2003年12月7日

「一つのしるし」(イサヤ7・10〜17)
テーマ:『聖誕』、共におられるイエス・キリストに助けを求めよう!
03.12.7.和白教会にて、説教者:黄仁坤

 今年も残すところ一ヶ月となりました。あっと言う間に年の終わりが近づいてきたような気がして、少し焦りを覚える時でもあります。でも、クリスチャンにとってはもっとも嬉しいクリスマスが近づいています。今日は第二アドベントであって、ご覧のように二つのロウソクに火がついています。私達はこのように一週毎にロウソクを灯しながら、クリスマスを待ち望んでいるわけですが、「待つ」という事はとても嬉しい心であります。おそらく、皆が似たような経験を持つと思いますが、子供の時、親は正月やお盆の為に新し服を用意してくれましたが、その日になるまでは着るのが許されていませんでした。それで親がいない時を計らってソット取り出して着てみたりしたものです。このような嬉しい事を待っている間は時間の流れが遅くなります。後、何回が夜が来たら正月になるんだなどと言いながら数えていたものであります。
 キリスト教を待つ信仰とも言いますが、「待つ」ことは希望であり喜びであります。例えば、遠くから戻ってくるはずの子供を待つ事は喜びであり、恋人が帰って来るのを待つのも喜びであります。子供が生まれるのを待つことも喜びであります。また、病が癒されることを待つのも喜びであり、計画を準備しその結果を待つことも喜びであります。この間ラジオを聴いていたら体中に管を通して治療を受けている青年が自分のお母さんに早く起き上がって、仕事についてお母さんを喜ばせたいと言っていたそうです。実は医者にはもう座ることも立つことも出来ないと言われているようであります。如何なる苦しみ中にあっても期待と希望を持っている人は幸いであります。
 これとは逆に待つべきモノがない事は絶望であります。「絶望」という字を見ても望みが絶たれたと言う字面になっています。すなわち、待つものがないという事が絶望と言うことになります。例え、今多くのお金を持っていても待つべきモノをもっていない人は貧しき人であります。
 ところが、私達は待っています。クリスマスを待っていますし、イエスが再臨なさる日を待っています。ただ年月を重ねることによって、年を取るだけでなく、また、この世が終わりに向かって進んでいるだけでなく、主が共にしてくれる日を待ち望んでいるのであります。これは絶対的な希望であります。この希望は私たちが準備したのではなく、神様が約束してくださった希望であり、喜びであります。
 さて、今月は「聖誕」をキーワードにして、メッセージをしようと思いますが、ワープロで「セイタン」を打って見たら「聖誕」が出て来るのでなく「生誕」だけが出てきました。意外だと思い、辞書を引いてみても「聖誕」と言う表題はありませんでした。すなわち、この「聖誕」は日本語ではないと言うことになるかと思います。しかし、私はこの字にこだわりたいと思います。何故なら聖書では「聖」と言う字が付くのは神の為に用意されたと言う意味であります。例えば、神に捧げるために用意された生贄やモノは「聖別」されたと言います。また「聖徒」と言えば、神によってこの世と分かたれた群れと言う意味を持ちます。それでイエス・キリストの誕生は神の計画によって、人々を罪から救うために用意された誕生と言う意味で「聖誕」と言いたいのであります。今日の聖書の個所は「聖誕」、すなわち、イエス・キリストの誕生が神様によってすでに旧約で予言されていた個所として良く用いられている個所であります。ですから、旧約時代から人々もイエス・キリストの降誕を神様の言葉として信じ、待ち望んでいたのであります。また、イエス・キリストは処女から生まれたとされています。この処女から生まれたとは人間の営みによって生まれたのでなく、神の計画によって生まれたと言うメッセージであります。
 今日の個所から共に聞くことによって、神様が、御子、イエス・キリストをこの世に送ったことで、私達に何を語ろうしているのかを学ぶ事が出来ればと思います。
 まず、今日の箇所の時代的な背景を先に見たいと思います。今日の予言がイサヤの口を通してされたのはB.C. 735年頃であります。これから約2800年前の時代であります。この時はアッシリヤが中近東はもうすでに手中に治め、世界を制覇できるかのような勢いをもっていた時代でありました。アッシリヤがヨーロッパまで遠征に行ってどれほど猛威を振るったかは色んな資料にも残されているようであります。
 このアッシリヤがこのような勢いをもつようになる約200年前にイスラエルは北と南とがすでに分断されていました。ご存知のようにダビデによってはじめて中央政権が出来、統一国家を建設する事が出来ました。そして、その息子ソロモン時代にはイスラエルがもっとも繁栄した時代でありましたが、このソロモンが王が亡くなると間もなく求心力を失ってこのように全国を治める事が出来ずに分断されてしまうんですが、それで、南をユダと呼び、北を「イスラエル」または「エフライム」とも呼んでいました。
 10節を見ますと「主は再びアハズにつげして言われた」と記されています。ここの「アハズ」とは南ユダの当時の王でありますが、世界事情が混沌としているその時、神様はこの王にイサヤの口を通して予言をしているところが今日の個所であります。
 先ほど言いましたように強烈な軍事力を持っているアッシリヤは世界制覇を目指していますので、周囲の国々は大変な危機感をもっていました。それで北イスラエルの王は南ユダに共にアッシリヤに対抗すべき同盟を結ぼうとします。しかし、南ユダはなぜかこれを拒むわけであります。そこで北イスラエルはシリアと同盟し、まず南ユダを屈服させようとしました。この威嚇にアハズは全く恐れおののいてしまいます。列王記下16章3,4節を見ますと彼は恐れのあまりに、自分の子を焼いて捧げ物とするなど異教の教えに従ったそうです。全く神を見失ってしまったわけであります。
 イサヤはこの北イスラエルとシリアの威嚇と攻撃に対してアハズにただ防衛するのに止まることによって、この危機を乗り越えるように言います。すなわち、アッシリヤに援助を求めて、北イスラエルとシリアとは積極的に戦ってはならないと言うのであります
 11節を見ますと「あなたの神に一つのしるしを求めよ、陰府のように深いところに、あるいは天のように高いところに求めよ」と記されていますが、これは陰府を選ぶか、あるいは、天を選ぶかはあなた次第であって、どちらをもって試してみるかと決断の促しています。ここの「陰府」とはアッシリヤに援助を頼むのは地獄であり、このことを陰府として表しているのであります。つづく「天のように高いところ」とは神の予言に従うことを意味しています。神様に助けを求めなさいと言う事であります。言い換えれば、自分の計略や智恵に従って強烈な軍事力をもっているアッシリヤに援助を求めるのは「陰府」であって、神にしたがうのは「天の高いところ」であり、生きる道であると言う意味であります。
 このように忠告をしてもアハズはイサヤの言葉尻を捕らえて「神を試みてはならない」とこの予言を拒むのであります。「神を試みてはならない」と言うのはイエスの言葉でありますが、これは元々申命記6章16節に出てくる言葉であります。このような言葉はある意味ではとてもカッコいい言葉であり、とても信仰深く見えます。しかし、今アハズは自分の都合を弁明するためだけにこの言葉を用いているのであります。イエスが発した時のこの言葉は城の上から飛び降りて見るようにサタンに勧められてこの言葉をもって彼の誘惑を退けます。ところが、アハズはただイサヤの予言を退けるためにこの言葉を用いているのであります。
 この言葉を受けてイサヤは、13節で「あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか」と言います。このカッコいい言葉をもって「私をも煩わし、神をも煩わそうとするのか」と言う意味であります。
 このような遣り取りの後に14節以下で有名な「インマヌエル」の予言がされるのであります。インマヌエルとはヘブライ語で「神我らと共にいます」と言う意味であります。
 この「インマヌエル」予言はマタイにも出てきます。すなわちマタイ1章23節以下にありますが、聖誕によって神が私達と共にいるとマタイ福音書は語っているのであります。マタイ福音書によりますと今日の個所での神の予言がイエスによって成就されたのであります。神は私達と共におられるのであります。遠くいるのでなく、助け主として私達と共におられるのであります。
 このインマヌエルの意味は後でもう一回見たいと思いますが、まず、15節以下の言葉をみますと、特に15節の言葉は象徴的な言葉になっています。すなわち「その子が悪を棄て善を知るころになって、凝乳と蜂蜜を食べる」となっています。ここは今言いましたように象徴的な言葉になっていますので色んな読み方があろうと思いますが、概ね、荒野で貧しき食べ物の事情においても、その他の厳しい状況においても、神様がその一人子を凝乳と蜂蜜のような単純な食べ物を持ってでも子を守ると言う約束であると言われています。
 これはマタイによる福音書をみれば、ヘロデ王の時代にイエスは生まれますが、ヘロデ王の手を避けて父親ヨセフは生まれたばかりの子を連れてエジプトに逃れていったりしましたが、神の約束通りイエスの成長は守られるのであります。
 話を今日の聖書の個所に戻しますが、16節で「あなたが恐れている二人の王は地に棄てられる」となっています。シリアと北イスラエルは神によって棄てられると言う意味でありますが、この言葉通り間もなく北イスラエルとシリアは滅びていくのであります。また、南ユダにもエフライムと(ここでのエフライムとは北イスラエルの別名でありますが)、ユダが分かれた以来最も厳しく時代を迎えると語られているのであります。もっとも「厳しい時代」とは17節で言うように今アハズの王が頼りにしようとしているアッシリヤ王であると言うのであります。後に南ユダは自分達が頼りにしていたアッシリヤの隷属国となってしまい、朝貢捧げ続けなければならなくなるのであります。まさにもっとも厳しい時代を迎えなければならなくなったのであります。このようにしてイサヤの予言は悉く成就して行ったのであります。
 最後に、インマヌエルの意味を改めて見る事にしたいと思います。インマヌエルとは先ほども言いましたように「神我らと共にいます」の意味であります。イエス・キリストがこの世に来られるまでは神様は律法の中でご自分の計画を成し遂げようとしていましたが、イエス・キリストの時代になっては、イエス・キリストを通して、自分の表そうとしています。イエスは神様の言葉自体でり、すべての力を備えている方であります。その方が自分に呼び求める者には助けの手を伸ばそうと待っておられるのであります。このように、神は私たちの心と私達の間を住みかとしているのであります。
 「インマヌエル」とは私達はこのようにとても優しい神の約束として受け止めていますが、イサヤがこの予言をする時はこのように優しいニュアンスだけの言葉ではありませんでした。当時の預言者は、常に神様の言葉をもって人に臨む時は「神があなた方と共にいますように」と語りかけます。繰り返しになりますが、インマヌエルとは「神我らと共にいます」と言う意味であります。すなわち、イサヤがこの予言を発した時は「あなた方と共に」という祝福の意味ではなかったのであります。
 イサヤは懇ろにアハズに神のみ旨に従うように語りましたが、彼はこの言葉を受け入れよとしないで彼は自分の思い通りアッシリヤの力に頼ろうとしているのであります。自分の思いが神様に勝っていたのであります。それでイサヤは神はあなたと共にいるのでなく、神は私達と共にいるという宣言をするようなったのであります。
 今はイエス・キリストの名を知らない人はいない時代であります。まさに私達と共にしているのであります。このイエスを主と告白することはすべての人に開かれています。イエスを主と告白することはすべてのことにおいてイエスに助けを求めながら生きると言う決断であります。今日の個所でのアハズのように人に助けを求めるのでなく、また、自分の力だけに頼るのでなく、イエス・キリストに助けを求める者は幸いであります。必ず答えてくださるからであります。これからもこのイエスを共に主と告白しつつ共に歩みたいと願っています。