2004年2月8日

「霊と力による証明」(第一コリント2・1〜5)
テーマ:『信仰』、私たちは伝えられた十字架の出来事をアーメンと受け取った者。
04.2.8.和白教会、説教者:黄仁坤。
 
 私は最近二人の子どものことで慌ただしい日々と過ごしていますが、皆さんは如何過ごしているでしょうか。それぞれ忙しい毎日を過ごしていると思いますが、このようにすべてのこの世の柵や悩みを下ろしておいて、礼拝を通して神の前に跪くことは祝福であります。何より信仰者にとっては礼拝が心と魂の安らぎの時であるからであります。共にすべてを神に委ねるという信仰を確かめる一時となればと思います。
 私の日課の中で毎日ほぼ欠かせない事の中で一つでありますが、午後5時になりますと、ナオミを幼稚園に迎えに行きます。一週ほど前にナオミと同じクラスの子供から「ナオミの家って、何色?」と聞かれて、「白だよ」と答えました。
 ところが、この間も同じクラスの他の子どもから「ナオミちゃんの家って白なの?」と聞かれました。どうやら幼稚園の子どもの間では私たちの家の色が「白」である事が話題になっているようであります。初めに聞かれた時はその質問を気に留めていませんでしたが、同じような事を二回も聞かれては、なぜ、そのようなことが話題になっているのか気になりましたが、その理由はまだ分かりません。しかし、面白い事だのと思いました。大人は他人の家がどのような色であるかにはほぼ関心がないだろうと思います。それよりどのぐらい大きな家に住んでいるのか、家賃はいくらほどの家に住んでいるだろうかについて関心をもつのであります。何の色であろうかについてはその家を購入しようとでもしない限り全く関心をもたないと思います。また、大人は人を見てもどれほど出世した人か、知識はある人か、教養はある人か、どこの国の人かなどをまず知りたがりますが、子供たちにとってはこの人は誰のパパであって、誰のママであるかが関心事であるようであります。幼稚園の門に入りますと私の知らない子供が私に走ってきて「ナオミのパパ?」と尋ねます。勿論これだけではないでしょうが、このように子供と大人とは話題が違っています。視点が違います。イエス・キリストは子供のような心をもっていなければ神の国には入れないと言いましたが、この意味は多分子供が親を求めるように人が神を求めなければ、神の国に入れないと言う意味であろうと思います。私たちがまず求めるべき視点は神様の御心であります。この世の知識でなく、十字架の言葉であります。
 さて、今月は「信仰」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、信仰とは十字架での出来事を聞いて「アーメン」と言う告白から始まるものであります。信仰とは私たちが心の中で創作したモノでなく、私たちが発見した哲学でも、原理でもありません。伝えられたモノであります。
 また、信仰とは信仰の先輩や聖書が語る十字架の言葉を聞いて人間の罪と無知を知り、神様を求めつつ生きようとする時、与えられるものであります。私たちに言い伝えた先輩たちも、聖書もまた同じであります、小説のように自分の想像の世界を伝えたのでなく、2000年前に起きた十字架でのイエス・キリストの死と復活と言う事実を伝えているのであります。繰り返しになりますが、信仰とはわたし達の理解でなく、子供が親を見て手を挙げて抱っこを求める如く、わたし達が神さまに手を挙げて願い求める時、始まるモノであります。
 今日の聖書の個所でパウロは十字架につけられたキリスト以外は何も伝えるモノがないとまで言っています。なぜなら、わたし達の信仰が知恵によらないで、神の力によるものとなるためであると言っています。また、優れた言葉で語るのでなく、ただ人間の目には愚かに見える十字架を語りたいと言うのであります。なぜなら、十字架は敗北でなく最も大いなる勝利であることをパウロは知っているからであります。パウロは十字架の言葉に出会ってからは、自分のその時までの知恵と知識とを全く糞土のように捨ててしまったと自ら言っています。
 イエスを十字架につけて殺したのは、宗教家達であります。自分だけの信仰が優れていると信じていて人々でありました。自分の知恵を誇っていた人々ありました。また十字架につけられるのを傍観していた人々は自分たちの思い通りしてくれるだろうと思い込んでいた人々でありました。即ち、多くの人々はイエスが自分達をローマから解放してくれるだろうと期待していたが、イエスはそのような闘争には素振りも示さなかったのであります。すると勝手に裏切られたと思い込んでイエスを十字架に掛けることに対して賛成の声を上げたのであります。
 パウロは今日の聖書の個所で世の知恵の言葉に頼らないと、このように堅く決心をしていますが、人の優れた言葉より沈黙や真実がもっと力強い時があることを私たちも知っています。私が聞いたピリピンの牧師の証を紹介します。彼は高校までクリスチャンではなかったそうですが、大学はアメリカの大学にいったそうです。いつも寂しく寮生活をしていたそうです。ある日曜日の朝、雨が降り注いでいるのにその大学の先生のひとりが自分の寮に来て、笠を差し出しながら教会に行こうと誘ったそうです。ところが、その先生は彼のために笠を準備してきてそれを差し出したそうです。小さい親切であったかも知れませんが、彼はこれに大きく感動をし、断わることが出来ずに、教会に初めていったそうですが、それ以来熱心なクリスチャンになったそうです。
 教会に行こうと知恵ある言葉で説明するよりこれがより力あると言えるのではないでしょうか。同じく、キリストに敵対する人を論破して教会に、信仰に導こうとするより、柔和な心からの笑顔と親切がより十字架の言葉を力強く語るのであります。
 話を今日の聖書の個所に戻しますが、パウロがこの手紙を書いた動機はコリント教会の内部事情があってであります。即ち、全体としてはコリント教会の内部分裂や、教会内部の道徳的な乱れなどを戒めるために宛てた手紙でありますが、今日の個所はこのような問題の中でも教会の内部分裂を憂慮している部分であります。分裂の様子を窺える個所として、1章の12節に記されていますが、ある者はパウロにつく、ある者はアポロにつくなどと言いながら教会の中で分派を造ってしまった訳であります。パウロが伝えたのは十字架に付けられた「主・イエス・キリスト」と言う一つの信仰であったはずなのに人間的な語りや言説に従って教会が争っているのであります。
 因みに言いますが、私は時々、教会の中では様々は信仰告白があって当然であると言います。信仰の入り口が違うし、生活の場が違って、言葉が違いますから互いが違う信仰告白や証が異なるのは当たり前であります。しかし、「主・イエス・キリスト」と言う告白においては一致しなければならないのであります。これを異にしていながら同じ信仰であるとは言えないからであります。このような事を言いますと、わたし達の教会が内部で争っていることを牧師が心配していると思う方もいるかも知れませんが、決してそれはありません。ただ、わたし達に言い伝えられた信仰はひとつ、即ち、十字架の言葉だけであるという事を申し上げているのであります。
 もうひとつ今日の個所を理解するのに必要なことを申しますと、このコリント教会にはパウロがアテネを通してコリントに入って開拓した教会でありますが、このコリントは優秀の商業都市であり、アテネと共にギリシャ文化が栄えていた都市であります。ギリシャ文化といえばやはり哲学であります。すなわち、人間は何か、命は何か、この宇宙は何で出来ているのか、正義は何かなどを議論し、相手を論破することを仕事としている人々も多くいたのであります。仕事にまでしなくとも、一般の多くの人々もこのような言葉に多く接していたと思われます。
 3節を見ますと「私があなたがたの所に行った時には弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」と記されていますが、先ほど言いましたようにパウロはこのコリントに行く前にアテネによって十字架を伝えますが、幾人しか信仰に導くことが出来なかったのであります。そのような事情は使徒行伝17章以下に記されていますが、パウロが語れば語るほどパウロの周囲にいた人々は自分たちの哲学を持って聞いていましたので、言い換えれば、自分の言葉でしか聞いていなかったのでパウロは単なるお喋りとしか見えなかったのでありました。このような辛いアテネでの経験があってひどく疲れ、同じくギリシャ文化圏であるコリントに行くに当たって不安になっていたのでありました。
 しかし、パウロはコリントではアクラとプリスキというよき協力者に出会って、コリントでは多くの者を信仰に導き、教会も新しく建てることが出来ました。しかし、パウロが他なる宣教地に行ってしまうとこのように教会が求心力を失ってしまったのでありました。それで巷の哲学や言葉や知恵が教会に入り分裂の危機に瀕するようになったのであります。これを聞いたパウロはこのように嘆きながら手紙を書いて自分が伝えてのはただ十字架の言葉であったというのであります。
 私も勿論このように聖書を語る者として立てられていますので、如何語るべきかいろいろ工夫します。自分なりの知恵を絞ります。また色んな方のメッセージを聞き、説教集を読み、神学書を読みます。しかし、伝えるべき言葉の中心は十字架の言葉であることを常に覚えているつもりであります。これを料理をもって喩えれば、素材は聖書であって、十字架の言葉であります。その素材の旨みが最も良く表れるように料理をしなければならないのであります。薬味を入れすぎたり、素材の旨みを消してしまうほど強い薬味を使ってはならないと心掛けています。なぜならば、人間の如何なる知恵の言葉より、十字架の言葉が優れていることを知っているからであります。また、出来れば言葉だけで語るのでなく私のすべての人生をもって十字架を語りたいという祈りをもっています。
 話が逸れましたが、イエスが弟子たちを選らんことを考えても人間の知恵による言葉をもって御国を伝えようとしていなかったことを知ることが出来ます。イエスの弟子たちは主に漁師でありました。優れた言葉をもっていた知識人や宗教者から弟子を選んだのでなく、蔑視されていた人々でありました。そのような人を選んで自分の言葉を託したのであります。このことをコリント人への手紙の1章27節で「それだのに神は、知者を辱しめるために、この世の愚かな者を選び、強いものを辱しめるために弱いものをえら」んだと記しています。
 自分の知恵を誇ったり、自分の罪を自ら弁明することの出来ない心の貧しき者は幸いであります。天国が彼らの者であります。この世的な知恵に頼らないで十字架の言葉によって信仰に導かれるものは幸いであります。この低い心において神の霊と力が示されるからであります。
 話を纏めたいと思います。私達の心が自分の優れた言葉でいっぱいであれば、神さまの言葉が入る余地はありません。少なくとも神さまの言葉が入る余地をいつも残しておくのが必要であります。出来れば、わたし達の心を神の霊が働くために空っぽにしておきたいのであります。真っ黒に染まるほど自分の心に自分の言葉を書き込んでは神さまの言葉が書き込まれる余地はないのであります。出来れば真っ白な紙のような心を神さまの前に差し出したいのであります。
 「主・イエス・キリスト」と言う告白はこのような意味であります。即ち、イエス・キリストが私の主人であると言う意味であります。主人は一番の上座に座ってもらうのは当然であります。主人と呼びながら、家の外で待たせ、自分が必要な時だけ呼びつける人はいないはずであります。常に主が私を捕らえてくださることを願うが大事であります。何故ならば、主が私達の心の上座に座ることによって、この世の知恵は消え去り、その時、始めて、神の霊と力がわたし達の中でご自分を自ら証明して下さるからであります。自分の知恵が神の霊を働かせるのでなく、勿論、そもそもこのようなことは出来ませんが、兎に角、神の霊と力のために私達の知恵が占めていた席を明渡すのが大事であります。これからも共に十字架の言葉に聞きつつ、仕えたいと願っています。