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「求めよ」(マタイ7・7〜12)
テーマ:『祈り』、まず神に求めよう!そして、神に求めている事を人にもしてあげよう!
04.1.4.和白教会にて、説教者:黄仁坤
私たちは新年の挨拶として「明けまして、おめでとうございます」と言いますが、韓国語では「新年には多くの福が臨みますように」と言う意味の言葉を交わします。英語ではご存知のように「良い年になりますように」と言う意味で「Happy
new year」と言うようであります。ミヒャエラに聞きますとドイツ語の新年の挨拶は英語とほぼ同じニュアンスの挨拶であるそうです。何れにしても互いが祝福を交わす事には変わりがないと思います。
ところが、この間の年末に友人と話をしているうちに彼は日本の「明けましておめでとうございます」と言う挨拶に対して不満を言っていました。何に対して「おめでとう」と言うのか分からないと言うのが理由でありました。私は別にそこまでひねって考えなくと良いと思いましたが、でも後で気になって調べて見ますと彼と同じ不満を漏らしていた人がいました。やや古い随筆でありますが、森繁久弘と言う人が週間朝日に「年が明ける−とは、よくよく考えると不思議な言い回しだ。何でも昨年までしまっていたドアが開くわけでもないし、正月から日が差して長い夜が明けるでもない。昨日に続く自侭な日々がこともなげに明け、あっという間に暮れるのが正月だ」と、彼のしかめっ面な顔が思い浮かんできそうな口調であります。この意見に対して根掘り葉掘り言いたくありませんが、新しい事が始まることは嬉しいことであります。そこには新たなる希望があるからであります。勿論、時間的な連続と言う意味から言えば、新年と言っても別に新しいものではないかも知れません。でも一つの区切りとして旧い年を後にして新たなる気持ちと覚悟で年を始める事が出来るのはやはりめでたい事であります。
「一月」を英語で「january」と言いますが、これはローマ神話に出て来る神の名「ヤヌス」から由来した言葉であります。ヤヌスと言う神は戸口と門の守護神であり、物事の始まりを司る神ともされていたそうですが、ローマ人は、物事の始まり方が結果の善しあしを決定すると信じ、「最初」を大切にしたそうです。韓国の諺にも「初めが物事の半分」というのがあります。初めがよければ半分は成功したという意味でしょうか。兎に角、ローマ人は1月1日には新しい年の幸運のためにヤヌス神へ祈りをささげたそうです。このような宗教心は日本の門松に似ていると思います。すなわち、日本でも正月には良く戸の両脇に門松が飾られますが、これは松の先に年の明けを司る神が宿ると言う謂れからそのような風習が残っているのであります。
何れにしても新しい事は希望でありますが、また、未知の故に不安も伴うものであります。ですから、昔から東西を問わず、そのように神を呼び求め、神に助けを求めていたのであろうと思います。もう少しだけ新年に交わる事を申しますが、ギリシャ語には新しいと言う意味を持つ言葉が二つあります。一つは「ネオス」でありまして、これは時間的に新しいという意味の言葉であります。「ニュース」の語源になっている言葉であります。しかし、このネオスとは時間が経つことと共にたちまち古くなって行くモノであります。
しかし、もう一つの新しい意味の言葉はカイノスであります。これは内容の面で新しいという意味であります。時間がたっても常に新しいという意味をもっています。新しい契約の意味の「新約」や「新しい命」という時の「新」に当たる言葉はこの「カイノス」であります。これを見て分かりますように、「カイノス」とはいつまでも変わらない新しいという意味であります。第二コリントの5章17節に「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よすべてが新しくなったのである」となっていまが、時間と共に古くなっていく今までの人は過ぎ去って新しい命と共にキリスト者は生きるんだと宣言されているのであります。ですから、キリスト者は常に新しい人であります。これから二月が来て、三月が来ます。このように時間は流れていきますが、これによって、どんどん古くなっていくのでなく、私たちは常に新しい命の中でこの一年を生きること事が許されているのであります。
今月は年の初めでありますので、「祈り」をキーワードにして共に御言葉から聞きたいと思います。何故なら、年明けのこの時期に神様に何を求めつつこの一年を過ごすべきかをまず聖書を通して聞きたかったからであります。
まず、祈りとは何かを少し考えてみたいと思いますが、良く祈りを信仰者にとって「息」であると言います。息をしないと命を忽ちなくす事と同じく、信仰者が祈りをしないと忽ち信仰の命が絶たれるという意味であると思います。私は祈りとは少し長い定義でありますが、「有限な人間が無限の力の神様への呼びかけである」と思います。この定義自体が信仰とは何かという定義とも重なりますが、このように信仰と祈りとは切り離して考えられないものであります。人は自分の経験から物事を考えて、「祈っても無駄」、「神様が聞いてくれるはずがない」などと思い、祈りを断念しますが、この思い自体がすでに人間の限界を示しているのであります。この無駄という思いに止まるのでなく神様に呼びかけるのが祈りであります。一つの例を聖書から見たいと思います。祈りとは何かが極めて良く語られている個所であります。
列王記下20章の1節以下でありますが、「そのころヒゼキヤは病になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、「主はこうおおせられます。『家の人に遺言をしなさいあなたは死にます。生きながらえることは出来ません』」そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に言った」と記されています。ヒゼキヤは壁に向けて祈ったというのであります。この壁に向かって激しく泣いたと記されています。この壁が人間の限界状況を良く象徴しています。彼の目の前は壁であります。すなわち、絶望であります。神様に死ぬと言われて、この事態を人に言って神様の計画を変更させる事が出来るのでしょうか。誰ももはや相談相手ではなく、なす術もない状態をこの「壁」が物語っているのであります。その時に祈るしか人間には術がないのであります。祈りとはこのように他に術がないという絶望の中で祈るものであります。彼には祈ってみるのなく、祈るしかなかったのであります。そして、その結果は神様に委ねました。人間の思いをもってその結果について判断をするのでなく、御心に委ねたのであります。これが祈りであろうと思います。ヒゼキヤの祈りは聞きいれられ、命が15年益し加えられたと記されています。
さて、今日の聖書の個所はイエスの山上の垂訓の中に含まれている個所であります。この山上の垂訓は極めて大事なイエスの教えであります。イエスの最も大事なメッセージがこの山上の垂訓に濃縮されていると言っても過言ではありません。ヒンズー教のガンジーもこの山上の垂訓を「経典の中で経典」であると言ったそうです。この山上の垂訓はイエスが神の国を宣述べ伝え始めて、間もなく語ったメッセージでありますが、マタイ福音書は5章の1節から始まって、7章の27節までが山上の垂訓を伝えています。
ですから、今日の個所は山上の垂訓の終わりの少し前の部分でありますが、まず、12節に注目をしたいと思います。この12節は「黄金律」と言われています。この別名が物語っているようにもっとも大事な戒めであります。読みますと「だから、何事でも人々からしてほしいと望む事は人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者である」となっています。ところがこの12節は実は5章の17節と「対」になっている言葉であります。5章17節も読みます。「私が律法や預言者を廃止するためにきた、と思ってはならない廃止するためでなく、成就するために来たのである」と記されています。要するに山上の垂訓の中でもこの言葉と共に5章17節から、今日の個所の12節までが一つの括りとして、纏められているのであります。この括りの中でイエスは祈りを教え、律法学者のようになってはならないなどと戒めたりしているのでありますが、今日の個所は特にどう祈るべきかが語られているのであります。
話が前後しましたが、今日の個所の7節以下を見ますと「求め、探せ、叩け」と言う命令文が続きます。この三つのの命令文の中で最後に叩けだけが目的語を持っています。すなわち、「門」を叩けとなっていますから。「門」がその目的語に当たります。しかし、前の「求めと探せ」には「何を求め」「何を探せ」なのかの「何を」が記されていないのであります。最後の門を叩けも良く考えれば、確かに「門を」と言う文法的には目的語を持っていますが、何のための門であるのか分からないのであります。
ややこしそうな事を申しましたが、ここは難しく考えないで同じ言葉が繰り返されたと考えて良いのであります。「神に求めなさい」という命令がこのように強調されているのであります。しかし、依然として「何を」は分かりません。
先ほどから今日の個所は山上の垂訓の一部であると言っていますが、今日の個所の少し前の箇所でありますが、6章25節以下を見ますと「それだからあなた方に言っておく、何を食べようか、何を飲もうかと自分の命のことで思い煩うな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」と語られています。この脈絡で今日の個所での「求めよ」という時、「何を」を考えなければならないのであります。こう考えますとどうやらこの世的なモノを求めなさいではないことが分かります。まず、求めるべきものは神様の御心であって、神様から与えれらる平安と喜びと感謝であります。
勿論、私たちはこの世を生きるのに必要な物質は色々あります。このようなモノをも神様に求めなければなりません。しかし、私たちはこの世の人々のように他人と比べて沢山所有したい、これによって自ら自分が幸せであることを確認し、それを人々に認めさせたいというような求め方は神様の御心ではないことを知っています。
この間、年末年始の特番でありましたが、教育テレビで「日本を再生する」というタイトルで放送をしていました。全部をじっくり見たわけではありませんが、その番組の最後の纏めの言葉を記憶しています。「日本は戦後物を求め続けてきた、そしてそれが達成できた。しかし、その後のことを教育が語らなかった。それで人々の心が空洞化されてしまった。今は個人個人がどう生きるべきかを教えるべきだ」というような言葉で締めくくっていました。この言葉に全的に同意しているわけではありませんが、大いに思い当たるところはあります。すなわち、物質は必要でありますが、これが幸いになるための必要条件ではありません。
この間、私はミヒャエラに何気なく「人は金持ちの親をもつ事が最も幸せかな」と言いました。ふと子供の時のことを思い出したからであります。子供の時は何か物が与えられれば、とても嬉しいものでありますが、金持ちの親をもっていれば、何でも買ってもらえるし、幾ら食べてもお腹のすく時期でありますから、太ることを心配もせずにいっぱい食べられるし、自分が稼がなければならないという心配も要らないし・・・、などを思ったからであります。ミヒャエラは「そう思わない」と言いながら自分の高校生の時のクラスメートの事を言ってくれました。そのクラスメートは町の大きな宝石屋の娘であったそうですが、誰よりすでに多くのモノを持っていたそうです。しかし、彼女ほど嫉妬深い人を見たことがないとミヒャエラは言っていました。自分が持っていないモノを他人がもっているのを見れば、我慢できない人であったそうです。そして何日か経つと必ずそれを手に入れて見せるような人であったそうです。彼女は常に心の渇きを覚えていただろうと思います。
私たちが父なる神様を呼び求める事は私たちのあるがままの存在価値を喜ぶ事であります。私たちが神様に祈る時、この信仰の上で求める事が大事であります。私たちが仕える神様は命の造り主であって、この世のすべての所有者であります。その方が私たちの親であります。
9節以下を見ますと祈れば、与えられると記されています。そこで親と子の関係をもって神様は必ず祈りを聞き入れてくださると語られています。魚を求める子供に蛇を与える親はいません。パンを求める子供に石を与える親はいません。親は何でも子供が欲しがれば、一応与えたくなるものであります。例え、甘いものを食べて欲しくない時であろうとも子供に強請られると与えてしまうものが親であります。子供に負けるのが親であります。しかし、けして与えないものもあります。ヨチヨチ歩き出している子供が幾ら強請っても箸を与えて遊ばせる親はいないのであります。このような親のこころをもって神様は私たちの祈りを待っているのであります。
最後に再び12節にもどって12節の始めの「だから」という接続詞を考えなければならないと思います。「神に求めなさい。求めれば、与えられる」という今までの話がこの接続詞と共にカラッと変わっていくのであります。話が繋がっていないようでしっかり繋がっているのであります。
これを、前後の文を会わせて考えますと、自分だけの利益を求めるのでなく、他人との比較の中で優位に立つ為だけに求めるのでなく、他人と共に生きるために求めなさいという意味であります。私たちが神様に求めているのは、もっとも大いなる親を持つ私たちが他人から求められているモノでもあります。この他人の求めに答えたいという願いと共に求めなさいと神様は私たちに今日の個所を通して語っているのであります。
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