2004年2月29日

「御言葉とパン」(申命記8・1〜3)
テーマ:人は神の言葉によって生かされている。
04.2.29.和白教会、黄仁坤。

 今日は主の晩餐が用意されていますが、私たちの教会では第5週目の日曜日に主の晩餐式を行うことにしております。ですから年間4回か5回の主の晩餐式を行っています。今年は閏年で二月が29日まであるおかげで、二月でありながら第5週目の日曜日がありますが、平年であれば2月が28日までしかありませんので第5週目の日曜日はありえません。それで少し珍しかったので、今度、二月に第5週目の日曜日があるの何年後になるかと数えてみると28年後でありました。この間このような計算をしながらカレンダを眺めていた訳でありますが、少し暇であったんでしょうね。
 あまり話したくない事でありますが、何も言わずにはいられないので申します。ご存知のように、この間の金曜日には麻原に対して死刑判決が下されました。まだ裁判は続きますが、一応、国家は彼の犯罪に対して「死刑」に値するという結論をだしたわけであります。多くの人々が当然であると受け止めているようであります。 昨日の朝日新聞の社説もこの判決を当然としながらも、日本の社会が若者に希望を与える事が出来なかったので起こった事件でもあると言う論調でありました。その社説に紹介されたモノでありますが、高校二年生の時、オウム教に入信したある信者が作った詩が紹介していました。この詩は彼が中学生頃、流行っていた尾崎豊さんのある歌の歌詞を真似て作ったようであります。それを読みますと「夢を失い ちっぽけな金にしがみつき ぶらさがっているだけの大人達」となっています。純粋で感受性の豊かな若者達に今もこの世の多くの大人達がこのように移るのではないかと思います。恐ろしいことであります。
 オウム事件を批判するのは簡単であります。この社会を批判するのも簡単であります。しかし、その代案を示すのは困難であります。すなわち、お金が最優先されている今の時代に向けて、また、合理性だけが追求されている今の時代に、それらだけが価値でなく、より大事にして行かなければならない価値があると言う事を示すのは極めて困難であります。何故ならこの世がそれを知らないからであります。
 しかし、私達には金より、物より、パンより大事にしなければならない神様の言葉示されています。信仰に導かれたことは恵みによるモノであると言う所以であります。
 私はサリン事件の判決があった金曜日にある集会に参加をしていました。それはカルト問題などの対策を考える集会でありましたが、それで当然オウム事件も話題になっていました。そこに出席したある弁護士の話でありますが、サリン事件で死刑が確定されている広瀬という死刑囚について語っていました。彼は「広瀬君」と言っていましたが、広瀬君ほど優秀な人に会った事がないとまで言っていました。あまりにももったいないと言っていましたが、私が申し上げたいのはオウムなどに入信してしまうのはその人の智恵が足りないから、思慮が浅いからと言って片付けることは出来ないということであります。真剣に世の正義や絶対的な真理を求める若者がそのような誘惑ないし言葉に引っ掛りやすいのではないかと思います。先に神の言葉を知る者となっている私たちがそのような若者のうめきに積極的に耳を傾けて行かなければならない今日ではないかと思います。
 さて、今日の聖書の個所は申命記でありますが、「申命記」と言っても日本語にない言葉であります。これは「命令を申した記録」という意味で「申命記」と訳されたと思います。元々の名は「言葉」という意味を持つ「デバリム」というヘブライ語で呼ばれていた旧約聖書の一部であります。違う観点で言えば、この申命記はモーセというイスラエルの信仰の指導者が亡くなる前にイスラエルの人々を前にして神様から与えられた言葉、すなわち、律法について語ったメッセージであります。
 今日の個所を読むのに必要な歴史的背景を少し申しますと、イスラエルの人々はエジプトで奴隷として暮らしていた時期がありました。モーセがリーダとなってこの人々をエジプトから脱出させますが、勿論、この偉業を成すのにはモーセは徹底的な信仰に立ってでありました。兎に角、彼らはモーセの指導にしたがって一旦エジプトを脱出したものの、約束の地である今のイスラエルには入れないで、40年間アラブなどの砂漠をさ迷うのであります。今日の個所の申命記が語られている場所もヨルダン川を目の前にしての荒野であります。
 ところが、イスラエルの人々がエジプトを出る時、70万とも100万とも言われていますが、この多くの人々が食べ物の少ない砂漠をさ迷うという事を考えれば、私達には想像も及ばない困難があっただろうと思います。それでモーセに対しての政治的な反乱もありました。水がないと言う事でモーセに逆らったこともありました。食べ物がないことでモーセに対して、自分達を飢え死させるためにエジプトから導き出したのかと噛み付いたこともありました。そのような詳しい記録は出エジプト記に記録されております。
 少し余談になるかも知れませんが、この間、韓国に行ってきて一つテレビを見ながら気になっていたことでありますが、韓国のテレビも日本のテレビのように料理番組が大変増えてきておりました。何時からこのようになったかと兄の嫁に尋ねますとこの一年前あたりではないかと言っていました。料理番組といえば、勿論、料理の作り方を教えるような番組もあります。そのような健全なものよりタレントを動員して、如何に美味しいかの表現の仕方を競い合うだけ番組が多すぎるのではないかと思います。勿論、美味しく料理をし、楽しく食べる事は良いことでありますが、今の多くの番組は如何に美味しいものが人を幸せにするのかを言おうとしているようにさえ見受けられるのであります。
 私達の経験でも分かりますように、どんなに美味しいものであっても毎日続けて食べれば飽きてしまいます。しかし、お腹がすいている時は何でも美味しいものであります。また、肥えた物を前にしていても楽しくない食事もあります。
 兎に角、今の料理番組がこれほどまで多いのは放送局だけの責任ではありません。そのような番組が視聴率が高いから放送局はそれに答えているのであります。ですからそのような番組は今の世の一断面を表しているとも言えるのであります。
 料理の美味しさが人を幸せにするのは限界があります。衣服の美しさが人を幸せにするのは限界があります。幸せとはそのような表面的なものでなく、精神的ものであり、内面的なものであります。
 今日は主の晩餐がありますが、私達は主の晩餐は信仰もってキリストが共にしてくださる食卓であると告白しますが、キリストが共にする食事の一場面を紹介します。あまりにも有名でありますので、クリスチャンであれば殆どの方が知っている話でありますが、あえて紹介をします。大勢の人々がイエスの話を夢中になって聞いていました。それでもうすでに夕食の時間が過ぎてしまいましたが、食べ物と言えば、弟子たちがもっている二匹の魚と五つのパンしかありませんでした。ところが、イエスはそれを祝福して皆に分けると皆が満腹したと聖書は語っています。ここで注目したいのはパンと魚だけという極めて素朴で僅かな食べ物であります。でも、イエスが共にしてくださる食事でありましたので、イエスがパンをちぎるので、皆が満足して十分に食べる事が出来たと言うことであります。
 話を今日の個所に戻します。イスラエルの人々は先ほど申しましたように40年間、食べ物の少ない荒野をさ迷うのでありますが、一時は全く食べ物がなくなってしまいました。皆がパニックになっていたと思いますが、その時の様子を出エジプト記16章に以下に記されております。しかし、神様はパニックになっているイスラエルの人々に「マナ」という不思議なものを用意してくださいました。すなわち、夜中に霜のようなモノが降りましたが、それが石の上について乾燥すると粘り気のあって、甘みのある食べ物となっていました。それが今日の個所3節に出てくる「マナ」という食べ物であります。「マナ」とはヘブライ語で「これなんだろう」という意味でありますが、彼らの今まで見たことのないマナを手にとって「これなんだろう」と言う驚きの声と共に始めは躊躇いつつ、マナを口に運んだだろうと思います。それで飢えをしのぐ事が出来たのであります。
 今は穀物を作る技術も、海に行って魚を取る技術も昔とくられべてはるかに発達しています。美味しい米でありながら、量も昔より遥かに多く取れるようになりました。海に魚が少なくなるほど取れるほどの業を人々は手にしています。季節とは関係なく果物を作る業を人々は手に入れました。実験室だけのことでありますが、石油をもって人間が食べられるものをも作るようになりました。しかし、考えてみれば自然の力を借りずには人間には何一つ食べ物を作る事が出来ないモノであります。この意味では私達の前にあるすべての食べ物はマナであります。すなわち、神様が用意してくださったものであります。しかし、私達にはもはや食べ物を手にして「これなんだろう」という驚きと感謝の気持ちは消え去り、自分の力だけで、食べ物を手にいれたかのように誇っているのはないでしょうか。
 今日の個所を通して神様は私達に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるために」マナを降らせたと語っていますが、今日の個所を通して私達は神様の言葉によって生かされているということを改めて確認する事が出来ればと願います。
 今日の個所の「人はパンだけで生きるのでなく」云々と言う言葉はイエスによってでも引用されたことがあります。すなわち、マタイ福音書の4章4節以下に記されていますが、イエスはバプテスマヨハネよってバプテスマを授けられて、間もなく40日間断食をしながら祈りをしますが、誘惑する者が空腹の極限に達しているイエスに現われて、足下にある石がパンになるように命じるように唆します。するのイエスは今日の個所を引用して人はパンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのであると答えるのであります。
 ここでの「パンだけで生きるのでなく」とは勿論、人間は物質だけで生きる者でないという意味でもあります。物質それ自体には命がありません。生かす力が働いて初めて生きるモノであり、動くモノとなるのであります。
 人がパンだけで生きることが出来ると思い込んでいる事を喩えで言えば、自動車にガソリンだけを入れれば走れると思い込んでいることと同じであろうと思います。どんなに優れた車であろうとも人が乗らないでいれば、それはただの物質に過ぎないものであります。動かないものであります。人が乗り込んで初めて走るものモノであります。
 また、もう一回確認したい事でありますが、人は「神様の口」から出る言葉によって生きるということであります。神様の口から出る言葉とは自然を支配する力であり、すべての命を創造し、支配する力であります。しかし、人の口から出る言葉にはこのような力がありません。この世のすべての人は神によって造られた被造物に過ぎないからであります。例え、最終的な解脱した者であると言っても自らの力だけで「麦一粒」作る事も出来ないのであります。
 イエスが神様の口から出る言葉の意味を要約したところがありますが、「神を愛し、人を愛する事」が神様の口から言葉のすべてであると言っていました。神を愛するということは私たちがこのように神様によって造られた事を感謝することであります。神様によって命が与えられ、今も命が維持されていることへの驚きと感動が神様を愛することであります。神様を愛するということは私たちが神様によって生かされ、愛されていることを確認する為の人間側からの行為であります。
 神様は私達が互いを助け合わせる為に隣の人をお造りになったのであります。この神様の旨を受け止めて実践することが神様を愛することであります。ですから神様を愛するという事は隣人を愛することと一つであります。互いが愛し合うべきであり、協力しあうべきであります。
 隣の人の手からパンをどう奪おうかだけを工夫するのが今の世の中でありますが、隣人とどう分かち合おうかをも共に悩み、工夫することも必要であります。これが神様の口から出る言葉ではないでしょうか。