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「信仰とは」(ヘブル11・1〜3)
テーマ:『信仰』:信仰とは何かという定義を求めるより、信仰によって生きること。
04.2.1. 和白教会、説教者:黄仁坤
今週の火曜日は節分であり、水曜日は立春でありますが、この何日間の日差しは春が近いことを感じさせています。これから散歩が楽しくなる時期でありますが、これから生まれた子供をも加えて一家で散歩に出かけるのを楽しみにしています。
生まれた子供の名は「ヨハナ」としました。私は今度も分娩にも立ち会う事が出来ましたが、新しい命が生まれる瞬間は感動そのものであります。その瞬間を現すのに「感動である」という以上の言葉はないかも知れないと思いました。出産予定日は25日でありましたが、予定日より4日遅れて生まれた訳でありますが、実はナオミは予定日より一週早く生まれましたので、今度の子供も少し早めに生まれるのではないかと期待していました。という言うのは私の姪にも出来れば、分娩の感動を実感として味わってもらいたかったからであります。私は今度の分娩に立ち会うために教育を受けましたが、医者から聞いた話の中で印象に残った言葉があります。医学がこれほど発達しているのに、出産の時期のシステムはまだ明確には分からないそうです。しかし、仮説として、正確に言えば人間によるすべての学説は仮説でありますが、兎に角、仮説としては、子宮で育った子供がその時期になりますと、まず、胎盤を通して母親の脳にその信号を送ると、この信号を受け取った母親の脳は初めて体に分娩の準備を促すようであります。こうなりますと、あくまで出産の時期を決めるのは母親の脳でなく、子供の脳であるということになります。不思議な事であります。子供はまだ何の学習もなく経験もないから自分でその時期を決めることが出来ないはずであります。これはまさに神さまがそのような能力を子供に備えて与えたとしか言いようがないことであります。
心に残っている言葉をもう一つ紹介しますが、分娩についてその時期をも含めて、自然体で行こうと言うのが国立医療センターの方針であるそうです。すなわち、分娩の時期についても出来るだけ人が手を加えないように務めて、簡単に帝王切開をしたり、分娩促進剤を使ったりしないで、出来るだけ自然体で生まれるように見守ろうとしているようであります。私はこの当たり前な事のように聞こえるこの方針をこのように覚えて申し上げていますが、韓国では今はどうなっているか分かりませんが、少し前までは親の仕事などの都合を考えて簡単に分娩促進剤を使ったり、また、母親が出産の苦しみを避けるために簡単に帝王切開を医者に頼んだりして、医者もこれに応じてしまうなどの事が問題とされていました。神さまが決める時期を人間の都合だけを考えて選ぶなんて自然の法則ないし、神さまの摂理を逆らうことであります。まさに不自然であります。神さまの摂理ないし言葉に従うが信仰でありますが、20世紀は科学の発達と共に神さまの御旨に従って行こうと言う意識が失われた世紀でありました。これから私たちに必要なのは目に見える物や人間が作り上げた思想でなく、神さまによって定められている自然の法則に逆らわないで生きようという謙った心であろうと信じています。
さて、今日のメッセージのタイトルを「信仰とは」としましたが、これは、今月は「信仰」をキーワードにして共に聖書から聞こうと思ったからであります。ところが、「信仰とは」と言うタイトルとするのは幾分が戸惑いがありました。なぜなら、このような「信仰とは」と言うタイトルを聞いたら、信仰について何か客観的で、積極的な定義づけがなされる事が期待されるからであります。しかし、信仰とは「これである」というような定義づけは今日の個所にはないと言っても良いかも知れません。勿論、今日の個所を読んでみれば「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とは記されています。この前半部分は信仰とは「希望である」という言葉に置き換えても良い定義になっていますが、考えてみれば、「希望」と「信仰」とは明らかに違う言葉であります。希望とは信仰者でなくとも抱くことが出来ますが、信仰とは信仰者だけにあるモノであります。ですから。「信仰」と「希望」とを置き換える事が出来ないものであります。また、後半も信仰とは「まだ見ていない事実を確認すること」であると記されていますが、これは論理的に考えれば、極めて曖昧な言葉であります。即ち、見ていないことを確認するということか何の意味か依然としてはっきりしないのであります。このような意味で今日の個所では積極的な定義づけはされていないと申したのであります。
今月の招詞をも「信仰」と言うキーワードに因んで選びましたが、この個所も信仰とは何かと語っている個所であると言って良いと思いますが、ここを見ても「私たちは見えないものに目を注ぐ」などと記されています。そもそも見えないものに目を注ぐ事はできないはずでありますが、「信仰」とはこのようなものであると聖書が語っているのであります。ある意味では信仰とは「何々である」と言うような言い方は出来ないかも知れません。
如何でしょうか。「人生とは」何かという定義が可能でしょうか。この答えについて、皆、それぞれ、自分なりの一応の表現はもっているとは思いますが、でも、他人に向かって「これが人生である」から、この定義に従いなさいとは誰も言えないものであります。これと同じく、「信仰とは」という問いの答えとして、普遍的であるかのような定義づけをして他人にそれを強要できないものであろうと思います。
今「人生とは」何かという問いを例に挙げましたが、実は「人生とは何か」という問いは最近私にある青年が問い掛けた言葉であります。その青年は大変な悩みを抱えているような顔をして、私に「人生とは何ですか」「信仰とはなんですか」などと矢継ぎ早に尋ねましたが、私は「その答えはあなたの外にあるのでなくあなたの中にある。そうであるから、それに従って人生をあなたが体をもって示せば良いでしょう」と答えました。即ち「人生とは何か」と自分の外に答えがあるかのように捜し求めたって無理であるから、その人生という意味を自らが築いて行くモノであるという趣旨で話をしました。彼はどのように私の言葉を受け止めた分かりませんが、私は「人生とは何か」という答えはすでに私たちが胎内にいる時、私たちのどこかに刻み込まれているのではないかと思います。
即ち、命は喜びであり、神さまの祝福であります。驚きであります。この言葉に立って生きるか、偶然に生まれたモノとして生きるかは決定的にその人の生き様を決めるのであります。兎に角、人生とは何かと言葉をもって他人に語ることが出来るのは自分の生き様を振り返って、こうごう生きたという実体を元にして語ることが出来る時ではないかと思います。
話がそれましたが、話を戻します。先ほど今日のメッセージのタイトルを「信仰とは」とするのに戸惑ったと申しましたが、タイトルのもう一つの候補は「信仰によって」でありました。実際に今日の聖書の個所を見ても1節で勢い良く「さて、信仰とは」と言う言葉で始まっていますが、その内容は依然としてはっきりとした定義づけにはなっていないまま、3節から中心になる言葉は「信仰によって」となっています。
このヘブル人への手紙の11章全体は「信仰」について語っていますが、11章全体で「信仰とは」という言葉は一節での一回だけであって、後は20回ほど「信仰によって」と言う言葉が繰り返されています。即ち、私たちの信仰の先輩達が信仰によって如何生きたかが語られているのであります。それで、私たちは彼らの信仰の実体を見て「信仰とは何か」を間接的に知ることが出来るのであります。
11章で紹介されている先輩達は確かに信仰によって望んでいることを確信し、まだ見えないものに目を注ぎつつ生きた方々であります。また、信仰によって大胆に生きた方々でありました。キリスト教は確かに見えないものに目を注ぐ信仰であります。まだ見ていない事実を確認する信仰であります。これはイエスの十字架での死とその後の弟子たちの行動を見ても分かります。イエスの弟子たちはイエスがこの地上を歩まれた時は、良くイエスに従っていました。決して裏切ることはない、死んでも共に死ぬとまでペテロは言いました。しかし、十字架でイエスが亡くなると一目散に皆が逃げてしまいます。私たちもそうであっただろうと思いますが、弟子たちは目に見えるイエスに従うのは容易かったと思います。目に見えるイエスに従っていたのであります。しかし、このイエスが肉の目には見えなくなると皆が逃げてしまったのであります。目に見えるモノだけに従う事の脆さであります。しかし、復活した霊のイエスに出会っては彼らは全く強くなっていきます。肉の目ではなく彼らにそなえられていた霊の目でイエスを知ったからであります。私たちも目に見えないイエス・キリストの霊によって導かれ、信仰者となっておりますが、信仰によって生きる者は幸いであります。形あって、移り変わるモノに目を注ぐのでなく、常に変わらない希望に生きることが許されているからであります。肉の目には見えないが主と共に生きることが赦されているからであります。
今日の個所の3節を見ますと「信仰によって、私たちはこの世界が神の言葉で造られたのを悟る」などと記されていますが、この個所を読み度に私は自分が聖書を読み始めた時の事を思い出します。創世記の始めに「始めに神は天と地とを創造られた」と記されていますが、信仰無しにはこの一行さえも読むことが出来ないのであろうと思います。すなわち、信仰のない方にはこの言葉は戯けた言葉であって、この言葉の代わりに「天地とは誰かが造ったのではなくもともと在るモノ」と言う言葉しかもっていないのであります。これは勿論目に見えるモノと科学や自分の経験しか信じる事が出来ないという確信から与えられた言葉であります。
しかし、目に見えるモノ、私たちが持っている言葉は常に変わっていくものであって、いずれが消え去って行くものであります。また、このように目に見えるモノは一歩間違っては偶像にもなりうるモノであります。即ち、これらから解放されなければこれらは私たちの心の中で偶像化されていくものであります。言い方を帰れば、柵になって行くモノであります。
偶像について少し笑いたくなるような例を申します。最近、統一協会の機関紙で見たものでありますが、統一協会は世界の教会から十字架を取り除こうと呼びかけていると言っていました。キリスト教をここまで知らないかと言いたくなるような話であります。教会は十字架という目に見えるモノを信仰しているのではありません。ただ、これはイエス・キリストの苦しみと復活のシンボルであって、この十字架の裏にある見えない言葉と約束を信じています。それなのに統一協会は十字架を教会が信仰の対象とでもしているように誤解をしているようであります。
彼らは今、生きている目に見える文鮮明を神としています。言い換えれば、生きている文鮮明を偶像として崇めているのであります。そうでありながら、彼らは聖書を語っています。全くナンセンスであります。
目に見えるモノのすべては神さまによって造られたモノであります。それ自体が神でないのであります。昔の信仰のない人々は大木を見てそれに手を合わせたり、大きな山を見てはそれに手を合わせたりしていました。造られたモノに手を合わせた訳であります。
私たちも神によって造られた者であります。従って、私たちが何か命あるモノを自ら生み出すことは出来ないのであります。人間は人間に真似てロボットは作ることは出来ますが、人間を造るのは不可能であります。命を与えるのは神さまの言葉であります。この目に見えない言葉に聞きながら従うのが信仰であります。ここに希望と喜びと命があるからであります。
私の思索と知恵で信仰と言うものは何かと積極的に語るのは不可能であろうと思います。ただ私達はもろもろの目に見えるモノや私たちの心を捕らえようとしている自分の言葉から解放される時、初めて創世記の1章1節を読むことが出来るのでないかと思います。
例え、信仰とは何かと一生懸命に考えて悩んで何の益があるでしょうか。それはマラソン選手がマラソンの途中で走るのを止めて、座り込んでマラソンとは何かと悩み、その答えを見つけるまでは走ろうとしないことと同じであります。走ること自体がマラソンであることと同じく、神さまの言葉によって走るのが信仰であります。言い換えれば信仰によって生きるのが信仰であります。これからの共に目に見えるモノ、私たちの知恵から解放され、ただ主の言葉に捕らえられた者として走り抜きたいと願っています。
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