2003年12月28日

「一人子なる神」(ヨハネ福音書1・14〜18)
テーマ:『聖誕』、神のみ旨をイエスが悉く私たちに現した。
03.12.28.和白教会にて、黄仁坤

 一昨日からかなりの寒さが続いています。まだ、冬が残っていたと思われてこの寒さが少し嬉しいですが、でも、風邪には気をつけながら過ごしたいと思います。今日は今年の最後の礼拝であります。また、今週には新しい年を迎える元日もあります。まさに、古いものと新しいものが入れ替わる週であります。一年間、私たちを守ってくださった神様に感謝します。そして、神様に来年も私たちを委ねて生きることが出来たらと思います。今週はその為に心を整える一週でありたいと願います。
 イランでは大きな地震があって、大変な被害者が出たようでありますが、自然の威力を見せ付けられたような気がします。世界からの支援と共に一日でも早く復興される事を祈るばかりです。私にとってのもう一つ大きなニュースを紹介します。もう二年以上が過ぎようとしていますが、大阪教育大付属池田小学校に詫間守と言う人が乱入し、児童8人を殺害した事件がありました。この事件は私たちの記憶にまだ新しいですが、彼は死刑が確定されています。最近、彼が彼を支援してきたある女性と獄中結婚したとそうです。私には色んな意味でかなりのショックでありますが、とりあえず、彼女がどのような心でそのような決心をしたのか聞きたくなりましたが、もし真剣に考えてからのことであれば、敬意を表したいと思います。
 私はこの事件があった直後ある方々とこの事件について話をする機会がありましたが、その時、彼らはあのような者は死刑に処するのは当たり前であると言っていました。私は元々死刑制に反対でありましたし、クリスチャンになってからは、人間の命は神様からのモノであるから、人間がこれを如何なる理由と制度とをもってでも奪ってはならないと思っていましたので、彼らが憤ってそのような話をしているのに、敢えて私は死刑するのは反対であると言いました。すると彼らは私が牧師であると言うことを知っているのにも関らず、すなわち、牧師であるから、立場上そのような意見を持たざるを得ないだろうと言う詮索さえもしようとしないで、「お前は偽善者だ」と言わんばかりに私を睨み付けていました。しかし、私も勿論、詫間のような犯人は町から永久に隔離する必要はあると思います。すなわち、無期懲役をもってそのような危険な人を隔離しなければならないと思っていました。しかし、私の思いはそれ以上は及びませんでした。
 多くの方々の憤りの中で、詫間死刑囚はわざわざと弁護団が控訴していたのを自ら取り下げて死刑を確定させました。彼は幼い子供の命を奪ったことに対して反省の言葉を一言も語らないようであります。ですから、罪を命をもって償おうとして死刑を確定させたわけではありません。これは彼なりのこの世への挑戦するつもりで、そのような行為をしただろうと思います。死刑は恐怖のどころか、むしろ喜びであると言ったりして自分の蛮勇と愚かさを見せびらかしているわけであります。このようして、自分の心の隙を見せない事をもって、この世にたいして彼なりに抵抗をしているのであります。
 しかし、彼は死刑が確定された後、例の女性が結婚をしたいという申し出と共に婚姻届の妻の欄にサインをして彼のところに送ると彼も夫の欄にサインをして送り返したそうです。心の支えになりたいと言う彼女への反応であります。彼のそれほど頑なで、凍りきっていた心に揺れが生じたと思われます。これから彼は人間の心の温かさを知り、泣くことの出来る人になる可能性が出来たと思います。兎に角少なくとも彼女との別れでも悲しんでほしいのであり。ます。死刑になる前に遺族に謝罪の言葉を語るかも知れません
 この例の女性への批判も多いモノでありました。早速インタネットで反応を見ましたが、「売名行為」、「遺族の心を逆なでをする行為」、「彼女も精神鑑定を受ける必要がある」などと言う罵りが大半でありました。でも、彼女は何か身を投じてでも彼に伝えたいモノがあったからこそ、そのような非難などをも覚悟してそのような決断をしたと思います。 彼は今までずっと精神科医の面会や牧師などの宗教関係者などの面会をも拒否してきました。如何なる言葉による懺悔への促しも拒んできた訳であります。しかし、これから家族になった彼女への面会は彼が受け入れる可能性が大きくなったと思います。彼女の言葉を通して人間らしさが回復され、後になって、死刑が確定された以上仕方ない事でありますが、命の尊さを知った上で、涙と共に死刑が執行される事を望みたいと思います。その涙が遺族への唯一の謝罪の手段ではないでしょうか。
 さて、今日の箇所は神の子イエスが何のためにわざわざ人間となられて、私たちに来られたかが語られている箇所であります。今月はクリスマスに因んで、「聖誕」をキーワードにしてメッセージをしていますが、「聖誕」を今日の箇所の言葉で表すと「神の言葉が肉体になった」と言う表現になります。
 因みに言いますが、来月は「祈り」をキーワードにしてメッセージをしたいと思います。祈りをもって新しい年を迎えたいと言う願いからであります。先にこのように申しますが、それぞれの皆さんの祈り、そして教会のための祈りをもって新年を迎える事が出来ればと願っているからであります。
 話を戻しますが、キリスト教はイエスを「神であり、人である」と言います。これは如何なる宗教にもない言葉であります。人が死ねば神となると言う信仰は神道はもっています。また、仏教的な言葉になりますと「成仏」となると思います。しかし、イエスは処女マリヤの身を通して神様が自分の子をこの世におくって下さったのであります。この地上を歩まれている間、神様であって、人であったのであります。
 このようにイエスは神でありながらも、人間であった故に私たちと同じく涙をも流し、十字架にかかる前には恐怖も覚え、パリサイ人々に対しては怒りを表したりしていたのであります。神様が人間の営みの中で自らを表して下さったのであります。
 涙を流す事は私は極めて人間的であって、恥ずかしい事だと思いません。恐怖に対しても同じ事を申し上げる事が出来ます。人は時には勿論憤りをも覚えます。それが人間であります。
 私の祖父がなくなった時の事を少し申します。私の祖父が亡くなろうとする時、父親の事を良く覚えています。私が小学校二年生の時でありましたが、父親の祖父の死に対しての態度が周りの人々に話題になっていたから覚えていますが、私も何故かそのような親が格好いいと思っていたりしていましたが、祖父の死がもう近づいた事を知った親は冷静に葬儀の準備をしていました。当時は葬儀社に頼むのではなく、すべて家で準備をしなければならなかっのでその準備が大変でありましたが、親は葬儀の準備を着々と進めていたのであります。
 そして、何日が後で祖父がなくなりますが、亡くなった時も親は全く泣かなかったそうです。全く涙を見せない親を見て周りの人がその事を言うと「年をとって亡くなるのに何が悲しいのか」と冷めたいような言葉で答えたそうです。そのような親が私には格好良いと思った分けであります。
 この親の言葉は理性的な言葉であります。勿論、年をとれば、亡くなるのは当たり前な事でありますが、だから泣かないと言うのはただ論理であり、理性であります。このように理性とは極めて機械的であり、事務的であります。しかし、人間は理性と共に感情も備えられています。
 神様はご自分を形とって人々をお造りになりました。それで人間を見れば神様の姿をもある程度は想像出来ると思います。人間には理性と感情が備えられていますから神様もこの両方をもっていらっしゃるはずであります。
 理性を冷静ないし強さであるとすれば、感情は人間的なもろさと暖かさであります。先ほど紹介しましたように私の父親は冷静に自分の父の死を迎えることが出来ましたが、祖母が亡くなった時はそう行きませんでした。私もそのような父親の性格でありますから、祖母が亡くなった時には父がどのような態度をとるのかと意識的に見ていましたが、目頭を真っ赤にして泣いていました。祖父の死に対してのように、理性のみを働かせる事が出来なかったわけであります。すなわち、「年をとってなくなるのが何が悲しい事か」と割り切る事が出来なかったのであります。
 17節に「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまことはイエス・キリストを通して来た」と記されています。ここを見て分かりますように、パウロは律法とイエス・キリストとを対比させていますが、この対比をもう少し分かりやすく言いますと律法は神様の理性であり、論理である。一方、イエスは神様も暖かさである。それをここでは恵みとまこととはイエス・キリストを通して来たと言うのであります。勿論、律法もイエス・キリストも神様の言であります。すなわち、神様の言がこのように律法としても表れ、後の時代になってはイエス・キリストとして表れたわけであります。
 律法は神様の理性と論理でありますので、とても厳しいモノであります。例えば、姦淫を行えば石で殺すべきであります。これが正義であり、神の意に適うこととなります。この文字による律法を無視することはまた新たなる律法への違反となるのであります。神様の規範を律法と言いますが、人間の手による規範となるモノを法律と言います。殺人した者に死刑を下すのは法律の働きであります。このように文字よる律法は機械的であって、従って苦しみも涙もないのであります。イエス・キリストは姦淫の女が現行犯として捕らえられた女性を赦します。律法にない暖かさと涙であります。
 この間、ある先輩の方々と共にクリスマスを祝いながら食事をしましたが、そこで交わされた話を少し紹介しますと、例え、医者は患者のところまで降りてきて患者を見なければならないように、牧師もこれと同じであると言うような話が交わされました。牧師がただこのことが律法に適う、教理に適うなどと言うだけでは言葉が人に届かないと言う話でありました。「言葉が肉となった」とは神様が自ら私たちのところにおりて来て下さったという事であります。
 イエスの涙は聖書に二カ所出てきます。その一カ所はヨハネによる福音書11章35節の以下でありますが、イエスは友人のラサロの死を見て涙を流したと記されています。すると周りの人々は「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と言います。イエスの涙を見て人々はイエスのラサロに対しての愛を知ったのであります。
 もう一カ所でありますが、ルカによる福音書19章41節以下でありますが、イエスがエルサレムへの入場の際にこれから起こるエルサレムの悲劇を知って涙を流したとされています。このようにイエスは人の苦しみとイスラエルの不幸を見て涙を流したのであります。このような人間的な情緒をももっていたので、イエスを神でありながらも、人間であるというのであります。
 イエスは、時には怒ったりもしていました。そして十字架に架かる前には激しく恐怖を覚え、出来ればこの杯を飲まないで済むのであれば、飲まない道を示して下さるように祈ります。すなわち、人間イエスにとって十字架は喜びでなく恐怖でありました。その恐怖の中でも御心の通りになされるようにと祈るのであります。そのイエスを人々は見て、イエスが自分たちをどれほど愛していたかを知るようになるのであります。そして、この恐怖の中で十字架に架かったのは私たちのためでもありました。
 神様は論理的な公定式をもって人々を救おうとしたのでなく、イエス・キリストはご自分の苦しみと涙をもって私たちを永遠の道へと導こうとしたのであります。その神様の計画をイエス・キリストが誠をもって受け止めて下さいました。
 このような神様の計画ないし目的をもってイエス・キリストをこの地上におくって下さった事が18節に示されています。すなわち、「神を見た者がまだ一人もいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」と記されています。
 このように、神様は私たちがイエスを見てご自分を知らせようとしています。苦しみのただ中にいる人々の間に立って、その苦しみを共にしながら愛をもって涙を流し、恐怖の中でも十字架にかかるその姿をもって自分の愛を私たちに示すために、イエス・キリストをおくって下さったのであります。その神様の栄光を私たちはキリストを通して知るようになったのであります。