2004年3月28日

「敢えて誇ろう」(第2コリント11・16〜21)
テーマ:『苦難』、信仰による誇りにおいて生きよう!
04.3.28. 和白教会、説教者:黄仁坤

 今日は望美さんの証を聞くことが出来て嬉しく思います。私達の教会は証の時間が少ないのではないかと思っていますが、これからも多くの方の証を期待しています。今日のメッセージのタイトルは「敢て誇ろう」としましたが、これを良く見ると「勇気をもって誇ろう」という意味であります。証も一種の誇ることであります。つまり、自慢であります。神様と共に歩むことによって「このこのような喜びがった」、「このようにして苦難を乗り越える事ができた」、「今まで見えなかったモノが見えてきた」などの生活の中でのクリスチャンとしての喜びを分かち合い、励ましあうことが証であろうと思います。
 日本の文化の中では「自慢」と言えば、さほど良いイメージはありませんが、自分に対して誇る事は大事であろうと思います。つまり、自分はどのような人であると言う誇り、ないし、アイデンティティーをもつことはけしって悪いことではないと思います。
 今日の聖書の個所でもパウロは自分とはこのような人であると誇りをもってコリント教会の人々に紹介をしています。勿論、パウロはこの世的なモノをもって誇っているわけではありませんが、このことについては後でもう一回見たいと思います。
 また、今日の聖書の個所のずっと前でありますが、第2コリント1章14節を見るとパウロは自分だけの事を誇っているのでなく、信仰によっての兄弟姉妹であるコリント教会の人々が自分の誇りであると言っています。誇れる家族を、友人をもっている人は幸いであります。パウロのように私たちも教会の中で互いが互いを誇りとする関係を保ちたいと願っています。
 私は機会あるたびに言っている事でありますが、クリスチャンになってからの教会の中での交わりは何よりも喜びであります。言い換えれば、教会の中で兄弟姉妹は私の喜びであり、誇りであります。これからも喜びをもって皆さんと共に歩みたいと思います。
 話は少し変わりますが、自分に対して誇りを持つことが周りの人々によって赦されていない人を紹介します。何日かの前の夕方にある青年がやっとの思いで私達の教会を訪れてくれましたが、私と二時間以上色々話をしました。彼について、プライバシーを考えながら許される範囲で紹介します。
 彼は多くのうつ病に苦しんでいる人に良く見られるようなゆっくりとした喋り方で話をしてくれましたが、私にはその他の異常を認める事が出来ませんでした。しかし、今、彼は福岡の市内にある精神病院に入院していると言う事でありました。ですから、教会来れたのは月一回ほどの一時帰宅の時でありました。何でこのような人が入院しなければならないかと、不思議で仕方ありませでしたが、本人も一日でも早く退院をしたいと言っていました。ところが、退院は親が許さないので仕方なく病院で過ごしているということでありました。入院の際の状況も私には全く納得が行きませんでしたが、この部分についてはより詳しく言うのは遠慮したいと思います。兎に角、彼の生い立ちなどを聞きますと、中学の時、酷い虐めにあってその後遺症もあり高校の時、登校拒否をしたそうですが、どうやら親はそれを大変な問題としてとらえたようで、「人でなし」、「気違い」などと罵ったようであります。とうとう高校も卒業できずに終わったようでありますが、後10年近く親のそのような無理解のもとで暮らしたようであります。いよいよ約一年前に今の病院に入院させられたようであります。私は病院の中での生活や無理矢理に薬を飲ませられていたり、それを拒むと閉鎖病棟に移されるなどの話を聞きながら病院や彼の親に対して憤りを覚えました。近いうちに私が彼を面会に行ってこれからゆっくり話をしていきたいと思っていますが、彼はしきりに自分は生きる必要があるかと訪ねていました。自分の存在の価値をもはや自ら認める事が出来ない状態になっているのであります。例えば、彼の親戚の一人は彼に「お前の名前が悪いんで、この○○と言う名前を毎日に何百回もノートに書きなさい」と言われたそうです。人の名を否定することはその人のアイデンティティーを否定しているよう行為でありますが、そのような言葉による暴力に彼は曝されていると思われました。
 彼は私と話をしながら今にでも泣き出しそうな顔をしていましたが、病院であまり泣いてきたので涙が枯れてしまったと言いました。私は「あなたは全く問題ない人です」と言いますと深々と「有難うございます」と言いながら、今まで周りの人々にそのように言われた覚えがない、褒められたことがないと言っていました。彼は周りの人々の言葉による暴力によって、自分の存在価値をもはや自ら見出すことの出来ないところに立たされていると思われました。
 先ほど、彼は自分への誇りやアイデンティティーが周りの人々によって否定されたと言いましたが、アイデンティティーと言う言葉を辞書で引きますと「人格による同一性。ある人の一貫性が成り立ち、それが時間的・空間的に他者や共同体に認められていること」と説明されています。
 もう前置きが長くなっておりますが、このアイデンティティーとは今日の個所の話とも関係がありますのでもう少しだけ申し上げます。このアイデンティティーとは今、申し上げたように辞典的には「共同体がある人はこう言う人であると認め、またそれを本人も認識する事」であります。一方、日本の文化は非常に和を重んじ、世間体と言う価値が大きく人々の心や行動を左右すると言われていますが、これを考えますと彼はこの文化の中で自分を見出すことが出来ないほど押しつぶされているとも言えると思います。
 このような世の中でありますが、少数のクリスチャンとして、確固たる信仰によって自分への誇りを持って生きる事が赦されている私たちは幸いであります。この世のすべての人が貶してもイエス・キリストが私を赦し、善しとしてくださるところにたって、御名を賛美できる者は幸いであります。
 さて、今日の聖書の個所はパウロは自分を誇っているところであります。このコリント人への手紙はパウロが自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明すために書いたモノでありますが、その過程の中で自分を誇っているのであります。因みに言いますが、パウロの手紙はそれぞれ特徴があります。すなわち、ローマ書は自分の信仰を顧みながら自分の信仰を論理的に整理し伝えているものであります。また、コリント第一手紙は教会の中での具体的な問題がらに対しての問いに答えていると言う格好であります。ところが、このコリント第2の手紙で、パウロが、なぜ自分を弁明し自分の誇りを語っているかと言えば、当時、パウロに対しての中傷誹謗があったからであります。パウロは自分は使徒であると度々紹介していましたが、この紹介に対して文句をつける人ががいたのであります。すなわち、イエスの直接弟子だけが「使徒」であると言えるのにパウロにはそのような資格がないと非難をし、パウロが語った福音までに疑って掛かった人々いたわけであります。それでコリント教会の中でもそのような言葉に翻弄される人が生じました。それでこのような手紙を書いて自分について語っているのであります。
 なるほど、パウロはイエス直接弟子ではなかったのでありますが、でも彼はイエス・キリストの霊によって導かれ、福音を伝えるも者として立てられているという信仰にたっていました。それで自分を「使徒」であると紹介することに対して憚らなかったわけであります。考えて見れば、パウロ以外の使徒である人々はイエスが十字架につけられるとみな逃げた人々でありました。しかし、復活のイエスに招かれた後は彼らはあらゆる苦難や非難に曝されてもその場を離れようとしなかったのであります。すなわち、イエスの直接の弟子と言えどもイエス・キリストの死後、彼が約束したくださった霊によって新たに集められた人々であります。霊によって導かれたという点を考えれば、パウロも他の使徒と全く同じであります。
 さらに言えば、私達もパウロや他の使徒とも同じであります。イエス・キリストの直接弟子ではありませんが、でもイエス・キリストの霊によって導かれ、神の子とされ、キリスト者となったのであります。私たちは人によってキリスト者として立てられたのではなく、神様によって立てられたのであります。ですから、私達が他人に福音を伝えるところに立っているという意味で「使徒」であり、イエス・キリストに従うという意味で「弟子」であります。約束によって永遠の命に与っている「神の子」であります。この誇りないし自慢は大事であります。また、この終わりの時代を生きるための最も大きな武器であります。
 今日の聖書の個所を16節から21節としましたが、内容から言えば31節までしなければならないところでありますが、今日の個所である21までではパウロは他の人々が使徒であると言う誇っていたり、また、他の人々がパウロを中傷誹謗しているが故に「敢て」誇っているという弁明しています。敢て誇っているから我慢して聞いてくれと頼んでいるとも言えます。言い換えれば、パウロの本当の誇りは主イエスと共にいるという誇りしかないということでありますが、他の人々のために、敢て誇っているということになろうと思います。
 パウロの本心としてはこのように誇ることはしなくとも良かったですが、敢て誇っているその内容とは何であったかは、22節から31節までに記されています。主なものだけを見ますと、彼は40に一つ足りない鞭を5度受けたと証しています。
 映画などで鞭打たれる場面などを見たと思いますが、昔の鞭とは先に鉛で錘をつけたそうです。また皮にはカラスや動物の骨の破片などを糊でつけていたそうですが、これで打たれると体を鞭が蒔きつけるわけですが、体に巻きつけられた鞭を引っ張ると肉までがそぎ落とされるような厳しいものであったそうです。それで律法にもその数が制限されています。つまり、39回以上打つのは禁止されていましたが、これは命を失うか助かるかという境目が39回と思われたからでありました。イエス・キリストを伝えた理由でパウロはこのような過酷な鞭を5回も受けたと言っているのであります。
 他にも石で打たれたこともありました。また、しばしば食物がなく、寒さに凍えていたと言っています。盗賊に会い苦しまれた事もありました。文字とおり、あらゆる艱難に出会っていました。
 このような肉体的、経済的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみを受けていました。26節を見ますと注目を引く事が記されていますが、真ん中あたりに「同国民の難、異邦人の難」と記されていますが。彼はイエス・キリストを伝えることによって同じユダヤ人にも嫌われ、また異邦人の人々にも嫌われたということを知ることが出来ます。まさに、外に出ても中に入っても苦難であったわけであります。何処でも心と体を休ませる事が出来なかったのであります。このような艱難を誇りの項目に列挙した後、パウロは31節で「永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は」云々と神様を信頼し、神様を最後の砦としています。すなわち、パウロにおいては、神様のみが安らぎのところでありました。
 繰り返しになりますが、パウロはこのようなあらゆる苦難の中でもはっきりした自分のアイデンティティーをもっていました。つまり、自分はキリスト者として、使徒として立てられたという自己認識がありました。彼にとってこれをほかに変えられる喜びはなかったのでありました。それによってあらゆる苦難を受け入れ、また乗り越えたのでありました。
 如何でしょうか。この世は多くのモノをもっていることを誇りとします。知識を誇りとします。綺麗な服を誇りとします。大きな家を誇りとします。ご馳走を誇りとします。時にはない学歴までを偽って誇ろうとします。しかし、パウロはそのようなもの誇りとするのでなく、キリストのために受けた自分の苦しみや弱さを誇りとしているのであります。
 今月は「苦難」をキーワードして共に聖書から聞いておりますが、一生の間、苦難にあわないで終えることが出来る人がいるでしょうか。周りの人に常に認められつつ生きる人がいるでしょうか。時には誤解されたり、時には言われなきことをも言われるものであります。何のことも起こらないように過ごそうとすることを皮肉って「事なかれ主義」と言いますが、何のことも起こらないようにどんなに頑張っても私達には様々の不安や悩み、苦難が降りかかってくるものであります。問題はこれを何処に立って受け止めかであります。どんなに経済的な苦しみがあっても、また、周りの人々の揺さぶりがあってもしっかり心の根を下ろせる信仰をもっている人は幸いであります。信仰によってその苦しみや、悩みは希望に変えられるからであります。そのような苦難が全く意味のないものでなく、価値あるものとして見えてくるからであります。神の前に立つ時、そのような苦しみや艱難が私達の誇りの項目に記される事を私たちは知っているからであります。