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「主の食卓」(ルカ5 ・27 〜32 )
テーマ:『悔い改め』、主の晩餐の招待主はイエス・キリストである。
03.11. 30.和白教会にて。説教者:黄仁坤
早いモノでもうクリスマスを迎える準備をする時期となりました。今日は第一アドブェントであります。アドブェントには第四アドブェントまでありますが、クリスマスの四週の前を第一アドブェントと言う訳けであります。それで今日は一本目のロウソクに火が点されました。アドブェントとは「再臨」や「降臨」と訳されますが、この言葉で分かりますように、アドブェントの期間中に全部で四つのロウソクを立てますが、週毎に一つずつロウソクを灯すのは「主よ早く、来たりませ」と言う祈りでもあります。
2,000年前にすでにイエス・キリストはこの地上に来られました。そして天に上げられました。それで今は教会が目に見えるイエスの体として立っていますが、この体はイエスの聖霊によるものであります。すなわち、イエス・キリストの霊によって集められ、イエス・キリストの霊によって支配されるものであります。このようにして、教会はイエス・キリストの体でありながら、目に見える形でのイエスが再臨するのを待ち望みつつ歩む群れであります。いわば、これをもう一つのクリスマスとも言うべきでしょうか。
今月は「悔い改め」をキーワードにしてメッセージをしていますが、来月はクリスマスに因んで「聖誕」をキーワードにして、メッセージをしたいと思います。来月はゆっくりイエス・キリストがこの世に来られた事を感謝し、その意味を共に聖書から聞く時となればと願います。
話が変わりますが、先週の出来事の中で私達にとって大きなニュースはやはりダーリー先生の夫妻が日本に来られた事ではないかと思います。ダーリー先生はこの教会の開拓に携わった方であります。先週の日曜日にはダーリー先生がメッセージをして下さいました。そして、礼拝後には先生夫妻を囲んでの愛餐会をしました。
先生たちは今日は福岡教会でメッセージをし、午後にはアメリカに帰ります。短い滞在でありましたが、互いが主によって結ばれている事を確かめる事が出来て感謝です。先生たちはこれからしばらくは日本に帰って来れませんが、今も三苫での開拓教会の為に祈っていると言っていました。今は私たちがその祈りを受け継いで働く時であると思います。昨日も少し話を伺う時間がありましたが、和白教会が礼拝堂を立てる際に、連盟から借金をしていましたが、今年で完済されることをとても喜んでいました。暫く離れていて、また、当分戻る事が出来ないから教会の借金とは関係ないというのでなく、とても喜んでいたわけであります。
ところが、先生達は今日も福岡教会では礼拝を前にして愛餐会をもつそうです。朝の愛餐会とはあんまり聞きなれていない話でありますが、先生達の飛行機時間を考えると如何しても朝しか時間がないという事でそのようになったと思います。
ミヒャエラの話によりますとドイツでも礼拝を前にして、朝食をもって愛餐会をする教会があるそうです。ドイツでは一日三食の中で昼食がメインの食事でありますから、その時間は避けて、朝食をもって愛餐会とするという事情があるわけであります。
このように教会は何とか工夫してでも愛餐会を持とうとするのでありますが、これはイエスもこの世を過ごす時、良く弟子達と食事を共にし、大事にしていたこととも関連があると思います。それで聖書には良く食事の場面が語られているのであります。
長々と愛餐会の話をしましたが、教会の食事には愛餐会と主の晩餐と二つに分かれています。すなわち、「主の晩餐」は礼典としての食事であり、愛餐会とは礼拝を前後して肉の為の食事であります。しかし、元々この二つは同じものでありました。詳しく申すのはまた別の機会に譲りたいですが、この二つの食事はイエス・キリストが共にして下さる食事である事には変わりがありません。この何れの食卓にも私達を招く方はイエス・キリストであります。すなわち、人の招きによる食卓でなく、この食卓への招待主はイエス・キリストであります。
さて、今日の聖書の個所もイエス様が弟子達と食事をする場面でありますが、この食事をそばで見ていたパリサイ人々や律法学者達は間違っていると文句を言っています。パリサイ人々は律法をもっとも厳しく守っていた人々でありました。それで自分もまもっているからと言って他人にも守ることを押し付けていたかも知れません。不浄な者とは食事をしてはいけないと言うわけであります。また、律法学者とは何が信仰的であるか、また何が聖書的であるか、ここで言う聖書的というのは旧約聖書を指しますが、兎に角、このようなことを常に思い巡らす人々でありました。それで今目の前にある光景を見て、これは非信仰的であると言っているのであります。律法自体の限界であって、また律法を守ろうとする人間の努力の限界ではないかと思います。
今日の聖書の個所としてここを選んだ理由は何時か「主の晩餐」のある日に、この個所を通して「主の晩餐」の意味を改めて考えて見たいと願っていたからであります。と言うのは時々、人々から教会とは罪のない、清い人々の集まりのようで、なかなか教会に来る事も教会での交わりにも加わわり難いという話を聞くからであります。そのように言われると皆さんもほぼ私と同じ答えをすると思いますが、私は何時も「どんでもない。教会は罪人の集まりですよ」と言っています。このことを今日の個所ではイエスが「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。私が来たのは義人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言っておられるのであります。
今までどのような罪や過ちがあったかは教会では全く問わないのであります。これは勿論イエス・キリストの教えであると言っても良いと思います。問題は悔い改めて神を呼び求めるか、それとも罪の只中で、自らの力で善きものを決め、それを成し遂げようとするのかの問題であります。悔い改めて神の赦しを求めるものは幸いであります。赦しが与えられるからであります。
教会はけしって清い人々の集まりではありません。もうすでに自分が清いと思うのであれば、イエスの十字架の死は無駄であったと言う事であります。教会は罪人がイエスの十字架の前で悔い改め、イエス・キリストによって招かれた人々と共にイエス・キリストが語る愛によって生きようとする願いと祈りをもっている群れであります。
27節を見ればレビが収税所に座っているのをイエスは見て何の説明もしないで「私に従ってきなさい」言います。するとレビもまた何も言わずに従ったと記されています。レビは収税人でありました。当時の収税人とはローマ帝国への協力者であって、この故にまた、ユダヤ人への裏切り者とされていました。ある意味ではユダヤ人よる信仰の共同体からの逸脱者でもあります。また、多くの収税人は豊富な資金をもって金融業も兼ねていたそうです。ですから、周りの人々に全く嫌がられる人々であったわけであります。このレビを今の時代にどのような人に喩える事が出来だろうかと色々考えてみましたが、簡単に喩える事さえも出来ないほどであると思われます。周りの人々にとっては出来れば殺してしまいたいですが、彼の後ろにはローマ帝国があるからそうすることも出来ずに、歯軋りをしていたと思います。
このレビをイエスは招き入れるのであります。彼が黙ってイエスについていったのは人間のゴミ扱いをされていた自分をイエスが招いてくれた事がどれ程嬉しかったかを物語っているのであります。彼は一切を棄てて従ったとされていますが、彼は今まで形振りかまわず金儲けだけをしていましたが、それにまさる価値をイエスから見出したのであります。
彼は喜びのあまりイエスを自分の家に招いて宴会を設けました。これをみて宗教家達はイエスを非難しているのであります。29節を見ますと収税人やそのほかおおぜいの人々がこの宴会に集まっていました。
世には数々の宴会や集会があります。例えば、結婚式となりますと新郎新婦の友人や親戚などが呼ばれます。すなわち、その宴会の主が自分と親しい人や何かの縁がある人を呼び、また、呼ばれた人だけが出席をするのであります。そして、そこに出席をした人はその場に相応しい言葉や行動をするのであります。つまり、そこに集まった人々が招待主を祝福するのであります。これがこの世の大体の宴会ではないかと思います。
しかし、主が招いたところではこの世とは反対に招待主であるイエスが招かれた人々を祝福します。今日の個所でも罪人の代表格である人々が招待され、孤独が癒され、慰められ、その喜びのあまりにすべてを棄ててしまっても良いと思うほど祝福されました。主の招きに応じて礼拝に出席したり、主の晩餐や愛餐会に参加する事は祝福であると言う所以であります。
少し前に皇族を名乗る者が結婚式の披露宴を設けると言って多くの人々を招いてご祝儀を騙し取ったことで、世間の話題になりました。人々のこの世の権威への弱さに着けこんでの詐欺であります。時にはこの様に招待主が計画的に人を騙そうとする宴会や集まりもあります。しかし、イエス・キリストはご自分の体と血を人々に分けて、永遠の命に預からせるために人々を招いていたのであります。これをみて分かりますように、誰がその宴会や集まりの招き主かによってその集まりの性格が決まるのであります。教会の集まりは愛と赦しがその本質であります。
私が韓国にいる時の友人の中に、大統領警護室に勤務する人がいました。早いうちに出世をしたわけでありますが、その時はとてもかっこよく見えましたが、時々彼から面白い話を聞くこともありました。今は大分変わってきたようでありますが、彼がその職についていた時の大統領は絶対権力者として皆が恐れていた時代でありました。大統領に呼ばれて青瓦台に来る人はまず誰でも警護室を通らなければならないそうですが、例え、大統領との食事に呼ばれた人が来たとすれば、その人の身なりをまずチャックするそうです。大統領の前に出るのに相応しいかどうかをチャックするわけであります。もし髪の毛が乱れていれば、直してくるように言っていたそうです。これらは大統領の安全や儀典の為という名目でありますが、それには暗々裏、力を持ってでも諂いを強制する働きもあるのであります。
ここでの食事は美味しいものであるでしょうか。楽しいモノであるでしょうか。後になって自分は大統領に呼ばれて食事を共にしたと他人に自慢話をするためのネタになるかも知れませんが、そのような食事には平安と喜びはないと思います。それより高ぶりと諂いの中での食事ではないかと思います。私達を愛餐や主の晩餐に招いてくださる主(しゅ)は王の中で王であります。
私たちがすべての王なる主の招きに応じているのは恐れからではありません。私達の罪
深さを知り、また、それを主が赦してくださるから、主の招き応じているのであります。また、主の復活を聞いて永遠の命に与ろうとしてとして集まっているのであります。
教会の如何なる集まりであってもイエス・キリストが招き主であります。昨日は宣教師館の荷物を整理するのに多くの人々が集まって奉仕をしました。勿論、昨日だけでなく約一ヶ月前から多くの方々が手伝って下さいましたが、このような奉仕も主の招きによるモノであります。なぜかと言えば、教会は如何なる営みも主が共にしてくださいますし、教会の主(ぬし)は主であるからであります。
今日の聖書の個所の食事はレビの家で行われています。ですから当然この食事はレビが用意をしたと思われます。これはこの世の仕来りに従えば、招き主はレビであります。しかし、この食事への招き主はレビではなく、イエス・キリストであります。イエス・キリストによってこの宴会がはじめて信仰的な意味をもつからであります。
また、実際にパリサイ人々や律法学者達がその宴会を非難しているのを見て、レビではなく、イエスか前に出てその宴会の意義を彼らに説明しますが、もしレビが招待主であれば、レビが彼らの非難に対して弁解をしなければなりませんでした。しかし、イエスご自分が罪人を招いたと語るのであります。
人が人を招く時は凡そ、自分と気が合う人や主義主張が似ている人、または社会的な位置が似ているか、自分に利益をもたらしそうな人となります。しかし、主はそのようなモノは一切顧みないで招くのであります。めん鳥が自分の雛を翼の下で保護しようとする如く主は私達を自分の翼の下で平安を得る事を望む願いだけをもって私たちを招いているのであります。このように、教会はこのようにすべての人が互いの違いと差とを越えてご自分の翼の下に集めてくださった主による業であります。
今日は主の晩餐がありますが、この晩餐へすべての人をイエス・キリストが招いています。まだバプテスマを受けていない方もこの招きに一日でも早く答え、共に主の晩餐に加わることを待ち望んでいます。
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