2004年4月4日

「息を与えて」(エゼキエル37・1〜6)
テーマ:『復活』、クリスチャンは復活の希望と共に永遠を生きる。
時:04.4.4. 所:和白教会 説教者:黄仁坤

 彼方此方から桜の満開のニュースが聞こえるこの頃であります。私もそのような話を聞きますとそわそわしてきますが、明日は桜が咲いている近くのダムにでも行ってみようかと思います。桜だけでなく他の花をも楽しめる季節となりましたが、教会の入り口に置かれている植木鉢の花も最近、茎が太くなり、花びらも大きくなってきました。見る人々の心を和ませてくれます。時々私も眺めて楽しんでおりますが、植えたり、水をやったりしている方々に感謝しています。私は日本のように美しい季節や自然条件をもっている国もそれほど多くないと思っています。四季折々に花が咲き、はっきりした春夏秋冬の景色をもっています。
 ベトナムから来た人から聞いた話でありますが、勿論、ベトナムは一年中暑いところであります。それで季節感も当然ないと思われますが、その人が初めて日本に来て一冬を過ごす間、多くの木が枯れて死んでしまったと思ったそうです。二度と生き返ることがないかと見えたそうであります。しかし、全く枯れたかのように見えた木々が春になると葉を出し、花を咲かせるのを見て神秘的であったと言っていました。私たちには慣れてしまって春の感動をあまり覚える事がないかも知れませんが、春は花のように美しい季節であり、驚きであります。
 話が変わりますが、昨日は知り合いの一周年記念会が姪浜教会でありまして行ってきました。1) 33歳と言う若さで亡くなりましたが、その記念会で彼についての思い出話を聞き、ビデオを見ながら、多くの感動を覚えました。結論から言いますと彼の記念会を通して生きることの美しさを改めて覚える事ができました。私達は目の前の困難や悲しみを見ては、すぐ生きることは苦労ばかりだとか、悲しみに満ちているのが人生だと言ってしまい勝ちでありますが、昨日は神様がその場を通して生きることの豊かさを示してくださいました。
 彼についてまず少しだけ紹介しますと、丁度三年前だと覚えています。ですから彼が亡くなる二年前、彼のダンスを私は見に行った事があります。もともと彼のお母さんと私は先に知り合いになっていましたが、彼のお母さんから息子の公演があるから見に来ないかと誘われて行った訳であります。彼は高校の体育の教師をしていましたが、自分が好きなダンスをやりたいと言うことで学校を辞めて、グループを結成し、プロのダンサーとして活動を始めたわけであります。ところが、彼のダンスとは、街角で若者が体を捻ったり、回したり、飛んだりするようなダンスであります。彼のダンスのジャンルはそのようなモノである事を私は知っていましたので、彼のお母さんに誘われた時もさほど期待はしないで付き合いであるからと言う気持ちで花束を用意して見に行きました。しかし、彼らが舞台に登場するその瞬間、私は体中、電気でも通されたようなショックを受けました。髪の毛の色やスタイルは様々でありました。しかし、極めて洗練され、迫力満点で、人に感動を与えるのに十分なダンスでありました。何より彼らの表情や動きは真剣そのものでありました。私は感動して公演が終わったのにも関らず、花束を渡すタイミングを失ってしまいましたが、後で楽屋に行って彼に渡したほどでありました。
 それ以来、私の若者の見方が変わりました。私はどちらかと言えば、かなり保守的な傾
向がある人だと思いますが、そのような私の性格もあって髪の毛を染めたり、見慣れていないスタイルであったりするとそれだけで嫌悪感をもっていました。況してやそのような格好で街角で訳の分からない踊りなどをするなんてもってのほかでありました。
 しかし、彼らの素晴らしいダンスを見てからはそのような若い人々の格好より彼らがどれ程真剣に自分の事に取り組んでいるか、また、私の知らない世界と素晴らしさをもっているかを知ったわけであります。昨日も死者を偲んで彼の仲間達が式場で踊ったり、またそこに参列した人々も拍手をしたりしていました。
 彼は確かに短い生涯でありました。また、私とはたった一回だけの出会いでありましたが、私には大きなモノを残してくれたと思います。昨日の式場では、なぜか彼の死を悲しむより、逆説的な言い方でありますが、彼の死を通して生きる事はこれほど素晴らしいことなんだと言う思いでいっぱいでありました。
 彼と彼の家族は熱心なクリスチャンでありますが、そのような関係で昨日の式場でも読まれたと思いますが、式場で読まれた詩の一部を紹介します。これは作者の知らない詩でありますが、どうやらイギリスの人によるものではないかと言われているものであります。朝日新聞の天声人語にも紹介され、少し有名になった詩であるそうです。2)
「私の墓のかたわらで、泣くな/ 私はそこにいない/ 私は眠らない/ 私は千の風になり/吹きすぎていく/ 私はダイヤの粉となり、雪面にきらめく/ 私は日の光りとなり/ たわわなもみ粒に跳ね返る/ 私は秋の雨となり、そっと穏やかに降り注ぐ <省略> 私の墓のかたわらで、泣くな/ 私はそこにいない/ 私は死なない」となっていますが、この詩には多分に永遠の命や復活の信仰が含まれています。 
 前置きが長くなりましたが、来週は復活祭であります。そして今日は教会暦で言えば、棕櫚の主日であります。イエスがエルサレムに入城した日とされています。
 このようなことを覚えながら、今月は「復活」というキーワードをもって共に聖書から聞こうと思いますが、イエスはエルサレムに入城して間もなく十字架にかかって殺されました。しかし、自分が予言をしたとおり三日後にはよみがえったのであります。この復活の証言は当時の弟子達が思い出として語ったのでなく、復活したイエスが弟子達と直接話をしたり、共に食事をしたりしたという事実に基づいての証言であります。教会はこの復活という歴史的な事実の上に立っています。それで、私たちも復活を信じ、復活からこの世を受け止めつつ生きるのが許されているのであります。
 私たちにとってもしこの復活の希望がなければ、死というモノは絶望そのモノであります。このように私たちは復活信仰に生きていますが、もしこの信仰がなければ、死とは医学的ないし科学的な死としてしか受け止めることが出来ないモノであります。死への科学的視点からの定義を一つ紹介します。ある本からの再引用でありますが、先ほど読んだ詩とは全く正反対の内容となっています。まさに命のない殺伐な定義になっています。「死とは個体としての人間が、生活現象をやめて、再び元へ戻らない分解が始まり、やがて元素にまで分解してしまう現象である。従って、そのあとには、魂が残ってみたり、再生すると言うような事は考えられない」。3) これを纏めますと人間は死という時点をもって全く、無に帰するということになります。勿論、このような視点で生きている方も多くいますが、この視点で生きようとするのはある意味でとてつもない勇気が要る事ではないかと思います。
 死に関するもう一つの出来事を紹介します。約半年前に韓国で起きたことでありますが、中学三年生が白骨化した母親の傍らで変わり果てた姿で発見された事があります。勿論6ヵ月間、何も食べなかったわけではないでしょうが、生きる為の最小限度の事しか出来なかったと思います。彼が発見されていろんな意味で大きな波紋を起こしましたが、彼は母親と二人暮らしでありました。彼は自分の母親が亡くなって半年が過ぎても、全く自分の母親の死を受け止める事が出来なかったわけであります。それで、その遺体と共に半年も暮らしてしまったわけであります。
 彼は智恵遅れではありませんでした。知能においても、精神的な面においても全く普通の中学生であったそうですが、その中学生にとっては絶対的な母親が亡くなるのは全くの絶望を意味していたと思います。ですから、母親が死んで腐敗をし白骨化していく現実を目の前にしながら、その現実を現実として認める事が出来なかったのであります。すなわち、死という現実を受け止めることが出来ずに母親は生きているという幻想の中で暮らしていたということになろうと思います。
 今日の聖書の個所はこれとは全く逆の視点から私たちに語りかけてくれます。すなわち、神様の言葉から今の現実を見るという視点で語っているのであります。因みに言いますが、信仰とは私たちの理解や現実から神様の言葉を図りつつ聞くのでなく、神様の言葉から私たちの理解や現実を見る事であります。この計り知れない大きな神様の視点が私たちのような小さい人間に与えられたのは全く神様の恵みによるものであります。信仰によって生きる者は幸いであると言う所以であります。
 今日の個所を理解するために少しだけ時代背景を申しますが、今日の個所が神様によってエゼキエルに語られた時代はイスラエルの民はバビロンに捕囚として捕らえられて行った時であります。今日の個所の預言をしているエゼキエル自身もまたバビロンで捕囚として暮らしながら神様の言葉を聞き、人々に神様の言葉を語っていました。ところが、ある日、神様はエゼキエルに一つの幻を見せます。すなわち、神様がエゼキエルに枯れた骨で満ちている谷を見せて、これは今のイスラエルがおかれている現実であると言うのであります。
 今日の聖書の個所を1節〜6節としましたが、理解の便宜を図るために、1節から14節までの構造をも申しますと。1節から6節までは主に神様が枯れた骨をエゼキエルに示すところであります。そして、7節から10節までは枯れた骨が神様の息が吹き込まれては生かされる様子が示されています。最後に11節から14節まででは話が再び戻って1節から6節まで示された骨の意味が敷衍されているのであります。ですから、ここでの枯れた骨とはイスラエルの現実であります。言い換えれば、1節〜6節までは幻であって、11節から14節まではその幻に対応するイスラエルの現実であります。ところで、今日の個所で神様はエゼキエルに、枯れた骨に息を与えて生かすように命じるのであります。つまり、現実の絶望に、希望と命の源である神の言葉を与えるように言うのであります。
 信仰とは神様の言葉から私達の現実を見ることであると言いましたが、今、エゼキエルが置かれているイスラエルの現実は全くこの白骨化されたようなモノであります。神殿は破壊され、イスラエルの指導者達は捕虜として捕らえられ、奴隷のようになっています。イスラエルという信仰の共同体であり、民族の共同体は全く再建のめどが立たない状態であります。全く潰され絶望の状態にあります。しかし、神様はエゼキエルにこの現実に押しつぶされないで、神の言葉からこの現実を見なさいと言うのであります。希望を持ちなさいと命じるのであります。
 エゼキエルが置かれている現実はこのように絶望でありましたが、私達の現実は如何でしょうか。もし信仰による復活の希望がなければ、全くエゼキエルが見ている現実と私達の現実とは変わらないと思います。すなわち、現実としての私達のすべては死んで行きます。もし信仰がなければ、私達はこの死によって全く無という絶望に向かって進むだけであります。
 このように死とは私にとって避けられない現実でありますが、また、私と何らかの関係の中で生きている人々にとっても避けられない現実であります。すなわち、この死はただ私の肉体を滅ぼすだけでなく、人間の関係まで破壊するのであります。そして、破壊された関係が緊密であればあるほど人々に与えられるダメージも大きいのであります。時には決定的な意味をもって私に迫って来るのであります。先ほど申した中学生のように到底受け止める事の出来ないモノとなってくるのであります。
 生きることはとても美しいし、素晴らしいことであります。親や子供、夫、女房、友人などのように愛する人と共に生きることは、喜びでありこの上ない価値であります。しかし、このようなすべてを死は飲み込んでしまのであります。この現実においての絶望から私達を救うためにイエスはこの世に来られ、人々の罪によって殺されながらも、最後まで命の言葉である父なる神様に従ったのであります。このことによって死に打勝って復活され、神の御子と定められたのであります。このように、イエス・キリストの復活は私たちが語った事ではなく、イエス・キリストが復活という事実をもって語ったことであります。このイエスと共に歩む者にもまた復活が約束されているのであります。ここに永遠に続く命があります。

1)案浦 研、2003年4月1日 帰天。
2)朝日新聞、2003年8月23日。
3)昭和44年9月23日NHK総合テレビ教養特集「死後の世界」での榊原什教授の言葉の要約。