2003年12月14日

「キリストによって義とされる」(ローマ5・12〜16)
テーマ:『聖誕』、イエスは私達の罪を取り除くために神が用意した生贄である。
03.12.14.和白教会にて.説教者:黄仁坤

 昨日は子供たちと共にクリスマスを祝うことが出来ました。多くの子供たちの心に御言葉が蒔かれたわけであります。また、教会とは楽しいところである事を知らせることが出来たと思います。子供たちに御言葉を伝える事は教会に託された大きな業であります。
 昨日、子供クリスマスが終わって、家族と近くの中華料理屋に行って夕食をしましたが、食事の前に短い感謝の歌を歌いました。いつもそうしている訳ではありませんが、昨日はそのようにしたかったのであります。私たち夫婦は隣の人に邪魔にならないように小さい声で歌いましたが、歌い終わったらナオミが大きな声で「アーメン」と言っていました。
 マルコによる福音書10章14節に「幼子を私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような幼子のような者の国である」という言葉を思い出しました。大人の岩のような心にみ言葉を蒔くより幼い心にみ言葉を蒔いて育てていくことが大事であります。
 子供の時、聞いた一言が一生を左右する事も良くあります。ですから、小学校の先生の働きは極めて重要であると言われるわけでありますが、私の小学生の時、良く褒める先生でありましたが、担任先生が私の事を親に「責任感の強い子である」と褒めてくれたことを覚えています。それで私は何時も「責任」と言う言葉を大事にしようとして来たような気がします。子供は言葉によって育つものであります。これからも子供達に神の愛を語り、神の愛を以って育てる事が出来ればと思います。子供クリスマスの為に多くの時間と努力をもって奉仕してくださった方々に神様が祝福してくださることを祈ります。
 もう一つこれもクリスマスと関連のある話でありますが、この間の水曜日には私達の聖歌隊が博多駅近くの「友愛苑」という老人ホームに行って賛美をもって奉仕をしました。これも福音を分かち合う大きな働きであります。涙流して喜んでいた方がいたそうです。感謝です。
 これも嬉しい事でありますが、今日はまた一人の兄弟と一人の姉妹がこの教会に加えられました。心から歓迎します。これから共に主にある兄弟姉妹として喜びも、悲しみも共に分かち合いながら信仰生活をしていきたいと願います。
 嬉しい話をしましたが、私にとって恥ずかしい事を少し明かしたいと思います。先々週のことでありますが、夕食の準備の出来ずに、近くの弁当屋に弁当を買いに行きました。その店は駐車場がなくて店の前に車を止めなけばなりませんが、その日は店員さんに確認をして大きな道から少し入ったところに止めました。間もなく。クラクションの音がして慌てて店を飛び出ると若い人が厳しい言葉で罵っていました。「すみません」と言って、急いで車を避けましたが、後ろから若い人が三人降りてきて、夜なのにサングラスを掛けた人、迷彩服を着ている人で、大変の怖い顔をしていましたが、私に車から降りるように言っていました。降りると私を囲んで、更に「謝れ」と言っていました。『先ほど「すみません」と言ったでしょう』と言うとその言葉がまた気に入らなかったようで、更に声を張り上げていました。
 確かに私が迷惑をかけましたが、遣り取りをしているうちにそれほど大変な過ちを犯したのかなと思われ、段々腹が立ってきました。でも、仕方なく色々弁明をしたり、反論をしたりしながら、私は近くの教会の牧師であると言って、更に何か言いたい事があれば教会に来て下さいと言いました。それから幸いに彼らはそれ以上、声を張り上げようとはしませんでしたが、兎に角、腹が立って仕方がありませんでしたが、彼らは私の一寸した過ちを全く見逃そうとしませんでした。
 そのような事が積み重なると人間不信に落ちってしまうのではないかと思いました。おそらく彼らには心のゆとりがなかったと思います。何時も苛々していて、何時も何かに怒り、不満をもっているので一寸した人の過ちを見ると堰を切ったかのように罵ってくるのではないかと思います。世の中にはそのような心で過ごしている人が余りにも多いのではないかと思います。肩がぶつかっただけで殺してしまったり、眼つけられたと言う理由だけで殺してしまったりしたと言うニュースを時々聞きます。それで、多くの方々はそのようなつまらない事で大変なことに巻き込まれないように気をつけながら暮らしているのではないかと思います。ストレスの多いこの世の中であります。
 さて、今月は「聖誕」をキーワードにしてメッセージをしておりますが、今日の聖書の個所はイエス・キリストがなぜこの世に来なければならなかったのかを教理的に語っている所であります。今日の個所はパウロによる手紙でありますが、パウロ視線から今日の箇所を読めば少し分かりやすくなるのではないかと思います。
 パウロは敬虔なユダヤ教の信徒であって、徹底的に律法、すなわち、ユダヤ教が語る規範を徹底的に守ろうとしていました。彼にとって律法を守ることが命であったわけであります。しかし、彼には喜びがなかったのであります。自分を何時も律法と言う枠にはめようとすればするほど虚しさだけが大きくなっていったのであります。そのような苦しみの中で復活のイエスに出会い、律法を守ることが人を正しい者とするのでなく、イエス・キリストへの信仰によって人は神の前で正しい者とされることを知らされるようになったのであります。その視点でパウロは自分の手元にある旧約聖書を読み直しているのであります。今日の個所は彼のそのような視点を窺い知ることが出来る個所であります。
 12節で「一人の人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入って来たように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである」と記されています。このみ言葉は私達の信仰者にとっては大変聞きなれています。しかし、信仰のない方が聞けば、何の話かさっぱり分からない話であろうと思います。罪がなぜ「一人の人間によってこの世に入ってきた」と言うのか、罪というのが伝染でもするのか、また病気や事故などで亡くなることは分かるけれども「罪によって死ぬ」と言うことは何のことであろうか、死刑でも値する罪を言うのかなどと思い巡らし、最後には笑ってしまうかも知れません。
 これは罪が遺伝子に組み込まれて遺伝すると言う話でもなく、また、風邪のように伝染すると言う意味でもありません。人間に与えられた自由意思によって神から離れてしまったことを言っています。そして、神を離れる事を「死」であるとパウロは言っているのであります。今日のメッセージの結論めいたことを先に言いますと、パウロは自由意思を持って神から離れるために用いるのでなく、神に従うために用いられなければならない、そして、そこに命がある言うのであります。
 もう少し丁寧に見ますと、ここの12節の「一人の人」とは創世記3章以下に記されているアダムのことであります。彼は神様が禁止しておいた善悪を知る実を取って食べて目が開かれるようなったと記されています。すなわち、これで自分が善と悪を決定するようになったのであります。自分が美しいと思われるところ、善しと思われるところに従うようになったのであります。これを私達が度々用いる言葉に置き換えますと人間は自由意志を自ら獲得したと言うことになります。
 如何でしょうか。自由意思とは人間にとってそれほど確実で、また、絶対的な価値であるでしょうか。絶対的な価値とはこれは如何なる場合においても放棄することも出来ないし、これ自体だけでもうすでに完全無欠な価値と言う意味でもあります。すなわち、これ以上にここに何かを付け加えることも出来ないし、何かを引くことも出来ないという意味でもあります。しかし、人間にはそのような確実で、絶対的な自由意思はありません。自分がそのような自由意思を持っていると思うのであれば、それは錯覚であります。このことを今日の個所の話にあわせて言いますと、アダム以来の人々はそのような錯覚の下で神に反逆をし、死に至るようになったと言うことになります。言い換えれば、自由意思と言う錯覚の下で神を見失ったと言うことになります。
 少し難しそうな話になりましたが、もう少しだけ致します。私が昔、買っておいた法哲学のような本があります。来栖三郎と言う有名な学者による本ですが、タイトルは「法とフィクション」であります。その中の一つの章に「フィクションとしての自由意思」が設けられていました。すなわち、このタイトルが言うように彼は自由意は架空であると言います。詳しくは引用しませんが、その章のある部分だけを少し自分なりの言葉をもって要約しますと「人間の行為は自由であると見られる。それ故に責任を負うと見られて、このことは自然の出来事のような必然的な事とは対比され、これを自由意思であると言う。しかし、これは自己矛盾である。何故ならば、何の原因もなく目的もない絶対的な自由な行為があるとすれば、それはただ偶然と言うべきである、すなわち、如何なる因果関係も持たないのであれば、それは偶然ある。従って、偶然と自由意思とは両立出来ない」と彼は言います。それで彼は自由意思とはフィクション、すなわち、錯覚であると言うのであります。 
 人間の行為は自分の歴史の中ですでに設定されている条件によって大きく支配されるのであります。全くの自由意思は存在しないのであります。ですからある意味では自分で責任を負う事も出来ない条件と共に、罪と不条理の中で苦しむ弱い存在であります。
 自分は人の為と思ってやったことが分かってもらえないで、裏目に出ることも幾らでもあり、何か大きな歴史の渦巻きに巻き込まれることも幾らでもあります。自分は絶対正しいと言える人はこの世に一人もいないのであります。
 今日の聖書の個所に話を戻しますが、14節を見ますと「アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じ罪」云々となっていますが、このアダムとモーセの間といえば、まだ律法が与えられていない時代であります。しかし、善悪の基準としての律法がなかったとしてもアダムと同じ罪によって、すなわち、自ら獲得した自由意思によって多くの人々は罪を犯し、死を免れなかったとパウロは言います。罪の源はこの自由意思であると言うのであります。
 先ほどパウロの視点からこの個所を読めば分かりやすくなると申しましたが、パウロが見るにはこのように罪の源は人間の自由意思にあるのに、当時のユダヤ人は律法を守れば罪から自由になれると思い、また、そのように語られて来た訳であります。それで機械的に律法を守る人は正しい者、守れない人は正しくない者という等式が出来たのであります。繰り返しになりますが、パウロは当時の律法と歴史が求めるこれにしたがって、徹底的に自分をこの律法の枠にはめようとしていたのであります。
 制限速度30キロの道では31キロと言う律法違反にならないように徹したのであります。それで、例えば、隣の人が31キロでも走れば、クラクションでも鳴らして違反を告げるような人でありました。
 これは余談ですが、たまに私は志賀の島にドライブに行きますが、ただのドライブでありますから殆ど制限速度で走りますと後ろからクラクションを鳴らされたりします。
 話を纏めます。今日の聖書の個所はユダヤ人の信仰の歴史を大きく三つに分けているのを分かります。すなわち、律法のないアダムからモーセの時代、律法のモーセからイエス・キリストまでの時代、そして生きた律法としてのイエス・キリストの時代であります。
 私達はイエス・キリストの時代を生きています。イエス・キリストが律法であり、言葉であり、命であります。私達の罪と弱さの為に捧げられた生贄であります。すなわち、自由意思のままの私たちはイエス・キリストと共に死に、イエスを主と告白する者として清められ、永遠の命が約束されているのであります。イエスはその為の生贄としてこの世に来られたのであります。クリスマスを祝う所以であります。
 ですから、私達は律法の時代のようにカチカチになって自分を、また他人を律法の枠にはめようとする必要はありません。私たちが罪と弱さの只中にいながら赦され、生かされている事を感謝すること先であります。自由意思を誇り、自分の責任をもって罪を背負って行こうとするのでなく、イエス・キリストによって罪深さを気づかされ、また赦された者として歩む事が求められる時代を私たちは生きているのであります。