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「暗黒の地に光が」(マタイ:4 章12節〜 17節)
テーマ:『悔い改め』、悔い改めよう、天国が近づいた。
03.11.9. 和白教会にて。説教者:黄仁坤
カレンダを見ますと昨日が「立冬」であります。カレンダの上では昨日から既に冬がはじまっています。と言っても全然冬とは程遠い暖かさが続いています。一時的な現象でなく、多いに叫ばれている地球温暖化ではないかと思います。この間、九州に長く住んでいる年配の方が「もう長い間、氷柱を見かけることが出来ない」と言っていました。少なくともこの九州では「氷柱」とはもう既に死語に成っているかも知れません。その方は「このまま春になるのかな…」と言いながら笑っていました。
私はこのように温暖化が進みますと、二、三十年の後は「立冬」と言う表記もカレンダから消え去るのではないかと心配をしています。余計な事を心配する事を嘲笑して作られた言葉として「杞憂」という言葉があります。少しだけ申しますと、昔、中国に「杞」という国があったそうですが、その国のある人は天が崩れ落ちたら如何しようと思い悩んで、飲食を絶って寝込んでしまったそうです。周りの人々は全くそのようなことはあり得ないと諭したそうです。こういうわけで、「杞憂」という言葉が生まれたそうですが、私はこのように地球から冬がなくなるのではないかと、寝込んでいるほどではありませんが、心配をしています。しかし、私のこの心配を全く余計なモノであると笑って済ませることの出来ないのが現実ではないかと思います。
マタイによる福音書24章3節でありますが、この世の終わりにはどのような前兆があるかと弟子達がイエスに尋ねますとイエスはこのように答えます。大事なところでありますのでそのまま読みます。4節からでありますが、「そこでイエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者が私の名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人々を惑わすであろう。また戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい。あわててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。また、あちこちに飢饉が起こり、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。その時人々はあなた方を苦しみにあわせ、またころすであろう」。少し飛ばします。13節からであります「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。そしてこの御国の福音はすべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そして最後が来るのである」と記されています。
地球が誕生して45億〜50億年ほど経つと言われています。この「50億年前」と比べますとイエス様が誕生した2000年前とはまさにアッタと言う間であります。時計の文字盤で喩えますと12時を終わりとすれば、2000年前も今も同じく11時59分と言うことには変わりがないのであります。言い換えれば、終末の時代が2,000年続けられてきたのであります。教会はこの緊張感の中で2,000年間、立ち続け、また、この緊張の上で、希望と命を語ってきたと言っても過言ではありません。
さて、今日の聖書の個所は終末の近いその時に、勿論、今も終末の時でありますが、イエスが、どのような言葉をもって宣教を始められたかが記されている個所であり、イエスが語った中心的な教えでもあります。
まず、今日の個所でも中心的な個所だけをもう一回読みます。17節ですが、『この時からイエスは教を宣べつたえはじめて言われた、「悔い改めよ、天国が近づいた」』と記されています。ここでは他の福音書で使われている「神の国」という言葉の代わりに「天国」になっていますが、全く同じ意味であります。兎に角、教会とはこの呼びかけに心打たれて集まっている群れであります。また、イエスが約束した聖霊様によって集められ、互いがイエスの体をなして、再臨を待ち望む群れであります。であるからこそ、私達の教会も2000年前と同じく、この世に向けて「悔い改めよ、天国が近づいた」と叫ぶのであります。
このように教会はこの世にいながらして、この世とは分かたれたところに立っています。
また、この自覚がなければ、この世に向けて「悔い改めよ、天国が近づいた」とは到底語ることが出来ないと思いますが、この「天国が近づいた」と言う言葉には主に二つの意味を含んでいます。一つはイエスご自身によってこの世に天国が「既に」もう始められたという事であります。もう一つはこの世の終末はもう近いという意味であります。すなわち、最終の裁きが近いということであります。ですから、私達クリスチャンはイエス・キリストが支配している教会にもう「既に」集められ、「神の国」の市民とされていながら、未だに来ていない最終の裁きを待っているのであります。いわば、私達はこの「既に」と「未だに」の間の時代を生きているのであります。
教会はこのようにこの世と違う時間の流れの上に立っています。すなわち、この「既に」と「未だに」と言う止まっている時間の上に立っているとも言えるのであります。また、ある意味では私達はこの世と精神的に、空間的にも分かたれているところに立っています。妙な言い方ではありますが、私達の教会は今も相変わらず2,000年前の十字架の下に立っているのであります。このような言い方のすべては「終末」と言う言葉に集約されます。
「教会に通う」という言い方がありますが、私はこの逆の言い方がもっともクリスチャンには良いのではないかと思います。なぜなら、私達はこの世から教会に通うのでなく、教会からこの世に通うからであります。私達の体は確かに多くの時間をこの世で過ごしています。しかし、心と魂の本拠地は未だに来ていない「天国」であり、「既に」来ている「神の国」すなわち、教会であるからであります。この通いを通して先に悔い改めたものとして、また、この世に悔い改めを宣べ伝えるのであります。先週からの繰り返しになりますが、悔い改めとは神に立ち返ることであります。
12節を見ますと「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて」というくだりがありますが、これも先週少し申しましたが、これはバプテスマのヨハネが当時のヘロデ王に捕らえられた事を言っています。神の前に義人であるヨハネをヘロデは捕らえて殺すのであります。このようにイエスが神の国を宣べ伝え始めた時もこのように時代は悪かったのであります。
今日はあいにく投票日でありますが、昨日までは街角の彼方此方で候補者たちが選挙カーで遊説をしている光景を見ることが出来ました。度々教会の前を通りながら候補者と見られる人が私にも笑いながら頭を下げ、手を振ったりしていました。私に選挙権がない事を知っているのであれば、誰も私に微笑みは見せてくれなかったと思いますが、候補者たちは様々な公約を掲げています。今度の宣教はマニフェストの選挙と言って、特に公約が多かったのではないかと思いますが、このような多くの公約を掲げて互いがこの世の指導者であろうとして熾烈な戦いをしています。いわば、この世の王となろうとして、時には実現出来そうでもない事をも公約として掲げて多くの人々の関心を引き寄せよせ、票に繋げようとしています。
しかし、教会はこの世に微笑をもってでなく、深刻な顔をして、「悔い改め」の警告を発するのであります。ですから時には憎まれるのも仕方ない事かも知れません。
先ほどから度々教会はこの世から分かたれたところに立っていると言いましたが、私達の心の王はイエス・キリストであります。今、この世の王たちは改革だの、繁栄だの、強い日本だの、様々なキャッチフレーズを掲げて人々の歓心を買おうとしていますが、私達の王は未だにこの世に「悔い改め」を叫び続けているのであります。このような意味でも教会とはこの世とはくっきり分かたれています。
選挙を皮肉った言い方をしましたが、誤解のないために申します。この世の指導者を選ぶ事も大事であります。投票は権利であり、義務であります。礼拝が終わったら是非皆さん投票に行くことを期待しています。申しあげたいのは、この世の指導者達には私達のすべてを掛けることは出来ないと言うことであります。あくまで私達の心と魂を委ねべき方はイエス・キリストであり、イエスキリストが望む方向にこの世の国が進んでいくように祈り、また警鐘を鳴らすべきであろうと思います。
今日の個所の直前を見ますとイエスは悪魔によって試みられている個所であります。平たく言えば、悪魔にテストを受けている個所であります。そこで悪魔は自分の前で跪くとこの世のすべてをあげよと言います。この誘惑を怒りを込めてイエスは「サタンよ退け」と言うのであります。
おそらく、イエスが悪魔の誘惑通り、この世の王になろうとすれば、十分に王になったと思います。イエスは何回も5000人ほどの人が集まったところで「神の国」を語った事がありますが、その力量で人々の心を捉え革命をしようとしたのであれば、十分可能であったと思います。また、人々は中には、イエスの弟子さえもそれを願ってた人もいました。しかし、イエスはこれを拒んで、ただ地味な「神の国」を宣べ伝えるのであります。更に言いますと、イエスは宗教改革者として立っていたのでなく、私達の為に悔い改めの為の贖罪の捧げモノとして十字架の上でご自分を捧げたのであります。
私達にとって十字架は歴史的な事件でありません。すなわち2,000年前のゴルコタの丘で起こった事件ではありません。すなわち、このイエスの死を他人の死のように客観化して遠くの日本から眺めることの出来ないのであります。イエスの十字架の死は私達のように罪人でありながら、キリスト共に生きるモノにとっては、遠くにある「彼の死」ではなく、身近にある「あなたの死」であります。言い換えれば、イエスが生前親しくしていた「私と貴方」と言う呼び合っていた弟子達と私達は同じところに立っているのであります。なぜこう言えるかと言えば、私達には信仰によって、イエスを親しく「貴方」と呼ぶことが赦されているからであります。だからイエス・キリストと共にいると告白をするのであります。また、これによって私達とイエス・キリストの死と復活とに結ばれ、私達の罪が赦され、永遠を生きるのであります。
話を今日の個所に戻しますが、イエスは自分の育ったナザレを去り、カペナウムというところで宣教を始めたと記されています。ところが、このこのカペナウムは「暗黒の地」であると表現されています。ここには異邦人が多く住んでいたからであります。すなわち、神を信じていない人々の町をこのように暗黒の地であると言い表しているのであります。
この意味から見れば、今の日本は暗黒の地であります。多くの人々は科学が発達し、人間の知恵が発達し、経済が世界一だと誇っているかも知れませんが、でもイエス・キリストが王である教会から見れば、この世は暗黒の地であります。心の光りと永遠の命がないからであります。
何時かのメッセージでも申しましたが、日本の夜を人工衛星で写真を取ったのを見た事があります。ほぼ日本列島のすべてが明るく写られていました。殆ど二酸化炭素を出す石油による光りでありますが、この光が多いからであります。また、韓国も広いところが明るくなっていましたが、当時の中国はまだ暗く写られるところが多かったです。しかし、もう次期に、日本の人口の10倍もある中国も日本のように明るく写る日が来ると思います。それだけではありません。インドもそうであります。
例え、人口をあわせて20億もなるこの二つの国が、今の日本みたいになっていくと言うことは恐ろしい話であります。日本もこの中国に追いつかれてならないと危機感を持っています。そうなるとどれ程の二酸化炭素を吐き出すのでしょうか。この地球の温暖化がどれ程、速いスピードで進むのでしょうか。でも人々は暗黒の中で発展だの、豊だの、等を叫び求めているのであります。
終末がもう近いという危機感を持って私達は国と国とが競争し、対決する事を考えがければならないと思います。互いが地球を共有し、地球を生かして行かなければならないし、平和を作り出さなければならないと思います。富と欲と憎しみの支配の下に私たち自身を置くのでなく、赦し主、イエス・キリストの支配の下に戻る時、はじめて私達は少ない資源と富を分け合うことが出来るのではないかと思います。
この世に向けて教会が「悔い改めよ天国が近づいた」と言うメッセージ発し続ける所以であります。共にこの働きを担っていければと願っています。
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