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「うめきながらも」(ローマ書8・18〜25)
テーマ:『苦難』、私達の今の苦しみは無意味なモノでなく、神の国のための準備である。
04.3.7.和白教会、黄仁坤。
この何日間、冬に逆戻りをしたかのような寒さが続きましたが、天気予報によりますとこの寒さも今日までであるそうです。風邪で礼拝に出られないと連絡をして下さった方もいますが、季節の変り目ですので特に風邪には気をつけながら過ごしたいと思います。
この間の金曜日の新聞を見ていますと、博多区にある雑餉の隈という遺跡から弥生時代の石剣3本が出土したと報じられていました。完全な形で出土したと言いながらもその中での一本は折れていたそうです。色々思わされた記事でありましたが、幾つか、今日のメッセージのテーマに沿う様なものだけを申します。
当時としては石の剣とは勿論大変な貴重品であって、身分の高い人が亡くなった時のみ、剣と共に埋葬していたのでありますが、このようなモノの発掘は様々の情報を私達に語ってくれるわけであります。専門家によりますと今度発掘された墓は剣などが出たことから、中国の史書「魏志倭人伝」に出てくる奴国の有力者の墓として推測されるそうです。
今度の発掘だけに限ることではありませんが、何処の墓であろうとも、そこから出る副葬品を見ればその当時の人々が死後の世界をどう想像していたかを垣間見ることが出来るのであります。例えば、剣と共に埋葬したのを見れば、死者が剣をもってあの世に行くようにという願いが込められていたことを知ることが出来ますが、ところが、これはあの世を概ねこの世の延長として考えていたからであろうと思います。すなわち、戦いなどがあるこの世での営みに準じてあの世をも画いたという事であります。
これは聞いた話でありますが、沖縄では葬儀の際に死者と共に紙幣を真似たモノを埋葬するそうです。これに似たような事を私は韓国で見た事があります。亡くなる直前にその方の為にお金を枕元に用意しておいて「あなたがもっていけるものである」と語りかけるのでありました。旅に行くのにお金が必要であるというこの世的な思いがそうさせたのであろうと思います。ですから、この場合も先ほど言いましたようにあの世をこの世の延長線上のモノとして想像していた一段面であります。
信仰のない人々はこのように未知であるあの世をこの世に還元して想像してみたりします。あの世を想定するだけでもうすでに宗教的であると言っても良いかも知れませんが、と言っても、私達とは違う宗教であり、信仰の内容であります。私達のあの世への信仰は私たちが想像して作りあげたのでなく、神様の約束として伝えられたモノであり、私たちがそれをアーメンと言って受け取ったものであります。また、イエスが復活をもって死後の世界を具体的に示してくださったのであります。すなわち、私達の信仰は決して想像の物語りとして終わるのではありません。私達信仰者にとってのあの世は現実の問題であり、神が共にしてくださるという約束がありますので絶望でもありません。このような意味で希望であります。
先ほど紹介した遺跡で出土した剣の記事をみながら色々思わせられたと申しましたが、もう一つ思い浮かんだことでありますが、弥生時代と言えば、B.C.400年〜A.D.
300年であります。ですから大まかに言って、イエスが活躍し、パウロが活躍し、福音書やその他の聖書の文書が書かれた時代であります。約2,000年前に書かれた新約聖書でありますが、今私たちが読んでも全く古いという感じがしないものであります。今、読んでも全く新鮮そのものであります。神様の言葉は2,000年たっていても全く新しく私達の心を打つモノであります。これからも永遠にそうであろうと信じておりますが、今日の聖書の個所を見ても、今の時代を生きる人々にも全く必要な言葉が記されていることを知ることが出来ます。この御言葉の新鮮さについては最後にもう一回申し上げます。
一方、石の剣がほぼ完全な形で発掘されたとしても折れたものがあったり、そこに刻まれた文字や模様が読めなかったりするものであります。形あるモノはこのように風化し、折れて形を崩すモノあります。私たちはこのような事を知っていますから、目に見えるものに希望と置くのではなく、まだ見ていない神の約束へ希望をおき、今の肉から来る苦しみを忍耐しているのであります。
さて、今月は『苦難』をキーワードにして共に聖書から聞きたいと願っています。なぜ『苦難』をキーワード選んだかと言えば、来月にはイエスが十字架に掛かり死んで、三日目に復活をされたことを祝うイースターのある月であります。イースターを祝う前にまず十字架の苦しみ、また私達のような信仰者の苦しみなどについて聖書がなんと語っているのかを共に聞こうとしたからであります。
今日の個所はパウロによる手紙という形で語られているローマ書でありますが、今日の個所を見る前に今日の個所を読むのに必要な予備的な知識を少しだけ申します。
キリスト教にはいわゆる「終末思想」があります。これを真似してカルトなどが人々に恐怖を与え布施をさせたり、教祖が提示する救いの方法に従わせるために悪用されたりする残念な事態を私たちは度々見ていますが、キリスト教が言う終末思想とはそのような浅はかで、陰惨なものではありません。
これを端折って言えば、イエスが2000年前にこの世に来られた時から終末はすでに始まっております。しかし、約束されているイエスの再臨を私たちはまだ見ていません。ですから私たちはイエスの再臨を待ちつつ、未だに終末の時代を生きているということであります。これによって何れかは終末が来るから慾まま今を過ごせば良いということでなく、明日が私達にとって終わりの時かも知れないという緊張感をもって生きる必要が生じてくるのであります。実際に私達に明日があるという保証は何処にもありません。私は明日確実に生きているといえる人はこの世に一人もありません。個人の単位であれ、地球の単位であれ、命の存亡を決めるのは神様であります。兎に角、こういうわけで、私たちには一日一日が全く無闇に過ごすことが出来ない日々であります。そして最後には、私たちはイエスの再臨の際に神の前に立たなければならないのであります。これがキリスト教が言う終末思想の粗筋であります。
今日の個所の中でもポイントとなる個所だけをいくつ選んで申しますが、今日の聖書の個所は18節で「私は思う」と言う言葉から始まっていますが、とても大事な言葉であります。イエスの「復活」は私達に聖書を通して伝えられたことであります。すなわち、私たちが自ら目撃したわけではありません。しかし、イエス本人が復活を約束し、また、誠実なイエスの弟子達が復活したイエスに出会ったことを証言をしましたが、これによって出来たのが新約聖書でもあります。それで私たちにまで伝えられているのであります。この伝えられているのが私たちに何を語ろうとしているのかをそれぞれの信仰者は自分の言葉で考え、また語らなければならないのであります。パウロは多くの人々の為に、自分に復活と再臨の約束とが伝えられたことを自分の言葉で語りましたが、ローマ書はそのような彼の手紙のひとつであります。兎に角、このことを示しているのが「私は思う」というパウロの言葉であります。
「私は思う」という姿勢のない聖書的な知識はある意味で、極めて無責任な知識であり、また、内面化されていない表面的なものであろうと思います。例えば、「私は分かりませんが聖書が、牧師がこう言った」というだけであれば、御言葉が自分の心の底まで落とされていないという事を意味します。心の底まで御言葉が落とされて初めてその人の生きる為の糧となり、生きる為の原動力となるのであります。
話がやや逸れましたが、パウロは今日の個所で、自分に言い伝えられた復活と再臨の約束を信仰に基づいて自分の言葉をもって、終末を生きる信仰者の希望を語っているのであります。
確固たる信仰に基づいて精力的に信仰を語り、またそのような生活をしていたパウロでありますが、彼にとってもこの世には多くの苦しみがありました。キリスト信仰による希望と喜びを語るだけでも彼は鞭打たれ、投獄されていました。また、自分のからだには棘があると言いましたが、何か不自由な身体条件であったわけであります。経済的には自分が稼ぎながら教会に奉仕をしていました。彼にとってこの世は決して楽な生活ではありませんでした。でも彼は信仰によってこのような苦しみは過ぎ去るものであって、やがて自分に現されようとする栄光に比べると、言うに足りないものであると言うのであります。
この言葉にもキリスト教の終末思想が基盤になっています。すなわち、終わりの時を希望をもって待ち望んでいるのであります。
パウロはこのように自分の苦しみを公けにしていますが、苦しみや悲しみを全く覚えることなくこの世を生きる人がいるでしょうか。人はみな生まれながら肉体的・精神的に苦しむ者であります。お金があって、健康であるから何の心配もないように見える人であろうとも一歩踏み入ってみると様々なことで苦しみ、悩むものであります。鼻で息をしながら苦しまない者は一人もいないのであります。
問題はこの苦しみをどう受け止めるかであります。このような苦しみは全く無意味で価値のないものであるとすれば、ただ避けて通るか、取り除くべきものであって、ひたすら憎むべきものであります。しかし、信仰者はこの世での苦しみを神の国を受け継ぐための準備として受け止めるのであります。すなわち、この世での苦しみは無意味、無価値なものでなく、耐え忍ぶのに値するものであって、無意味に終わることのないモノとして受け止めるのであります。それで、例え、この世において不治の病で苦しもうとも信仰者は絶望をしないのであります。これが、信仰の強さであります。
ところが、聖書によれば、このような苦しみは人間の罪から来ています。すなわち、人間は始めは生きるのにすべての条件が整えられているエデンの園におかれていました。そこでは食べ物を心配することなく、また、老いることも、病むことも、死ぬこともなかったのであります。まさにそこはパラダイスでありました。しかし、人は神に逆らった罪の故にその楽園を失ったのであります。
ところが、神様は私達にご自分と再び和解をする道を備えてくださいました。それがイエス・キリストであります。十字架の上で人々の罪の故に、全く無意味の死を成し遂げているかのように見えるイエスを救い主として告白することによっての和解の道を開いて下さったのであります。イエスの十字架の苦しみと死とが無価値であるならば、私達の今の苦しみはなおさらのことであります。しかし、イエスは苦しみの後に復活をなさったのであります。苦しみと死とに打勝ったのであります。「主・イエス・キリスト」と言う告白によってこの勝利に私達も参与しているのであります。すなわち、私たちはパラダイスに呼び戻される者として約束されているのであります。そこは剣もお金も要らないところであります。ただ神様がすべてを整えて下さるところであります。まさにエデンの園と同じところであろうと信じております。この希望の故に私たちは今の苦しみに耐え忍んでいるのであります。
最後に22節を見たいと思います。始めに2000年前に書かれた聖書であるのに今読んでも全く新しいと申しましたが、特にこの22節がそうであります。ここの「被造物全体」とはこの自然界全体を意味しますが、この自然界もまさに今苦しんでいると言うのであります。そのとおりであります。人間の富への慾が自然界を破壊しました。人間の慾によって水や空気が汚染されております。家畜も動物も生態系の破壊と共に訳の分からない病に苦しんでいます。まさにすべての被造物がうめきをあげている時代であります。2000年前に語られた言葉でありながら、これほど今の時代にも当てはまるのであります。パウロがこれを語った当時は勿論公害問題や遺伝子組み換えなどの問題はなかったのですが、人間が神に逆らう結果だけは予想していたのではないかと思います。
今の自然界の苦しみは、繰り返しになりますが、人間の慾が第一原因であります。すなわち、自然界は人間の罪の側杖をくらっているような格好でありますが、私達の人間がまずこの罪から解放されれば、自然界の苦しみも自ずと解放されるだろうと思いますが、今が、神さまとすべての人が和解をするチャンスであります。そのために今の苦しみがあるかも知れません。今の私達の個人レベルでの苦しみや、この自然界のレベルでの苦しみを無意味なものにしない為にも神様との和解が求められている今であります。
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