2003年12月21日

「いと高き者の子」(ルカ1・26〜33)
テーマ:『聖誕』、聖なるイエス・キリストが常しえに私達と共にする。
03.12.21.和白教会にて、黄仁坤

 いよいよ今日は四つのロウソクに火が灯されました。この三週間をクリスマスが来ることを祈りと共に待ち望んでいた期間であるとすれば、今日からはイエス・キリストの誕生を祝う期間であります。今週はあいにくも天皇の誕生日もある週でありますが、天皇が日本の象徴的な王であるとすれば、イエス・キリストは父なる神によってすべての国々の王として立てられた方であります。私達はこの王を「主」と告白しています。この告白の時からイエス・キリストは救いと平安の為の象徴的な王ではなく、実質的に私達の心と魂の王となられ、喜びと平安を与えて下さるのであります。その方の誕生を感謝するのが、クリスマスであります。
 今日は、また先ほど信仰告白をお聞きしましたが、田村姉妹のバプテスマ式がある嬉しい日であります。この間、今日のバプテスマの準備のために姉妹の話を伺う事が出来ました。なぜか、幼い時からクリスマスの劇を見たりすると涙がこぼれたそうです。すでにその時から神様は姉妹の心を捉えていたかも知れません。しかし、長い間、様々な人間的な思いによって、バプテスマを受けるのが今日まで先延ばしされていたと思います。ところが、神様は今日を備えて下さったのであります。イエス・キリストの誕生を祝うこの日に、田村姉妹が心にイエス・キリストを主として受け入れる事を共に感謝できることは素晴らしい事であります。イエス・キリストを主と告白することは今日の聖書の個所のすぐ後にある言葉でありますが、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と言う告白と本質的に同じであります。
 まさに、田村姉妹のバプテスマと共に、イエス・キリストを愛する心、従おうとする心が姉妹の胸に生まれる日であります。このような意味で、今日が姉妹にとっての本当のクリスマスであります。これから神様が豊かに祝福し、ご自分の娘として常しえまで導いてくださると信じています。
 さて、今日の聖書の個所はクリスマスに因んだ個所でありますが、今日の聖書の個所である一章は「喜びの章」であると言って良いと思います。イエス・キリストをみごもった事を知らされてから、イエスの母マリヤが歌ったいわゆる「マリヤの賛歌」のある箇所であり、また、バプテスマのヨハネの誕生を喜ぶザカリヤ預言が語られている個所であります。今日の個所から共に御言葉を聞きながら、この喜びを分かち合えればと思います。
 勿論、この一章には喜びだけがあるのではありません。始めにマリヤは処女の身でみごったことに対しての恐れがありました。また、ザカリヤは子供の出来ない自分の妻がみごもったと言う告げを聞いては信じる事が出来なかったこともありました。しかし、マリヤの恐れはやがて、「お言葉どおりこの身になりますように」と言う告白と共に喜びに変わり、ザカリヤの疑いは現実になって行くのであります。ですから、先ほどこの一章を「喜びの章」であると言いましたが、それより、恐れが平安と喜びに、疑いが現実に変わったいく時の二人の「驚きの章」と言ったほうがより良かったかも知れません。
 もうすでに幾つかの聞きなれていない名前を申しましたが、順を追って読んで行きたいと思います。26節に「6か月目に御使ガブリエルが、神からつかわされて」と記されいますが、ここで天使の名がガブリエルと紹介されています。詳しいことは知りませんが、この名はダニエル書に現れる天使の名であります。その名がルカによって用いられただろうと推測されます。兎に角、26節の始めの「6ヶ月目に」と言う言葉で分かりますように、マリヤに受胎告知がされる前に誰かが先に妊娠して「6ヶ月」にないます。そこで、ガブリエルと言う天使が現れてイエス・キリストがマリヤの身に託された事を知らせるのであります。すでに知っている方が多いとは思いますが、マリヤより先立って身重になっていたのはエリサベッツと言う人であって、彼女の夫の名はザカリヤでありました。そして、このエリサベッツとマリヤとは親戚関係でありましたが、ザカリヤとエリザベッツの間に生まれたのはバプテスマのヨハネであります。このバプテスマのヨハネについて先月やや詳しく取り上げましたが、彼はイエスより6月上の兄であったわけであります。
 この二人は生まれる前から出会っていました。互いが母の胎内にいる時でありますが、二人の母が妊娠の身で会うと、体内にいたヨハネが喜び踊ったとされています。このように二人の出会いは神様がすでに生まれる前から計画をし、後にはまた二人をそれぞれご自分の計画のしたがって用いたのであります。
 ところが、このバプテスマのヨハネの父、ザカリヤは祭司でありました。1章8節を見ますと「さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務めをしていた時」と記されているわけであります。彼はこのように祭司でありましたが、神の奇跡的な業などは信じていなかったようで、いわば、理性を働かせて神様を受け入れ、その理性の枠の中での信仰をもっていたようであります。何故こう言うかと言えば、彼が祭司の務めの当番になって聖所に入った時、不妊の妻に子供が生まれる、そしてその名をヨハネとしなさいというガブリエルによって告げ知らされますが、彼は「そんな事があるでしょうか」とそのつげを退けるのであります。すなわち18節を見ますと「どうしてその事がわたしに分かるでしょうか、わたしは老人ですし、妻も年をとっています」となっています。このように丁寧にザカリヤは言っていますが、乱暴な言い方で言えば、「不妊の女性に子供が生まれるなんてわたしには訳の分からない話だ。そんな話やめてください」と言う意味であります。
 不妊の女性が子供を持つようになったことも、また、処女が子供を持つようになったことも奇跡でありますが、聖書にはこのような奇跡の物語が沢山出てきます。例えば、イエスが水の上を歩いたとか、イエスが病人の上に手をおくと忽ち治ったとかそのような話が度々出てきます。良く信仰のない方はそのような事があり得るかと笑ってしまいますが、これはただのおとぎ話でなく、神様の業は人間の理解を超えたところで働くと言う証言であります。すなわち、神様は人間の理解や知力の範囲を超えて存在する方であるということであります。それで、イエスはこの地上でお過ごしになった時、自ら多くの奇跡を持って神様の業を具体的に示したのであります。信仰とはこのように私たちの理解を超えて存在する方への呼びかけであります。またそのような呼びかけには神様は答えてくださるのであります。
 ザカリヤは祭司として色々聖書を学び、思い巡らし、祭壇の前で香を炊いてはいましたが、神様の業を自分の理解の範囲で理解しようとしていたのでありました。このように、ザカリヤは神様の言葉を信じなかったことで忽ち、暫く言葉を喋ることが出来なくなり、ガブリエルが告げた通り、自分の妻によってヨハネが生まれた時、はじめて、神の業を否定していた口が開けて舌がゆるみ喋る事が赦されるのであります。
 このように赦されては彼は神様を心から讃えざるを得ませんでした。自分の信仰の姿勢を悔い改めざるを得なかったと思います。その賛美が68節以下でありますが、「主なるイスラエルの神は、ほうむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、私たちの為に救いの角を僕ダビデの家にお立てになった。古くから聖なる預言者の口によってお語りになったように」と賛美をします。すなわち、不思議な業をもって自分を顧み、その不思議な業は古くから語られていたことであると言うのであります。
 このようにザカリヤは自分の目の前で神様の言葉が成就されるのを見て、本当の神様の業を知るようになりますが、このザカリヤと対比されるのが、イエスの母マリヤであります。マリヤも始めには結婚前の女性として子供を生むと言う事に対して大変恐れてしまいますが、ザカリヤのように天使ガブリエルにそのような事があるんでしょうかとは言わなかったのであります。
 神様は私たちをどのように用いようとするのかそれは未知であります。未知であるから恐れもあります。勿論、神様なんか信じないですべて私が私の人生を計画し、私が希望することだけをする。それが満たされるか満たされないかはもっぱら私の努力と能力の次第であると信じている方がいるでしょうか。そのような強い信念をもっている方には未来への恐れもないかも知れません。
 しかし、私たちの信仰者は私が自分の人生を支配するのでなく、神様に支配されたいと言う祈りを持っているのであります。ですから、時には先の道が示されない時であっても「従います」と言うのであります。しかしながら以前として人間的な限界の中で恐れは残ります。神様はそのような私たちに「恐れるな」と命じるのであります。この「恐れるな」と言う神様の言葉に「アメン」と答える者は幸いであります。けして神様は自分の僕を見放す事がないからであります。
 マリヤを見ても結婚前に身重になるなんて到底受け入れることの出来ない事柄であります。しかし、マリヤは「私が希望する通り、私が計画する通り、あなたが助けてください」と言うのでなく「見言葉どおり、この身になりますように」と言うのであります。
 このようにルカによる福音書は始めにイエスとヨハネの誕生を交差させて語りながら、マリヤとザカリヤの信仰を対比させていますが、もう一つ大事な対比があります。大事な対比と言うより決定的な違いでありますが、イエスとヨハネとの存在価値の違いであります。結論から言いますとイエスは「救い主」であって、ヨハネは「偉大なる預言者」であると言うことであります。
 今日のメッセージのタイトルにもなっていますが、イエスはいと高き者の子であって、救い主であります。ヨハネはそうではありません。すなわち、35節でイエスに対しては「神の子」と称されていますが、ヨハネについてはそのような呼称は何処にもありません。ただ76節で「幼子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう」とされているだけであります。
 ヨハネの父親は祭司であります。ですから、ヨハネは幼い時から信仰的な仕来りと教えの中で育てられただろうと推測されます。多くの聖書の知識も与えられたでしょう。そのような親の期待に沿って彼はユダヤ教からはややはみでてはいましたが、修道者として教団を作り、指導者となりました。しかし、このような修道と学びには限界があります。すなわち、そのようなものは所詮人間の智恵と力との限界の中にあります。
 一方、イエスは父親としての影の薄いヨセフの家庭で育てられました。すなわち、ヨセフはイエスが子供の時には良く面倒を見ていたと記されていますが、イエスが成長するにつれて段々影が薄くなり、イエスがバプテスマを受けてからは全く名が上げられなくなります。子供の時、母子家庭であると言われていたかも知れません。このようにヨハネとイエスの家庭的な環境、信仰的生活の状況などを比べて見るとイエスが不利でありました。
 そして30歳になるまでは大工の仕事をしていましたが。バプテスマのヨハネにバプテスマを授けられた後は生まれる前から告げられていた「救い主」として活動を始めるのであります。また、ヨハネも預言された通り、イエス・キリストに先立ってイエスの道を整える者となるのであります。
 ここで分かりますように、イエスは人間的な営みによって、また自分の努力や知識によって私たちの王となったのでなく、神様の計画によってであります。信仰的な仕来りや聖書の知識においてはイエスよりヨハネが優れていたかも知れません。しかし、神様はヨハネを以って救い主としないで、ご自分の独り子イエスを以って人々を救うための聖なる方とし、限りなくヤコブの家である教会を支配者とし、イエス・キリストの名を呼び求める者に永遠の命を与えると約束されたのであります。これからもこのイエス・キリストに共に仕えながら歩みたいと祈っております。