2003年11月16日

「悔い改めにふさわしい実」(ルカ3・7〜14)
テーマ:『悔い改め』、私達の各々の生活の中で神の義を現すことが悔い改めの実である。
時:03.11.16、所:和白教会、説教者:黄仁坤。

 一年前の事を少し申し上げる事から話を始めたいと思います。去年の特別伝道集会には長住教会の白石先生をお招きしましたが、その際に、私は個人的に先生から話を聞くことが出来ました。先生は自分の事をとても口べたであると言っていましたが、確かに達弁でもなく、多弁でもありません。しかし、良く考え抜いて少なく語る言葉にはいつも重みがあると思っていました。先生との話の中から覚えているモノを申し上げます。
 私は今もそうでありますが、その時も牧師とはどう語るべきであるかと言う問いを常にもっていました。「何を」語るべきかは明確であります。すなわち、神様の言葉である聖書を語ること、また、イエスの体なる教会を語り、救われた喜びを語るという事には迷いがありません。しかし、「どう」語るべきかとなるといつも悩んでしまうわけであります。私のような口の重い者、知恵の足りない者が、罪深い者が、いったいどのようにしてイエス・キリストの愛を語ることが出来るだろうかと思うと自信がなくなるのであります。
 それで良く先輩の牧師に尋ねていますが、その時も白石先生に「牧師の仕事とは」と言うようなことを尋ねました。先生は『「住職」と言う言葉あるでしょう』と言いました。
 その字を見ますと「住む職」と言う二つの字からなっています。坊さんは寺で住む事が仕事であるというニュアンスの言葉であります。この言葉を糸口にして色々話をしましたが、「住職」と言う言葉のように、牧師も牧師館で住む事が仕事であるというような話をもしました。極めて平凡で、当たり前な事でありますが、牧師は牧師として牧師館で住むのも大事な仕事であります。すなわち、言葉だけをもって語るのでなく、生活をもって語る事が求められているのであります。それで、周りの方々はその生活を見て牧師を見るのであろうと思います。こう考えますと牧師館で住むという事はそう簡単な事ではもないように思われます。
 さて、今月は「悔い改め」をキーワードにしてメッセージをしていますが、今日も悔い改めを語っているバプテスマのヨハネの語りから共に聞きたいと思います。悔い改めとは繰り返し申し上げていますが、自分が神様の前で罪人であることを告白し、神に立ち帰る事であります。ところが、今日の聖書の箇所はこの悔い改めに相応しい実とは何かを具体的に語っている箇所でもあろうと思います。その答えは後で見る事にして、先に今日の聖書の箇所を順に追って見たいと思います。
 7節で、ヨハネは悔い改めのバプテスマを受けようと来ている人々を前にして大胆にも「マムシの子らよ」と呼びかけます。これ以上人を侮辱するような言葉はあまりないと思います。特にこの個所は創世記のアダムとイブを蛇が誘惑するような場面を連想させる言葉でもあります。ヨハネは目の前にいる人々、誘惑する蛇に喩えているのであります。また、彼らには自分の先祖にアブラハムがいるという誇りがありました。すなわち、彼らは選民として神に立てられたという自負の中で生きていました。しかし、8節ではそのような彼を前にして神は石ころからでもアブラハムの子を起こすことが出来ると言うのであります。そのような誇りは全く脱ぎ捨ててしまって、悔い改めに相応しい実を結ぶことを迫るのであります。とても厳しい言葉であります。聞く人の全人格を否定するような言葉であります。でも、人々はこれに反発をして、バプテスマのヨハネに石を投げようとしないで、バプテスマを受けるのであります。
 今日の個所ではありませんが、イエスもこのヨハネの言葉に負けないような厳しい言葉をもってある女性に臨んだ事があります。マタイによる福音書15章21節以下でありますが、自分の娘が悪霊につかれて如何しようもない女性がイエスに来て、娘を癒してくるように頼みます。すると、イエスは彼女が異邦人であることをもって「子供にあげるべきパンをとって犬にやるのはよろしくない」と断ります。しかし、彼女は自分が犬として侮辱されたことで怒るところか、自分は食卓の下にある犬であってもかまわない、食卓から落ちるパンくずでも良いからその恵みを頂きたいと願うのであります。イエスはこの女性を見て「女よ、あなたの信仰はみあげたものである。あなたの願い通りになるように」と彼女を祝福します。
 如何でしょうか。今日の個所でヨハネの「マムシの子」と言う呼びかけに反発をしない人々たち、また、イエスによって犬に喩えられた女性は自尊心を諦めた地に落ちた人であったでしょうか。必ずしもそうではないと思います。
 勿論、人が他人からこのような言葉で侮辱を受けながらも何の反応をしないのであれば、これを忍耐強い人であると褒めることは出来ないモノであります。それよりは自分の尊厳を諦めた如何しようもない人であると言われるでしょう。もし、私がこのような言葉をある人から言われたら、けしてそのままでは済ませる事はないと思います。兎に角、何かの反応をすると思います。しかし、バプテスマを受けようとしてヨハネに来ていた人々、また、イエスの恵みを願っていた女性もそのようなことをしなかったのであります。
 私より自尊心を守ろうとする心構えがなかったからだとも思われません。それより、もう後ろに下がる余裕をもっていなかったからそのような言葉に耐えていたと思います。すなわち、後ろにはもう全くさがることの出来ない絶壁であるのに、目の前からは危険が迫って来る時のような時の心境であったと思います。自分の自尊心のようなものをもう顧みる事の出来ない心境であったからこそ、このような言葉にも反発をしていなかったのであります。
 考えてみれば、それもそのはずであります。今、自分の娘が死のうとしているのに、あらゆる医者に頼んでみたが、駄目であった時の親の心を想像すれば、分かるような気がします。神に頼む以外、術がない事を知った時、イエスが多くの人々を癒しているのを目撃した人にとって、その他に何を選ぶことが出来るでしょうか。一歩も後ろにさがる余地がないのであります。
 このような危機感をもって神様に立ち返る者は幸いであります。神様に委ねることが赦されるからであります。また、この危機感をもって神様を呼ぶものは神様の声を聞くことが赦されるからであります。
 話が少し変わりますが、この間、金曜日に相撲を見に行きました。何時か是非相撲を直接見たいと願っていましたが、新聞社に勤めているある方が相撲のチケットをくださいましたので、見に行く事が出来ました。やはり直接見るととても見応えがありました。また、テレビで見るより土俵が小さく見えました。力士が立ち上がってから、一歩、二歩さがれば、土俵の外という感じでした。さがれば、負けなんですね。
 テレビで相撲の解説を聞きますと、良く「引いては駄目だ」と言います、例え、勝って
も善い相撲であるとは言わないのであります。この解説を土俵の狭さを見ながら納得しましたが、土俵とは後ろにさがる余裕も、相手を引く余裕もないところだなと思われました。力士は土俵に上がって、三回の仕切り直しをしますが、二回までは立ち上がらなくとも良いわけであります。いよいよ三回目になりますと行司さんが「待ったなし」と言います。こうなりますともう残された時間がないのであります。後ろにさがる余裕がありません。負けても、勝っても立ち上がって勝負に挑まなければならないのであります。まさに「待ったなし」であります。
 先週のメッセージで悔い改めを宣べ伝える教会は終末を生きる危機感をもって、この世に語りかけるモノであると申しましたが、終末を相撲に喩えますと、待ったなしを言われた力士のようなモノであります。前に進む事意外に何に対しても惑わされる事が出来ないのであります。これと同じく私達も神の前に進む他に何かに惑わされてはならないのであります。終末を生きる者がプテスマを受けることはこのようなものであります。例え、「マムシの子らよ」と言われても、この言葉に自尊心が傷つけられたとして「それ何!」と言う余裕はないのであります。
 もし、私たちが後ろに下がる余裕もってバプテスマを受けたのであれば、「クリスチャンになって見ようかな」と言う心でバプテスマを受けたことであります。すなわち、この「クリスチャンになって見ようかな」と言う言葉には「イエス・キリストに委ねなくともまだ大丈夫なのに」、「まだ明日があるのに」「他の道があるかも」という迷い、ないし心の余裕を意味します。しかし、皆さんも私も今ヨハネの前にいる人々と同じ緊張をもって、さがる余地のない所からバプテスマを受けたのであります。この緊張感は9節で良く現れています。「斧がすでに木の下に置かれている」と記されています。「明日、来月バプテスマを受ける」と言うのであれば、「私は明日も来月も生きている」という余裕であります。しかし、誰が明日のことを約束する事が出来るでしょうか。
 このような緊張の中で、厳しい言葉をもって呼びかけるヨハネに人々は「それでは私達は何をすればよいか」と尋ねます。また12節と14節を見ますと罪人の頭とされていた収税人も、兵卒も来て同じく「どうすれば良いか」と尋ねます。しかし、バプテスマのヨハネの呼びかけの厳しい言葉とは裏腹にその答えは極めて地味なものであります。収税人に向かって「収税人を止めなさい」ではなく、「決まった以上をとってはなない」でありました。また、兵卒に対しても兵卒を辞めなさいではなく、「人々を脅かしたり、騙し取ってはならない」というのであります。群集に向かっては特別に信仰的な、宗教的なことをするのでなく、「貧しき人々に施しなさい」というのであります。それがバプテスマの実であると言うのであります。調子が抜けてしまいそうな答えであります。
 イエスも同じことを言いました。ルカによる福音書19章1節以下でありますが、ザアカイという収税人を招き、また彼の家で泊まります。ザアカイをして収税人を止めてもう少しましな仕事をするように勧めるようなことはないのであります。それより、収税人のまま、悔い改めたザアカイが本当のアブラハムの子であるというのであります。
 悔い改めの実とは難しく考える必要のないことをイエスがザアカイを招いた事から、また、ヨハネの答えから知る事ができるのであります。また信仰とは私達の生活を奪い取るのでなく、私達の神が共にする生活へとの回復であります。
 悔い改めによって何か革命的な事をする必要はありません。また、悔い改めの実とは、何か急に出来るようになることでもありません。例えば、悔い改めたことによって異言が語るようになったとか、上手に祈ることが出来るようになったとかでなく、教師は教師として、お巡りさんはお巡りさんとして、牧師は牧師としてその場で神の言葉に従いつつ生きる事が悔い改めの実であります。ですから、信仰者は教会の中に止まることなく生活の場に戻ってから勝負をするのであります。
 教会でもっとも大きな声で神を求めるものが信仰熱心ではないのであります。牧師がもっとも信仰熱心な人ではないのであります。それぞれ生活の場でイエス・キリストの栄光を現すことが神様によって求められているのであります。言い換えれば、おのおのの生活の中で、神様に立ち帰った者に相応しい生活をすること、クリスチャンに相応しい生活をすることが悔い改めの実であります。
 今日の個所のなかでも、特に、多くの罪人がヨハネに来て、「どうすれば善いか」という問にたいして、生活に戻ってその場で、その悔い改めの実を結ぶように勧めるところをみて、仏教で言う「喫茶去」を思い出しました。悟りが何かと弟子の問に対して「お茶を飲んで帰りなさい」とある坊さんが答えたことから由来する言葉であるそうですが、悟りのために必要な言葉が別にあるわけではない。また、頭を丸めて袈裟を着る必要もない、ただ「お茶でも飲んで家に帰りなさい」であります。これは自分の生活の場に帰りなさいという意味であると思います。
 これと同じく、それぞれの生活に、仕事に戻ってそこで悔い改めの実を結ぶようにみ言葉が私達に言うのであります。
 信仰は信仰のための何かの業や、知識を獲得するものではありません。信仰は信仰者のの生活の中で神に委ねた者としての平安が、生活の中で神の栄光が現れるためであります。これが悔い改めの実であります。