2004年4月11日

「死人の中から」(マタイ28・1〜7)
テーマ:『復活』、イエス・キリストを慕い求める者に復活の知らせは届く。
時:04.4.11. 所:和白教会 説教者:黄仁坤

 お早うございます。今日は私達にとって最も喜ばしいイースターでありますが、この事を覚えながら、多くの兄弟姉妹と共に今日の礼拝を捧げる事が出来て感謝です。
 この嬉しい日に、もう一つ嬉しい事が許されました。先ほど信仰告白を聞かせて頂きましたが、平岡さんが今日バプテスマを受け、私達の教会の家族として、また、イエスの体の一部を担って私達と共に歩む事となりました。これは神様の導きであって、平岡さんにとっても、私達にとっても大いなる祝福であります。
 バプテスマの意味は今までの自分を十字架と共に葬り、イエスの復活によって新たに与えられる命を生きると言う事であります。復活を祝うこの日にバプテスマを共に喜ぶことが出来るのを心より感謝します。
 私達の教会としてはこのような嬉しい事が重なりましたが、教会の外には大きな緊張がまだ残っています。三人の日本人の人質を解放するというニュースはあったようですが、まだ流動的な状態が続いています。事件が発生した以来の3日間、人質となった家族の気持ちを思いますと、不憫でしかたありません。恐らく、家族達はこの3日間、殆ど眠ることが出来ずにいるのではないかと私の経験から推測しています。人が極度に緊張していたり、悲しんでいると、普段はなかなか出来ないことでありますが、二晩ほどは全く眠らずにいられます。勿論、疲れない訳でなく、そのような疲れを覚える暇がないのであります。一刻も速い解決を祈ります。
 もう何ヶ月の前でありますが、福岡教育大学のあるゼミからキリスト教の死生観について話をしてくれないかと頼まれた事があります。そのために準備をしながら気づいた事であります。また、考えてみれば当たり前な事でありますが、葬儀の形式には一つの国や一つの文化圏、またその時代の死生観がよく現われます。例えば、盛んにミイラを作っていた古代エジプトの当時の死生観は、魂は死なないで体から抜けるだけの事であって、何れかその魂が戻れますので、その場所を確保しておかなければならないと言う考えから、遺体をミイラにして保存していたそうです。また、鳥葬というモノもありますが、人が死ぬと魂が野原に戻るのでそれを助けるために鳥の力を借りようとしてそのような葬儀の形が出来たそうです。
 キリスト教の死生観は如何でしょうか。福岡教育大学の講義で言った事でもありますが、一言で言えば、「終末論と復活」に集約されています。すなわち、人の魂は死と共に神様の御許で安らぎを得ますが、キリストの再臨と共に霊の体は起こされると言うことであります。それで私達は一旦、御許に戻った死者については神様に委ね、残された者は平安と希望をもって暮すのが許されるのであります。
このように、キリスト教は今を生きることについて関心が集中されています。このことは、また、キリスト教の源流となったユダヤ教においても事情は似ています。例えば、距離的にイスラエルに近かったエジプトなどでは先ほど申しましたように生きた者が死者の為にミイラをつくって保管し、祭っていましたが、イスラエルではミイラを作らなかったのであります。詳しく言う時間はありませんが、このことを考えますと、旧約時代のイスラエルにおいても死後の世界より現世が重んじられていたと言えるのであります。
 ところが、ユダヤ教とキリスト教と決定的に違っているのは、ユダヤ教においては復活とは「思想」であります。ユダヤ教の中でも復活と言う思想さえないグループもあったようでありますが、兎に角、ユダヤ教では復活は思想でありましたが、キリスト教は復活と言う事実と共に始まってたのであります。
 さて、今日の聖書の個所はイースターを記念し、私達に復活を伝えている個所を選びましたが、愛するイエスを亡くして絶望していた二人の女性が空っぽになっていたイエスの墓で「イエスは復活された」と天使から告げられる場面であります。あまりにも有名であって、あまりに多く私達は聞いている所でありますが、でも教会は繰り返しこれを語らずにはいられないのであります。キリスト教の原点であり、ここに最終的な希望があるからであります。
 まず、1節を見ますと「安息日が終わって週の初めの明け方に」という言葉になっています。安息日は土曜日でありますが、これが週の最後の日として考えられていましたのでこのような記述になっています。この言葉通りでありますが、イエス・キリストの復活と共に新しい週が始まり、新しい歴史が始まるのであります。この歴史はもう2000年前すでに始まっていますが、ユダヤ教からキリスト教が始まっています。すなわち、復活と言う点から言えば、復活という思想ないし物語からイエスによって現実の歴史になったのであります。この歴史の法則を私たちの個人のレベルで言えば、復活の知らせが個人の魂と心に届けられ、それを受け取る時、新しい歴史が始まるのであります。すなわち、新たなる人生が始まるのであります。
 この復活の知らせをこの世で一番先に受け取った人が今日の個所の二人のマリアであります。二人の女性はどのような心境で復活の前の3日を過ごしていたか、その気持ちを読み取れる言葉が「明け方に」であります。彼女らは金曜日の夕方、十字架から降ろされたイエスの遺体が墓に収められるのを確認し、家に戻りました。しかし、その次の日は安息日でありますので何も出来ずに気をもんでいたはずであります。一睡できずに二晩を過ごしたのではないかと推測しています。
 眠れず明るくなることだけを待ち焦がれていたが、結局は我慢できずに、まだ、暗いうちに家を出たので、墓にたどり付くと明け方になっていたのではないでしょうか。ところが、彼女らが墓に着くと大きな地震と共に天使が降りてきて、墓の入り口を塞いでおいて大きな石を転がしたのであります。聖書では神様が特別な人間歴史への介入をする時には地震があったと記しますが、二人の女性はこの時そのようなしるしを見たのであります。兎に角、彼女らが中を覗いてみるともうすでにイエスはいなくて天使だけが座っていたのであります。
 ここで、まず、二、三確認をしておきたい事でありますが、始めに、彼女らは家で復活の知らせを受け取ったのでなく、墓まで来てその知らせを受け取った事であります。この事は神様の業を考えれば回りくどいやりかたであります。つまり、最も御子イエスを愛するが故に眠れずに気をもんでいる二人を家におらせながら、復活を知らせる事も出来るのに、二人を墓まで来させるのであります。神様はこのように人間側の積極性を求めるのであります。神様は人間をご自分の意思通り動くロボットとして人間をお造りにならないで、自由意思をもって生きる者としてお造りになったからであります。このように、神様は人が自由意思をもってご自分と関係を作るのを望んでおられるのであります。つまり人間側の積極性が求められるのであります。これを聖書の言葉で言えば、神様は人間と契約を結ぶことを望んでいると言う事になります。すなわち、強制的に契約を結ばせてしまうのでなく、神様は私達を自由人として、自分の所に来るのを待っておられるのであります。
 もう一つは確認したいのはイエスの遺体は盗まれていなかったと言う事であります。今日の個所の前である27章62節から記されていることでありますが、パリサイ人々や祭司長らはイエスの弟子達がイエスの遺体を盗む事を前もって警戒していました。すなわち、イエスが自ら3日後に復活をすると預言をしていたので、もしかすると、弟子達が遺体を盗み隠して、復活をしたと言うかも知れないと考えていました。それで、ローマ兵にして墓を厳重に警戒するようにしておいたのであります。
 イエスの遺体は盗まれたと言う主張は根強いものでありますが、考えてみたらこの主張は不自然であります。すなわち、イエスが十字架にかかってなくなった後は、弟子達は一目散に逃げてしまっています。その人々が命の危険を犯しながら遺体の盗もうとしたとは考えられないのであります。また、もし盗んで他のところに埋葬したとしたら、パリサイ人々や祭司長らがそれを知らないはずがなかったと思います。また、遺体とはそれほど小さいものでもなく、簡単に処理できるものでもないのであります。しかし、未だにイエスの遺体が埋葬されたと言われる場所はこの世の何処にもなく、ただイエスの遺体が安置されていた洞窟だけが残っているのであります。
 今度は観点を変えて、彼女らが何の目的で、墓に行ったのかを考えてみたいと思います。勿論、彼女らは復活を信じていた可能性はあります。それで、それで復活を確認しに来たとも考える事も可能であります。しかし、これより、マルコによる福音書はそれを言っておりますが、彼女らはイエスの遺体に香油を塗るために来たと思われます。つまり、葬儀の為に来たのがその理由であろうと思います。
 私達はたまにテレビなどを通して目撃する事でありますが、何処かで飛行機事故等があった場合、例え、遺体を見つける可能性がないかのように見えるところであっても遺族らはその現場に出向くモノであります。また、そのように周りでも勧めるものでありますが、これはその現場や飛行機の残骸だけを見るだけでも、その時は悲しみは益しますが、これによって心に諦めがつくそうです。ですから、このことは残された者の心の癒しの為に必要な事であるそうです。
 ところが、二人のマリアにとっては簡単には諦めることの出来ないイエスの死であったと思いますが、あれこれ思い巡らして眠れずいた二人は、せめて葬儀または見納めでもしてからイエスへの思いを諦め、新しい人生を模索してみようとイエスの墓に来たのではないかと思います。
 この原稿を用意しながら昔、私の叔母から聞いた話を思い出したましたが、彼女は50位にして主人を亡くしました。韓国は今でも土葬が多いですが、叔父の墓も土葬で山の麓にありましたが、彼女は始めの内、毎日のように叔父の墓に行って泣いていたそうです。ところが、ある夏の日、墓の近くで蛇を見つけたそうですが、もしかしたら、この蛇は墓から出たかも知れないと言う思いに至っては、墓が怖くなったそうですが、それ以来独りでは墓に行くことが出来なかったそうです。それで段々叔父に対しての思いを少しずつ諦める事が出来たそうです。
 話を戻しますが、二人のマリアはイエスが殺された事に対して、様々な思いに駆られていたに違いないと思います。イエスを亡くした悲しみ、イエスを殺した人々への憎しみ、一目散に逃げてしまった弟子達に対して背信の念、殺される理由が全くないのに殺されてしまったこの世の不条理、また、この不条理に対して目をつぶっている神への不信、など様々な思いでいっぱいであったはずであります。このような思いをどのような形であろうとも整理しなければならない。そのような思いをめぐらしながら、朝早く墓に走ったのではないでしょうか。
 ところが、彼女らのこの走りの末、信じ難い復活が知らされるのであります。その瞬間彼女らの今までの挫折や悲しみは大喜びに変ったのであります。今日の個所の後でありますが、8節を見ますと「彼女達は恐れながら大喜びで、急いで墓を立ち去った」と記されています。全くのどんでん返しであります。最後の諦めの一歩手前での逆転であり、信仰による人生の逆転勝利であります。これが私たちがイースターを喜び、祝う所以であります。
 最後に7節の後半の言葉から共に聞きたいと思いますが、復活を知らせた天使は彼女らにガリラヤに行くように命じます。読みますと「見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう」と記されています。ところが、ガリラヤとは彼女らが生活をしていたところであります。つまり、その彼女らの生活の基盤となっている場所であります。天使たちは彼女らに復活の知らせを聞いた今は、もはや絶望の墓に止まっていないで、生活の場に戻りなさいと言うのであります。そこにイエスがいるのだと言うのであります。
 これは私達の信仰者に多くのモノを示唆するところであります。すなわち、この言葉は私達の信仰者に、それぞれの生活の場に戻って、復活のイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に歩むことを命じます。これはイエス・キリストは墓の中でミイラ化されているのでもなく、人里はなれた山や野原にいるのでもないと言うメッセージでもあります。それより、復活されたイエス・キリストは私達の体の中で、また私達の間で、また、この世の葛藤や緊張の只中でご自分を私達を通して現そうとしているのであります。