2004年1月11日

「一日三度ずつ祈りを」(ダニエル書6・10〜13)
テーマ:『祈り』、信仰者にとって祈りは止める事の出来ない業である。
04.1.11.和白教会、説教者:黄仁坤

 明日は成人の日であります。私たちの教会にも今年、成人となる方が何人かいますが、心より祝福の言葉を申し上げます。成人の日は一人の人間がこの社会に責任ある一員として加えられた事を告げ、また、この事を祝うために設けられたと言って良いと思います。今年成人となる方、また成人になったばかりの方々のこれからの活躍を大いに期待し、またそのために祈り続けて行きたいと思います。
 今、若い青年たちが韓国から日本に来て私たちの教会を拠点にして、この地域に御言葉を伝えていますが、彼らとこの何日間、食事を共にしたり、話を聞きながら、楽しい時間を過ごしています。そして彼らを見て自分の大学時代を思い出してみたりしました。
 少しだけ私の大学時代の事を申し上げます。私たちの大学時代は一言で言えば「不幸な時代」でありました。毎日のように反政府デモで明け暮れていました。知人の中には警察に顧問を受けたり、投獄されたりした人がいました。中には亡くなった方もいます。そのような方々の犠牲があって、今の韓国の民主化があると事に異論の余地がないと思います。 勿論、すべの当時の学生がデモをしていた訳ではありませんでしたが、私もそのようなデモに積極的ではありませんでした。しかし、何時も心の葛藤はありました。自分を犠牲にしてでもデモに参加する確固たる信念はなく、と言って、独裁政権に賛成も出来ずに宙に浮いていました。これは私にとって不幸でありました。兎に角、そのような中で、信念をもって反政府運動をする人々を尊敬の念をもって見ていました。
 その時、彼らがデモをしながら良く歌いましたが、一つ歌の歌詞の一部を紹介します。「座って生きるより、立って死ぬことを選ぶ私たちは正義派だ」と歌っていました。余りにも度々聞いていましたので覚えてしまったわけですが、ここの「座って生きる」とは「屈服して生きながらえる」と言う意味であり、「立って死ぬことを選ぶ」とは「例え、殺される事があっても自分の志は曲げない」と言う意味であります。一生を生きる間、人間にはこの位の迫力が求められる時もあろうと思います。
 勿論、このような迫力は目先の事だけを考える人には与えられないモノであろうと思います。また、ただ気が強い事とこのような迫力とは区別をしなければならないモノでもあります。すなわち、浅いところから、または何かの弾みから出たモノでなく、遠くを見、深く悩んだ末、そのような確固たる志が与えられるモノであると思います。
 先ほど若い方々の活躍を期待すると言いましたが、これからそれぞれの進む道は違うと思いますが、何をするにしても何か自分の中心にすえられた確固たる志をもってほしいのであります。決して動かない一本の筋が体中にとおっていてほしいのであります。そのようなモノをもっている人ともっていない人とには忽ち大きな違いが生じます。
 勿論、私たちの信仰者にとっての一本の筋は神様を呼び求める事であります。これを中心にして立つ事が許されている者は幸いであります。常に神様の御旨を呼び求め、感謝する人には必ず神様が答えて勝利を与えて下ると約束しているからであります。
 「志」をもって生きるとはどのような事であるかを示唆する一つの小説を紹介します。
ナサニエル・ホーソーンと言うアメリカの作家がいましたが、「人面の大岩」と言う短編小説があります。ある村から相当の距離にある岩山の山腹に大きく人の顔が彫られていました。その村の親たちは子供たちにその岩の人の事を聞かせてあげたりしました。子供たちはそのような偉い人を憧れ、何時かは会ってみたいなどとの夢を懐くようになりますが、その中である少年は特にそのような期待を大いに膨らませていました。彼はやがて成人になります。成人になって岩の顔の人の事を他人に語るようになりますが、彼の言葉を聞いていた周り人々が、やがて彼を指してあなたの顔があの岩の顔であると言うようになるのであります。その人の事を心に止めて語っているうちにその人に似てきたと言う事を作家は私たちに語ろうとしているのであります。
 これと趣旨が同じ話があります。私の記憶違いでなければ、アメリカのリンカーン大統領の言葉でありますが、「人は40歳になっては自分の顔に責任を持たなければならない」と彼は言いました。聴き方によっては厳しい言葉でありますが、でも大いに思い当たる言葉ではないかと思います。
 私たちの信仰者はイエス・キリストの言葉を語りながら、また何れかイエス・キリストに会うことを楽しみにしながら生きる者でありますが、神を呼び求める者は幸いであると言う所以であります。
 さて、今月は「祈りを」をキーワードにして共に御言葉から学んでおりますが、私たちの信仰者にとって祈りは止める事の出来ない業であります。今日の聖書の個所は死を覚悟をしてまで、祈りを止めようとしなかったダニエルの確固たる信仰を伺い知ることの出来る個所であります。
 ダニエルは若い時からバビロンの捕虜でありました。イスラエルはバビロン帝国によって攻められて、多くの人々がバビロンの地につれて行かれましたが、その中に若いダニエルも含まれていました。ダニエル書の1章3節以下を見ますと、バビロンの王は捕虜となったイスラエルの人の中から身分と姿が良く、知恵にさとく、知識があって思慮深い人を選んで、新しくバビロンの教育を受けさせ、バビロンの式の名前を与え、自分に侍らせようとしますが、ダニエルも選ばれたのであります。
 ところが、ダニエルは芯の強い人であったようで、このようにバビロンの王に選ばれ、色々恵まれながらも自分が守るべき信仰的な事においては決してこれを譲ろうとしませんでした。すなわち、彼は王と同じ食べ物が与えられましたが、自分の信仰にそぐわないモノは拒んで、野菜と水だけを受け取っていました。目の前の利益を拒んで神の御旨を求めたわけであります。自分の目に美しいモノを求めたのでなく、神様の目に良いモノを選ぼうとしたのであります。兎に角、彼は自分の信仰を守りつつ、バビロンの3名の王に仕えますが、最後にはその国の王を除いての最高の権力者にまでなります。今日の聖書の箇所はダニエルがバビロンの王に愛され、王が自分に次ぐ地位に彼を座らせようとすると周りのバビロンの人々が策略を立ててダニエルを罠にはめようとする所であります。
 10節の初めを見ますと「ダニエルはその文書の署名された事を知って家に帰り」になっていますが、ここの「文書」とはバビロンの人々が所定の一ヶ月間は神にも、人にも祈りをしてはならないで、ただバビロンの王に祈りをしなければならないと言う禁令であります。この禁令はバビロンの王の周囲にいた人々の企みからであります。すなわち、バビロン王の僕たちはダニエルが王に愛されるのを我慢出来なくなっていましたが、ダニエルが毎日エルサレムに向いてある窓を開けて、三度祈る事を口実にして、彼を捕らえる為にこのような禁令に思いついて、王に署名をさせたのであります。そしてこの禁令を違反する者がいれば、捕らえ獅子の穴に投げ入れると言う条項もありました。この事を知っていたダニエルでありますが、自分の家に戻り何時もと同じくエルサレムに向かって祈りを始めたのであります。
 ここが今日の箇所で注目したい所でありますが、やや間違いをすると祈りとは目の前の困難を乗り越える事が出来るように願う事であると思うかちであります。例えば、病気に苦しむ時、病気を治して下さいと必死になって祈ります。また、経済的な苦しみがある時はそのような苦しみから逃れる事が出来ますようにと一生懸命に祈ります。しかし、このような祈りの課題が解決されたり、なくなったりすると祈ることを止めてしまったりします。誤解がないように申しますが、すべての事において神様に願い求める事は大事であります。しかし、祈りとは親や先生が子供に宿題を与えるかのように、信仰者が神様に宿題を与えるだけの事ではないと言う事を、今日の箇所のダニエルの祈りの姿勢から知る事が出来ます。
 今、ダニエル前に置かれた「危機」と言えば、獅子の穴に投げ入れられる事であります。しかし、この危機は彼が祈る事を一ヶ月だけ中止さえすれば解決されるのであります。しかし、彼は自分の祈る事を王の僕らに見られる事も恐れずに、開いてある窓の前に座って祈りをし、神に感謝をするのであります。言い方によっては彼は祈りをもって危険を招いているのであります。この祈りを待ち望んでいたバビロン王の僕らは直ちに王の前に出てこの事を報告をし、変える事の出来ない禁令の下でダニエルは王の言葉に違反したので、ダニエルを獅子の穴に入れて殺すべきであると願うのであります。
 ここで、聖書には直接語られていない事を二つを想像してみたいと思います。一つはダニエルの頑なに見える処世術であります。もう一つはバビロン王の僕らが仕掛けた罠を避けるために、もし、ダニエルが一ヶ月の間、祈りを中止していたならば、どうなっただろうかという事であります。
 まず、彼の処世術でありますが、異教の地で、その上に捕虜の身でありながら王に大事にされ、3人の王に仕える事が出来た事を考えれば、彼は極めて考え方の柔軟な人であっただろうと推測されます。すなわち、自分の国とは敵対関係にある王であってもベストを尽くして仕えるような人でありました。敵国を有利にすることは自分の国の不利に繋がると言いたくなるような人間的な思いは畳んでおいて、王にベストを尽くしたと思われるのあります。彼はこのようにあらゆる人に対して誠実で、かつ柔軟であった思います。
 しかし、今日の箇所で分かりますように彼は頑なになって、柔軟な態度をとろうとしなかった所もあります。すなわち、今日の箇所が示しているように死の危険を冒しながらも彼は祈りを止めようとしませんでした。
 もう一つ、もし、彼がバビロン王の僕らの策略を恐れて祈りを中止したのであれば、それでずっと彼は自分の身の上の安全を守る事が出来たのでしょうか。例え、ダニエルがそのようなその場だけを凌ごうとしたりするような浅はかな人であったら、国の第二人者にまで登り切る事が出来たとは思いませんが、兎に角、彼を陥れようとしていた王の僕らは、ダニエルが祈りを中止しても、また、他の理由を見つけて彼を殺そうとしたに違いないと思います。なぜなら、彼らはダニエルの信仰を妬んでいたのでなく、捕虜の身でありながら出世しつづける彼を妬んでいたからであります。この事は今日の箇所の13節に記されている「王のよ、ユダから引いてきた捕囚のひとりである、かのダニエルが」と言う僕らの言葉から知る事が出来ます。
 少し推測をしながら話をしましたが、話を戻します。禁令を侵したダニエルを捕らえて獅子の餌食にすべきであるという僕らの報告を受けた王は困ってしまいました。自分が署名した禁令を反故にする事は出来ず、と言って愛するダニエルを殺してしまうのも忍び堅い事でありました。この王の葛藤が18節に記されています。すなわち、獅子の穴に入れるように許可をしてからは「王は宮殿に帰ったが、その夜が食をとらず」云々となっています。
 このような王の葛藤はありましたが、ダニエルは禁令の通り獅子の穴に入れられます。ところが、不思議な事に神様が獅子の口をふさがれたので何の害も受けずに次の朝に穴から出る事が出来たと御言葉が語っています。一方、この不思議な出来事を見た王は、今度はそのような策略を働いた自分の僕らを捕らえて獅子の穴に入れてしまいますが、彼らは忽ち獅子の餌食なってしまうのであります。このように私たちの理解を越えた結果が起こったと聖書は語っていますが、ここで私たちが読みとるべき事は祈りはそれ自体ですでに勝利であるという事であります。正しい事が常に自然法則のように報われると言う事はありません。正しい事で逆に多くの被害を受ける事もあります。正しい事が時には敗北のように見える事もあろうと思います。しかし、正しい事自体はすでに勝利であります。
 目先の勝利と利益を得るために譲る事の出来ない自分の信念や信仰を曲げる事は、それ自体がすでに敗北であります。もう一回今日の箇所が語ろうとしている事を申しますが、「祈り」を中止してまで信仰者が得るべき勝利はないというメッセージであります。これからも共に祈りによる勝利を共にしながら歩みたいと願っています。