|
「胸を打ちながら」(ルカ18・9〜14)
テーマ:『祈り』、神様が見るに良き祈りを捧げよう!
04.1.18.和白教会にて、説教者:黄仁坤。
この間の金曜日の午後には韓国から来た姪と甥を連れて太宰府天満宮に行って来ました。私ひとりでは行く気にはならない所でありますが、彼らの為の勉強になるかなと思い、誘ったわけであります。まず、行って見て驚いた事は韓国の観光客が多いことでありました。参道の両側にある店の店員さんが韓国語で人々を誘っていました。境内の中を見ても多くの韓国の人々が彼方此方で写真を撮ったり、ガイドさんのように見える人から話を聞いたりしていました。境内の中の半分ぐらいの人が韓国人ではないかと思われるほどでありました。勿論、彼らはそこで手を合わせようとしないで見物をしているだけでありましたが、私も姪と甥とに思い浮かぶまま神社について話をしました。目に入ってきた絵馬についても少し説明をしました。
絵馬が掛かっているところまで近づいて奥に隠れていたのを一寸覗いて見ましたが、殆どが学校の合格を祈願しているような文句でありました。今月は「祈り」をキーワードにしてメッセージをしておりますが、そのような絵馬に書かれた文句も一つの祈りであります。絵馬について辞書を開いて見ますと昔は本当の馬や木馬を奉納したりしていたそうですが、それが出来ない方が板に馬の絵を描いて奉納するようになったのがその始まりであるようです。それが後になって、馬だけでなく他の動物の絵も描くようになったそうです。それでも名前だけが「絵馬」になって残っているのであろうと思います。兎に角、馬を描いて奉納するような風習は貴重なモノを捧げたいと言う気持の現れであろうと思います。考えてみたら、馬は良く農作業に使われていましたから、昔の人々の生活には馬は欠かせない動物であったはずであります。それで大事に飼育していたわけであります。昔の農家には家の中に馬の為の部屋を作るほどであったったようであります。私は東京で昔の民家が展示されているところでそのような家を見たことがありますが、そのような大事にしている馬まで捧げて、神様、聞いて下さいという願っていたわけですが、今は形だけが残っていてそのような切なる気持が絵馬になって残っているのであります。
この絵馬に似たような韓国の笑い話を一つ紹介します。ご存知のように、韓国は元来儒教の国でありますので、祖父母や親が亡くなった命日は儒教のしきたり従って後々まで記念としなければなりませんが、この事を韓国語で「祭祀」と言います。この祭祀は原則的に長男が受け持ちますが、これはかなり経済的にも負担になるわけであります。なぜなら、祭祀の度に儒教の慣例に従って、御膳の上に写真や位牌を立ててその前には霊が食べるべき飲食を捧げなければならないからであります。因みに言いますが、このような負担があるから長男にもっとも多くの遺産を残したりしていました。
兎に角、ある長男がこの祭祀のための供え物が負担になっていましたが、一つの知恵を絞って、飲食を用意する変わりに、これは蒸した豚肉、これは蒸した魚、これはリンゴ、梨などと文字で書いて先祖の写真の前に置いて、たくさん召し上がって下さいと申したそうです。そのような祭祀は止めれば良いのに、笑いたくなるような話であります。
私たちも、先祖への祭祀の如きでもなく、神社での祈願の如きではありませんが、毎週このように私たちに命を与え、その愛をイエス・キリストを通して表して下さった神様に礼拝を捧げ、祈りを申し、共にみ言葉を聞き、また主にあっての兄弟姉妹との交わりを感謝しています。この神様に導かれて礼拝を捧げる私たちは幸いであります。なぜならば、私たちが仕えている神様は生きている者の為の神様であるからであります。
さて、今日の聖書の箇所はイエスが私たちに二人の祈りの例をもってもっとも基本たる祈りの姿勢を教えている箇所であります。今日の箇所を見る前に先週のメッセージの粗筋を少し思い出して頂きたいですが、タイトルは「一日三度ずつ祈りを」でありました。旧約のダニエル書に出てくるダニエルの祈りを紹介しながら、祈りと信仰とをもって私たちの心に揺れ動かない柱にしたいと言う内容でありました。信仰とはこのような働きをするモノでありますが、それ故に信仰の基本たるところで、一歩間違っていたら大変な事になります。なぜなら、揺れ動かない信仰であればあるほど、間違いに気づくことが遅く、例え、気づいたとしてもそれを認める事が難しくなるからであります。それを考えますと今日の箇所は祈りの基本が語られていますから、決して忘れてはならない箇所であろうと思います。
今日の箇所で祈りの例に取り上げられた人は、パリサイ派の一人と、収税人の一人であります。パリサイ派の人々は度々語られているように律法、すなわち、聖書に記されている規範を極めて厳格に守っていた人々でありました。また、他人に信仰的な面で指導する立場の人々でありました。今日の11節の半ばから12節に記されているように彼らの多くは禁欲的な生活をし、また一年一回やれば良い所の断食を、率先して月曜日と木曜日とに週二回も断食をしていました。そして、多くの献金をして全収入の10分の1を捧げていました。このように聖書が求める以上の信仰的な営みをしていたわけであります。このような彼らでありましたので、おそらく彼らの大半は周囲の人々から尊敬をも集めっていたと思われます。
一方、今日の個所でのもう一人の例は収税人でありますが、彼らは周りの人々から全く人間扱いをされない人たちでありました。悪人の代表格であったわけであります。彼らは同族への裏切り者であって、また、おそらく不正に集めた金で贅沢な生活をしていただろうと思います。
この二人を例に挙げてイエスは極悪無道な者とされていた収税人の方が神に義とされて神殿から家に帰る事が出来ると言うのであります。極めて衝撃的な言葉であります。パリサイの人々のように神様の言葉を厳しく守る事は悪いことではなく、むしろ褒めてあげるべきことであるのに、なぜ、イエスはここまで言ったのでしょうか。
その答えは今日の個所の始めの9節にあります。もう一回読みますと「自分を義人だと自任して他人を見下げて」云々されています。これは口語訳でありましたが、同じ個所を新共同訳で読みますと「自分を正しい人であるとうぬぼれて」となっています。ここをもっと分かりやすい言葉で言いますと「自分の信仰や信仰による行いを自慢して」と言うことになると思います。自分は多く掟を守り、奉仕をし、捧げている清い者であるという自慢であり、自己満足であります。このような自慢は当然他人への蔑視へと繋がるのであります。
祈りとは神様に申し上げる願いであって、感謝であります。人に見せびらかすためでなく、自分に聞かせる為でもありません。しかし、今日の個所でのパリサイの人はわざわざ神殿まで来て自分の自慢を自分の前に、また人の前に並べているのであります。この自慢
ないし自任をイエスはこれほどまで厳しい言葉をもって間違いであると言うのであります。
少しナオミ(=牧師の二歳半になる娘)の事を話しますが、最近少しずつ物事を分かってきたようであります。時には人の前で恥ずかしそうな表情をしたり、親の後ろに隠れたりもしますが、一つ目立つこととして自慢をするようになりました。ナオミは蜜柑が大好きでありますが、私たちから蜜柑をもらってはすぐ隣の人に、蜜柑をもっている手を上げて蜜柑をもっている事を自慢したりします。また、他のものをもらってからも同じ仕草をしたりしていますが、この間はうどん屋で、私の丼からうどんを少しとって口に入れてやりますと、隣のテーブルの人に口をあけてうどんを見せて自慢しようとしていました。隣の人もうどんを食べているのに自分の口の中のうどんが美味しくて、可愛かったんでしょう。時には私からもらった物を私に自慢をするをするような始末でありますが、実は、まだ、全く彼女のモノはなく、すべて親からもらったり、人からもらったりするだけなのにそれを他人に自慢をするのであります。
如何でしょうか。私たちの信仰は私たちが勝ち取ったものでしょうか。私たちが探求して得た悟りでありましょうか。ただでイエス・キリストから頂いたモノであります。ただ神様によって信仰者として導かれているモノであります。
私の命は如何でしょうか。これも親のからだを通して、神様から頂いたものであります。このように私たちのすべては神様から与えられているものであり、自分で生きるのでなく生かされている者であります。自慢できるものがあるでしょうか。このような事を感謝するのが祈りであり、礼拝であります。
このようにすべてが与えられていながら、人間的な思いによって自分が得たかのように振舞ったり、他人に自慢しながら生きる小さい私たちでありますので、これはまた胸を打ちながら罪人を赦して下さいと祈るべきであるのに、今日の聖書の個所でのパリサイの人の祈りには自慢だけがそのベースになっています。
今日の個所でパリサイ人が神殿にまでわざわざ来て祈っていますが、これを喩えで言えば、友人と喧嘩をして、後で自分が悪かったことに気づいて、彼にお詫びに行って色々悪かったと言ったので要約和解のムードが出来つつあるのに、最後の最後に、残っている自尊心のために「…でも」と言いながら自分を弁明したり、相手の悪い所を指摘したりして、結局は更にもっと大きな喧嘩になってしまったようなモノであります。お詫びをする時は無条件の自分の間違いだけを言わなければなりません。私たちは神様の前では誰一人例外なく罪人であります。ですから、まず罪の赦しを求めなければならないのであります。しかしパリサイ人は自分の良きところを神様に弁明ないし自慢をしているのあって、イエスはこれを指摘しているのであります。
先ほど信仰の自慢は当然他人への蔑視へと繋がると言いましたが、自慢とは他人との比較の中で可能な心でありますが、特に信仰においての自慢は他人への蔑視へと例外なく発展するものであろうと思います。勿論このような信仰的なプライドの下で殺し合いまでしてしまう愚かさを人間はもっています。
話が少し逸れましたが、貧しいと言うことだけで、人を蔑視する人は少ないと思います。例え、貧しい人であろうとも尊敬できる人は幾らでも私たちの周りにいることを知っています。しかし、信仰はそれ自体で倫理でもあり、価値でありますから、これを他人と比較して自分が優れていると思いつつ、他人を尊敬すると言うことはありえない話であります。また、このように信仰の比較に基づいて蔑視や差別をしながら共に生きようと言う呼びかけは虚言に過ぎないものであります。すなわち、信仰においての比較は必然的に他人を隅っこに追い遣る結果を生み出すのであります。他人との断絶を生じさせるのであります。
今日の個所13節の真ん中あたりを見ますと「収税人は遠く離れて」と言うところがありますが、何処から、誰から遠く離れているかこのくだりだけでははっきりしませんが、パリサイ人と収税人との間に、大きく溝が出来ている事をこの言葉で知ることが出来ます。すなわち、信仰においての自慢が他人との断絶を生じさた事をこの言葉が物語っているのであります。
創世記の二章18節を見ますと神様は「人が一人でいるのは良くない」と言って、人の所に動物を来させ、他の人をお造りになったと記されていますが、今日の個所でのパリサイの人は律法を徹底的に守る事によって、逆にこの創世記が語っている神様の御旨に反し、自分が一人になり、他人を一人させている矛盾を犯しているのであります。
このような最も大きな罪の下で、パリサイ人が自分の信仰を自慢しているのに対して、収税人は神殿の片隅たって胸を打ちながら「神様、罪人である私を赦してください」と叫んでいるだけであります。パリサイの人のように長い言葉でなく、ただ「罪人を赦して下さい」と言う無条件の赦しを求めているのであります。これが私たちが祈る時や礼拝を捧げる欠かせない捧げ物であります。馬を持ってきて神様に捧げるよりこの罪人を赦して下さいと言う告白が、より大いなる捧げモノであります。この告白が基になってその上に私たちの具体的な事を祈るべきではないでしょうか。すなわち、希望する学校に合格させてください、経済的な余裕を与えてくださいなどを祈るべきであろうと思います。今日のイエスによる戒めを覚えつつ常に心を合わせて祈りあう兄弟姉妹でありと願っています。
|