨象」とも呼ばれる美しい橋だ。この橋の周囲はお店が多い繁華街なのでかつては「富の橋」とも呼ばれたらしい。橋の上にもお店があり、観光客で大いに賑わっている。



「リアルト橋」近くの店にてまたまた海の幸をランチで楽しんだ後は水上バスでゆらゆらと運河を移動。風も揺れも適度に心地よく実にいい気分。
だが「ムラーノ島」に向かう便に乗り換えて外海に出た時には風が少し寒いほどに感じた。波も少し荒かった。端の方にいたので時々波しぶきを浴びた。
 
「ムラーノ」はひとつの島ではない。7つの島が橋でつながっている。約6,000人が住んでいる小都市。ここはなんといってもヴェネツィアングラスが有名。かつてこの技術を他にもらさないために職人をここに住まわせて出られなくしたという話だが、実際はやはり逃げ出した職人もいたらしい。

島に着くと愛想のいい兄ちゃんが観光客を「こっちでーす」的な感じで誘導している。「なんだ?何があるんだ?」と釣られていくとベネチアングラスの実演の見学だった。そこでおじさんが真っ赤なガラスの塊から手際よく馬の置物を作っていた。実に見事なものだった。その会場の横がお店で、ベネチアングラスがずらりと並んでいた。なるほどお店の作戦なわけだ。商売うまいな。
ちなみに日産はこの島の名前を車に使ったが、なかなかセンスあるなと思う。



「ムラーノ」から戻ってからジェラートを食べながら再び街をぶらぶらと。イタリアに来てからジェラートを何度も食べたが、ここで食べたものが一番うまかった。
移動はとにかく水上バス。1日券を買ったので乗り放題なのがありがたい。
 

 
夜はシーフードピザでイタリアでの最後の晩餐を楽しんだ。えらくでかいピザで全部食べきれなかった。だが味はさすがに抜群。

ここでイタリアについて感じたこと覚書。
何を食べてもうまい。姫が店を厳選していたが、思いつきで入った店もおいしかった。イタリアに住めばすぐに太れる自信がある。旅行中日本食が恋しくなったことは一度もなかった。やっぱイタ飯は最高だ。
とにかく空気が乾燥している。さすがにヴェネツィアは違ったが他のところでは常に口が渇く感じがした。喉が渇くのではなく口が渇くのだ。日本では感じたことのない感覚。宿では洗濯物がよく乾いた。日中は汗ばむこともあったがじめじめとした気持ち悪い汗はかかない。日差しが強くなっても日陰に入れば涼しい。
イタリア人は男性は体格がよくがっちりしている。ワシぐらいの身長(177cm)では埋もれてしまう。女性はとにかく綺麗だ。そしてスタイル抜群。ローマでは街中にハリウッド女優なみの人を探すのは簡単だ。
どこへ行っても英語が通じる!お店だけでなく通りを行く人に話しかけても英語で答えてくれた。旅行中、英語が通じなかったのはマラネロで話しかけたおばあちゃんただ一人。
とにかくみんな親切。気分悪くなる対応は一度も受けなかった。
イタリアの街は汚いと聞いていたがそれはどこに行っても感じなかった。夜はゴミが散らかっているところもあったが翌朝にはきれいに掃除されていた。ただしローマでは車がどれも汚かった。あまり車を洗うという習慣がないのかもしれない。ローマ滞在中に見たきれいな車は1台だけ。
走ってる車はアルファとフィアットが多い。フェラーリはマラネロ以外ではほとんど見なかった。
道は舗装してあるところと石畳のままのところがある。石畳のところを車で走ると結構振動がすごい。タイヤはすぐに悪くなりそうだ。だが全部舗装する必要はないと思う。石畳があるからこそヨーロッパだ。
ローマは治安が悪いと聞いていたのでしっかり警戒対策をしていたが全くの杞憂に終わった。スリにあうこともなく、それらしき人を見かけることすらなかった。心配しすぎだったのか?
陽気な人が多い。どこへ行っても基本は笑顔だ。特に飲食店では仕事中にも関わらず歌いだす人、踊りだす人。多少の失敗ノープロブレム。
電車は時間より少し遅れるが誰も文句は言わない。乗るほう、乗せるほう、どこかみんなゆるい。このへんは国民性だろうな。だがそれぐらいでいいと思う。日本はきっちりしすぎだ。
イタリア人は芸術と歴史とともに生きている。街を新しく変えていこうという姿勢ではなく、できるだけ損なうことなく次世代に伝えようという姿勢を強く感じる。非常に素晴らしいことだと思う。大いに共鳴を覚える。
とにかく外国人観光客が多い。やはりイタリアは世界の観光地だ。
 
というわけでまとめると、イタリアは非常にワシの感性にマッチしているといえる。「住んでもいいなぁ」と感じた2つ目の国になった。ちなみに1つ目はフランス。

「水の都」

去りがたき 水の都の ものがたり
いかなる筆も 語りつくせず

(日本時間)5月3日(金)マラネロ曇り ヴェネツィア雨
最期の思い出にドゥオーモの周りを散歩してから宿をチェックアウト。電車で今度はモデナに向かった。
モデナに着いたらタクシーでマラネロへ。ついに、ついに、ついに、憧れのマラネロだ!フェラーリの根拠地!エンツォ・フェラーリの街!高速で走る芸術が生まれる街!タクシーで向かう途中も何度か「コーン!」という音と共に走りさるフェラーリを見た。あぁ鳥肌が立ってくる。
 
「フェラーリ・ミュージアム」には歴代F1マシンや市販の名車がズラリと展示されている。本当に夢中で写真を撮りまくった。ここも世界中から観光客が集まるのでミュージアムの中は結構混んでいた。1台ずつシャッターを切るのも大変だった。
F1マシンに関してはチャンピオンカーか、もしくは何らかの栄光を背負うものだけを選んであるようで、いわゆる失敗作や目立たなかったものはなかった。全車種あると思ったのが甘かった。それでもこれだけたくさん展示してあるところは恐らく他にはないだろうから満足しなければならない。



一番感動したのはなんといっても126C!ワシの大好きなジル・ビルニューヴが乗っていたマシンだ。これだけは自分と一緒に写真撮ってもらった。あぁこれに乗ってたんだ!天才はこれに乗ってたんだ!これで伝説を作ったんだ!と思うとなかなかそこから離れられなかった。



近くにテストコースがあるので外に出るといつも「コーン!」という快い響きが聞こえてくる。お金を払えば誰でも市販車のモデナやカリフォルニアなどのテストドライブができる。お店の人にどうぞと言われたがぶつけて壊しそうなのでやめておいた。
工場もすぐ近くにあるがここはフェラーリ・オーナーでないと見学できない。中古で買っても駄目だ。新車で買わないと。それじゃ一生見れないじゃないか。
ちょうどお昼時に工場の近くにいたら真っ赤な集団がどやどやと出てきた。フェラーリで働くってどんな気分だろうかと思いながらぼーっとその集団を眺めてしまった。
 

名残惜しくもマラネロを後にして、再びモデナから電車でヴェネツィアへ移動。
電車が長い橋を渡り始めたところから既に感動は始まった。あぁヴェネツィアに近づいている!水の都ヴェネツィア!アドリア海の女王ヴェネツィア!ここもまた見ずに死ぬわけにはいかない。
ヴェネツィアでの移動手段は船。水上バス、水上タクシー、ゴンドラなどあるが、ワシらは一番安い水上バスで移動。まずは宿にチェックインしてからレストランで海の幸を堪能。その後は夜のヴェネツィアを散歩。
 

 
「カッフェ フローリアン」はイタリア最古のカフェ。創業はなんと1720年!一体ここで何人の人がお茶したことだろうか?目の前の「サンマルコ広場」のあちこちには楽団がいて素晴らしい音楽を聞かせてくれる。かなり高くつくお茶タイムになるが、それだけの雰囲気は十分にある。なんとも贅沢なひとときだ。
 

 
「跳ね馬」

跳ね馬や 夢を残して 走り去る
谷間のゆりの 美しきかな

(日本時間)5月2日(木)フィレンツェ晴れ
フィレンツェの朝は強烈な教会の鐘の音で起こされた。この街の人は朝寝坊はできないにちがいない。
 
「ダンテの家」はあの「神曲」を書いたダンテ・アリギエリの家だ。彼は政争に敗れてフィレンツェを追放された後に「神曲」を書いたのでこの家であの名作が生まれたわけではないだろうが、ここで生活していたと思うとやはりジンとくるものはある。偉大なるダンテ・アリギエリ、それにしても「神曲」は素晴らしかった。
家の前でパントマイムのおじさんが「神曲」の朗読をしていた。大衆の前での詩の朗読という芸術は日本から消えつつあるが、やはりいいもんだ。もちろんイタリア語(ラテン語で書かれていたからラテン語か?)だから全くわからないが。



「ヴェッキオ宮殿」
はフィレンツェで最も見たかったところ。 イタリア旅行の予習をしていた時にたまたまテレビでこの宮殿のことが放送されていた。「500人広間」にあるジョルジョ・バザーリの壁画「マルチャーノの戦い」の後ろには実はレオナルド・ダヴィンチの幻の傑作「アンギアリの戦い」が隠されているということがわかったという内容だった。壁画に小さい穴を開けてファイバースコープで見ると塗料が確認されたということだった。「アンギアリの戦い」は未完成だったのでバザーリはその上に絵を描くように指示されたらしいが、巨匠の作品を消すにしのびなく、わずかな隙間を作ってその前面に新たに壁を作ってその上に自分の作品を描いたらしい。バザーリは傑作の行方を自分の絵の中に暗号にして残すという小説さながらのすごいことをしていた。
「CERCA TROVA(探せ、されば見つからん)」
カメラの望遠レンズでこの文字を絵の中に発見した時には全身鳥肌がたった。現物を見ることはできなくても壁画の枠の厚みを見て、この中にあるんだなと思うだけでも感動せずにはいられない。なんて素晴らしい話だろうか。「アンギアリの戦い」がどんな絵だったかはルーベンスが残した一部の模写でしか知ることができないが、これが完成していたらどんなにすごいものになっていただろうか。それにしてもダヴィンチの作品をなんとか後世に残そうというバザーリの努力には本当に感動的なものがある。






ルーベンスの「アンギアリの戦い」の模写
 
街は昨日の祭りの後なのでさぞかし静かだろうと思いきや、今日もまたお祭りのような人出。どこも賑やかだった。
宿の窓からパレードを見ることができた。この美しく歴史ある街は様々な人種で埋め尽くされていた。それだけ人を魅了する街なのだ。この繁栄をコジモやロレンツォなどのメディチ家の人々が見たらきっと誇りに思うに違いない。
 
「バザーリ」

バザーリの 熱きこころに 涙する
かくまでにして 美を伝えしか
 
(日本時間)5月1日(水)フィレンツェ曇り
オルヴィエートの朝は鳥の声で起された。徐々に様々な鳥の声が混ざっていった。たまに聞こえる教会の鐘の音。窓から見える古い屋根、遠い山なみ。極めて美しい朝だった。
少し散歩した後、朝食を済ませてチェックアウト。次はフィレンツェへ移動。
 
昼前にフィレンツェに到着したが、その人の多さには驚いた。お祭りがあるせいだろうか?それともいつもこうなのだろうか?
今回の宿はB&Bとは思えないゴージャスなもので、ブッキングミスだろうか1日目はスイートのような部屋に通されて2人ともご機嫌。寝室2つに広いリビングダイニング、洗濯機、冷蔵庫、食器一揃いあってそのまま生活できる状態だった。ひと月ぐらい滞在するか。
荷物を置いたら早速街へと繰り出した。
 
「ウフィッツィ美術館」はフィレンツェで始まったルネッサンスを象徴する美術館で、メディチ家のコレクションである収蔵品の量と質は大変なものだ。建物はジョルジョ・バザーリの設計で1580年に竣工した。ローマの建築物はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの名前を何度も聞くが、フィレンツェの街ではそれがジョルジョ・バザーリになる。
ちなみにこのウフィッツィという言葉はこの建物がもとは庁舎だったことからそれを意味する。これは英語のオフィスの語源なのだ。言葉の起源というのは面白い。
ここでの一番の感動は何と言ってもサンドロ・ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」の本物を見れたこと。観覧者が多かったがかなり長いことこれらの絵の前から離れられなかった。
ここは写真撮影禁止なので写真がないのが残念。

昼食は近くのお店で済ませたがここのおじさんが傑作だった。顔も声もアル・パチーノにそっくりのかっこいいおじさんでてきぱきと仕事をこなしていたがBGMがノリのいいロックになると仕事の手を止めて踊りだしていた。
基本的にイタリアの飲食店で働く人はみんな楽しそうだ。客のほうまでウキウキしてしまう。

「ヴェッキオ橋」はフィレンツェのお約束スポットの一つ。アルノ川にかかるフィレンツェ最古の橋で、「ウフィッツィ美術館」と「ピッティ宮殿
」を結んでいる。橋そのものが建物になっており、なぜか宝飾店がたくさん入っている。2階部分はジョルジョ・バザーリの設計による「バザーリの回廊」。メディチ家の人はこの回廊を通って通勤していたらしい。今は肖像画コレクションが陳列してある。
 

 
「パラティーナ美術館」には1500〜1600年代の絵画が1000点以上ある。それを28の間に分けて展示してあるのだが どの間にどういうものがあるかのコンセプトがいまいち見えずに混乱してしまった。とりあえずはラファエロやティッツィアーノを見つけては鑑賞するという感じだった。
 

 
夕食は惣菜とフォカッチャとワインを買って宿のダイニングルームで食べた。なんだかフィレンツェに住んでるような気分になれた。窓から街並みが見えたが今夜はお祭りということで賑やかだった。
その楽しそうな雰囲気を味わうために食後のほろ酔い状態で再び街へ。ベッキオ橋のライトアップが美しかった。あっちもこっちもみんな楽しそう。明日はメーデーで休みなので今日はみんなオールナイトで遊ぶらしい。お店も深夜まで開いてるそうな。なんと楽しい日に来合わせたことか!素晴らしい思い出になった。





「美」

中世の 美は守られて ここにあり
古きはつねに 新しきかな