2004年3月14日

「真理の帯を腰に」(エペソ6・10〜17)
テーマ:『苦難』、教会は誰を相手にしてどのようにして戦うのか。
04.3.14. 和白教会にて、説教者:黄仁坤。
 
 私たちは時々家で映画を見ていますが、この間は「ガンジー」という映画を見ました。映画一篇を見て、彼の思想や業績を語ることは出来ないとは知っておりますが、映画を見ながら感じたことなどを中心にして少し彼についての話を申し上げたいと思います。実は彼についてこのように礼拝で例話として取り上げるのにはやや戸惑いがありました。彼について私が良く知らないという事の他に、もう一つの理由として、彼は私達と信仰が異なって、ご存知のように、ヒンズー教徒であるからでありました。しかし、敢て、礼拝で取り上げるのは今日のメッセージのテーマに良くマッチしていると思われたからであります。すなわち、私達の教会はこの世のすべての人々が主を信じて、共に主にあって兄弟姉妹でありたいという祈りをもっています。このことについて誤解を恐れずにもう少し大胆に言えば、教会はイエスを伝えるためにこの世と戦っています。しかし、この戦いによって他の宗教と血肉による戦いになってはならないのであります。今は他宗教とより積極的な対話が求められる時代ではないかと思います。何故なら如何なる理由を持ってでも神によって与えられた人の命を人が奪ってはならないからであります。例え、それが信仰的な理由であっても決して赦されることではないと信じています。考えてみれば、イエスを殺した人々もイエスが神を侮辱したという理由をもって、言い換えれば、信仰的な理由をもって殺したのであります。
 ガンジーは映画によりますと生前、彼の身近にいた人々に「バプ」と呼ばれていましたが、今は、通称「マハトマと」とも呼ばれています。「マハトマ」とは偉大なる魂という意味だそうです。キリスト教では偉大な業績を残した人に対してはその方の名の前に「セイント=聖」を冠して敬意を表しますが、「マハトマ」と言う敬称にはそのような尊敬の念が込められているだろうと思います。
 彼について辞書を引いてみますとインドの政治家、法律家、独立運動指導者、哲人などと紹介されています。彼はインドを独立のために徹底的に非暴力、無抵抗主義をもって指導しましたが、その方法の一つとして彼は11回に及ぶ断食という武器をもって、イギリス帝国と戦ったわけであります。また、彼はヒンズー教の信者でありながら、宗教を越えてインドを一つに纏めようとした人でもありました。映画によりますと、イギリスのある牧師とも良き親交をもっていました。互いが理解者であり、協力者であったわけであります。兎に角、そのような理念でインドを指導していました。それで、ガンジーはイスラム教とも対話をしようとしますが、残念ながら、これに反発した宗教の一員によって暗殺されたのであります。
 映画の最後に彼の言葉が紹介されましたが、彼は「自分が苦難に会う度に、全歴史を通して見ると常に真理が勝利を収めた。一時的に不正が勝利を得て、強硬に見えてもそれは必ず滅びた」と言う歴史観をもっていました。
 特にガンジーの姿勢の中でも、今日、注目したいのは彼の非暴力による戦いであります。今の世界を見れば、政治的な理念や宗教的な理由をもってテロが相次いでいます。この間もスペインで同時多発テロが発生して200人近くの人が亡くなりました。武力をもって自分達の主義主張を達成しようとしています。今の時代は昔と違って盾や槍だけでなく、爆弾、飛行機などでテロを行っていますから、巻き込まれる犠牲者も多くなっているのであります。
 ある哲学者はこのような時代を見て、人間は月まで行くほどの科学を発展させたが、それに似合う精神世界は未だに見ていないと言っていましたが、兎に角、今の世界はガンジーの精神と方法が生かされていないと言えるのではないかと思います。
 ところが、私にとって一つの宿題でもありますが、ガンジーの思想の中で「国家」や「民族」がどのような位置を占めているのかが気になっています。また、その事については映画を見る限りでは知る術がなかったのでありますが、なぜ、ガンジーにおいて「国家」や「民族」がどのような位置を占めているかと知りたくなったかと言えば、先ほど申しましたように宗教を越えて国を一つに纏めようとしました。このことは一見、国家や民族が宗教の上位に置かれていて、初めてそのような発想が出てくるのではないかと思われたからであります。
 聖書の教えとしては信仰を越えての国家や民族はありえないのであります。当然、信仰が国や民族より上位であります。というより信仰は絶対価値であります。ガンジーにおいての信仰と国家とはどのような関係にあるのかについてはまだよく分からないですが、これから学ぶ機会があればと思っています。私にとってそのような課題は残りますが、勿論、彼の非暴力による戦いの精神と実践は素晴らしいものであり、大いに賞賛されるべきことであると思います。
 さて、今日の聖書の個所はエペソ人への手紙の終わりの部分でありますが、ここを見ると戦いに出るための軍人の姿を連想させます。士気を自ら向上させ、盾と槍を取り、全身を神の武具で固めるように勧めているのであります。
 ところが、今日の個所を良く見ますと二つの内容からなっています。10〜13節までは戦いの相手は誰であるかが、続く、14節から17節までは戦いに出るために用意すべき神の武具とは何かが示されています。順を追って見て行きたいと思いますが、このエペソ人への手紙の特徴の一つとしては教会論的な内容が目立っています。すなわち、教会は何をもって一つであるべきか、また、教会のあり方や、教会のこの世においての役割などが強調されているのであります。このような教会論的な視点で語ってきたパウロは今日の個所で締めくくりとして、纏めているのであります。それが10の「最後に言う」という言葉に現われています。すなわち、この箇所を教会の最終的な使命は御言葉をもってこの世に積極的に戦いを挑むべきであるというメッセージとしても読むことが出来るのであります。
 「最後に言う」と言う言葉の後に、「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい」と励ましいます。ここの「主にあって」とはイエス・キリストと共に歩むことによって、ないし、イエス・キリストに委ねることによってでありますが、これによって強くなりなさいと言っているのであります。今日の個所は戦いに出る軍人を連想させるところであると申しましたが、戦いに出るのに銃剣の性能によってでもなく、肉体的な強さでもなく、主にあって強くなりなさいと言うのであります。
 「主にあって強くなる」とは大事なメッセージであります。軍隊とは軍人の士気を高めるために仮想敵を想定して、その敵に対して敵愾心を絶えず呼び起こします。私は韓国で25ヶ月、軍人をしていましたが、毎日のように「金日成を殺せ」と叫び、また、そのための軍歌を歌わせられました。「怒りによる力」であります。しかし、今日の聖書の個所はそのような怒りによって強くなりなさいでなく、イエス・キリストの愛をもって強くなりなさいと言っているのであります。イエス・キリストにあって強くなった者は幸いであります。もうすでに勝利者であるからであります。
 もう少し軍隊の話をしますが、服務の期間中のつらかった多くの事をいまだに覚えています。毎日のように訓練があり、毎晩夜中起きて見張りに出なければなりませんでした。冬になると山に上って頂上あたりで一週間ほど耐寒訓練をしなければなりませんでしたが、これが何より辛かったのでありました。穴を掘って零下10℃のところで薄い毛布何枚かを重ねて同僚と抱き合って寝なければならなかったのであります。
 銃は毎日分解して磨き、また組み立てておかなければなりませんでした。このような事は、勿論、戦闘力を向上させるためであります。
 これも軍隊の話でありますが、私の知っている人から聞いた話を紹介します。彼はアメリカの軍人でありました。海兵隊としてベトナム戦争に参戦をしたことのある人でありました。彼はもはやかなりの年でありますが、今見てもとても鍛え上げられいた体である事を知ることが出来るほどであります。海兵隊として優秀な軍人でありました。多く勲章ももらったそうです。当時はより多くの人を殺すのが彼にとって名誉であり、国と平和のためであると信じて疑わなかったそうです。
 しかし、ある日いつものように作戦に出て洞窟に入り敵を探していたそうです。あまりにもドラマチックな話でありますが、彼はその洞窟の中で出産のために呻いている女性に出会います。彼女は一人で洞窟に隠れて出産をしていたところであったそうですが、彼は人を殺すために血眼になって洞窟に入りましたが、そこでその出産に出会って、否応なく生まれてくる赤ん坊を受け取ったのでありました。その時、手が覚えたその赤ん坊の感触を彼は忘れる事ができなくなったそうです。その後、彼は間もなく除隊が出来ましたが、除隊した後はその洞窟でのショックで精神的に不安定になり、精神病院に通わなければならないほどであったそうですが、今はその時の事が切っ掛けになってクリスチャンになり、反戦運動の為の公演のために走り回っています。
 強靭に作りあげられた一人の優秀な軍人が、生まれたばかりの弱弱しい子供を手にして
人間の本心に呼び戻されたのでありました。以前は国家が提供するイデオロギーによって強くなっていましたが、今や彼は主にあって強くなっているのであります。
 11節の始めに「悪魔の策略に対抗して」と記されていますが、「悪魔」とは神様に対抗しながら、私達の外に存在する何かではありません。悪魔とは私たちが神様の御旨に従うのを妨害する勢力のことであります。すなわち、人は自分で立てた価値に従おうとします。また、何かの団体となれば団体はまたそれなりのイデオロギーを掲げ、構成員にそれに従順であることを強要するものでありますが、このようなモノをも悪魔となりうるのであります。そのような諸々に従うのでなく、まず、イエス・キリストがなんと言うのかを聞き、これに従うのが本当の勇気であり、強さであります。
 先ほど10節から13節までは教会が戦うべき相手は誰であるかが示されていると申しましたが、教会が戦うべき相手はイエス・キリスト以外の言葉に従おうとする勢力でありますが、これが悪魔であります。これは勿論私達の心の中においても働く場を求めるモノであります。
 最後に14節から17節まででありますが、ここは表現として「正義の胸当」、「救いの兜」などと色々示されていますが、中心となる言葉は「真理をもって武装しなさい」となると思います。それで、真理とは何かについて少し考えてみたいと思います。
 真理とは何であるかという問いほど古くて、かつ平凡な問いでありますが、また難しいモノでもあります。昔は真理とは人間の認識とは関係ない客観において存在すると思っていました。例えば、哲学の始祖と言われるタレスは「万物の原理は水である」と言いました。このようにすべてに当てはまる「原理」を、言い換えれば、「真理」を人間の意識の外で求めていたのであります。しかし、哲学者デカルト以後は人間の主観が意識されるようなりましたが、ところが、デカルトは客観と主観とは一致できないと言うことに気づいて、「ただ、我、思うが存在する」とと言う有名な言葉を残しました。それ以来、主観と客観との関係をどう結びつけるかと言う謎を哲学は抱えるようになりますが、哲学においては未だに真理について決着を見ることが出来なく、未だに問い続けていると言えます。
 しかし、クリスチャンは常に真理は愛の神様にあって、その神様を呼び求める事が、また真理に適うと信じて、告白します。すなわち、それを神様が私達に期待するところであると信じています。ところが、その真理をイエス・キリストは余すところなく私達に示してくださいました。それで信仰者は迷わずに強く生きることが出来るのであります。
 イエスはこの世の憎しみによって十字架の上で殺されました。しかし、死に終わることなく復活を成し遂げ私達に今も本当の力とは何か、すなわち、この世の槍や銃に打勝つ力とは何かを語ってくださっています。
 今月は「苦難」をキーワードにして聖書の個所を選んで共に聞こうとしていますが、イエス・キリストの十字架は、真理に従うことは苦難をも覚悟しなければ、真理の道を選ぶことが出来ないと言うメッセージを私たちに語っています。
 この世の論理や流行に従うのは容易いことであります。それがより強く見えるものであり、目の前の利益が伴う時が多いからであります。例えば、会社ぐるみの不正を見てそれに拒む為には会社から、同僚から追い出されるのを覚悟しなければならないのであります。
この事の同じく、イエス・キリストに聞き従うのは苦難を覚悟する上で、この道が勝利の道である事を信じる時のみ可能であろうと思います。共に御言葉によって強められ、このような信仰者でありたいと願っています。そのような教会を共に作りたいと祈っております。