2004年4月18日

「信頼を育むみ言葉」

2004年4月18日和白バプテスト教会にて(説教者:ロージー・マンケ)

信頼は、安心感と関係しています。わたしたちは、安心し、助けてもらった人や機 関 に信頼を寄せます。現代社会において安心することができるために、わたしたちは 例 えば、保険に入ることがごく普通の行為です。そのとき、わたしたちはできるだけ 多 くの利益を得ることができるような保険を選んで、契約を結びます。しかし、わた し たちは聖書の神をどう見ているのでしょうか。安心できる保険のようなものとして 見 ているのでしょうか。 安心を得るための人間的努力より、神に信頼を寄せることは、はるかに勝っている の です。

被害を受けたときの莫大な費用を負わされないように、わたしたちは皆、さまざま な 保険に入っていると思います。例えば、健康保健や年金保険、車の保険などが大切 な 保険です。それ以外も特別なケースのため様々な保険があります。ドイツでは一般 の 人は、おおよそ10くらいの重要な保険に入っているそうです。1990年に東ドイツ は 西ドイツと統一されたとき、東の人々の中には、生活のためのお金がほとんど残ら な いほど、数多くの保険に入る人びとがいたと聞きました。彼らは完全な安心の中で 生 活をしたかったのですが、実際の収入の限度を忘れてしまいました。 わたしたちは本当の安心を、どこから得られるのでしょうか。保険は勿論いいこと で す。しかし、保険はすべてのケースをカバーすることはできません。保険は人生の 初 めから終わりまで、悩みのない生活を保証することができません。わたしたちに とっ て、安心と安全を象徴するいくつかの場を想像してみましょう。例えば、それは自 然 災害を乗り越えることができるような、しっかりした家でしょうか。昔の時代に、 お 城は安全を意味しました。岩の上に建てられたお城は厚い壁をもって人に保護を与 え たからです。また、傘(かさ)の下です。傘は雨からも、日差しからもわたしたち を 守ってくれます。それから、子どもにとっては安心する場と言えば、お父さんの腕 の 中です。お父さんに抱かれて、何も悪いことが起こらない。怖いことがあっても、 抱 かれた子どもには届かないのです。自分の生活に安心を与えるものとして、皆さん に はおそらく、それ以上も多くの場を思い出すと思います。 わたしたちは先ほど今日の聖書の個所として、詩篇91編のはじめを聞くことができ ま した。詩篇の中では、安心を象徴するイメージがいくつかありました。1節には、 隠 れ場があります。わたしに悪いことをしようとする者はだれも、わたしを見つける こ とができない、このような隠れ場です。2節には、お城があります。わたしに敵意 し ている周囲からわたしを守ってくれる、あつい壁をもった、このようなお城です。 4 節には、めんどりがあります。自分の羽の下、ひよこを守る、このような雌鳥で す。 11節には、神様はその天使を送ってくださいます。危険な世界の中でわたしたち を 守ってくれる、このような天使です。これらのイメージはわたしたちに、これを教 え ます:神の御許に、あなたは安全ですよ! どうして、わたしは神の御許に安全になることができるのでしょうか? 詩篇91編のことばで祈った人は、神に対する信頼の基本として、2つの確信を挙げ ま す。 1)第1の確信は:神はもっとも高いお方です! まずは、詩篇91編の歌を聴く人は何をすれば良いかということを説明される前に、 ま ずは神の素晴らしさが称えられます。信頼を寄せる前、信頼の幣を投資する前、わ た したちにはまず、何かの理由が必要です。信頼に値する相手が必要です。神は絶対 に、 完全に信頼に値するお方です。天地創造をとおして、またイスラエルの民との歴史 を とおして、神はこれを証明してくださったのです。神は介入し、守り、導き、委託 し、 任命し、召命してくださいます。神は信頼に値することを、神ご自身は最もはっき り と証明してくださったのです。それは、イエス・キリストは人間になり、すべての 人 間の罪のために十字架の上に死んでくださったときです。 このことを教えてくれる、一つの事件をお話ししましょう。 ある農場では大火災が発生しました。穀物の倉庫と収穫はすべてが破壊されまし た。 農場の主人は落ち込んで、被害の確認のため農場を見回ったとき、道端には大きな 黒 い石を発見しました。彼は石を押しのけるために、もう足を上げたところでした。 少 し触れただけで、石に見えたものは崩れて、9羽の黄色いひよこが、ぴよぴよ鳴き な がら、その下から出てきました。ひよこは危険な火事から母親の羽の下に隠れて、 無 事でした。母親の雌鳥は火事の熱で死に、炭になったのです。 まったく同じことを、イエス・キリストは、わたしたちのためにしてくださいまし た。 わたしたちは守られて生きることができるため、イエス・キリストは自分を犠牲に し て、その命を捧げてくださいます。 2)第2の確信は:神はすべての力を持っていらっしゃるお方です。 詩篇91編の中では様々の危険の話が出ます。3節には、仕掛けられた罠の裏切り と、 陥れる言葉の誹謗(ひぼう)です。5節には、恐怖です。夜の危険と昼の襲撃を恐 れ る恐怖です。6節には、疫病と病気がさし迫ります。しかし、神は力あるお方です ! どんな悪よりも、あなたに降りかかるすべての不幸よりも、神の力が強いのです。 こ のためだけでも、わたしたちは自分の人生を神に委ねればいいのではないでしょう か。 詩篇の歌を作った人はしかし、苦しまないで、いつでも、どこでも、簡単に困難を 切 り抜けることができると思い込むほど、盲目ではありません。彼は、神の力は何よ り も大きい、という意見を持っているのです。神が何かを決めてくださったことがあ る と、他の力がわたしたちに何の手出しも出来ないのです。当時、神殿の礼拝に出席 し た人びとは、危険のことを隠したてない詩篇91編の言葉を聞いて、神の力をはっき り と見せてもらいました。 この詩篇によって、神はわたしたちに何をするように呼びかけてくださるのでしょ う か。どのようにして、わたしたちは神に守られた生き方ができるのでしょうか。神 は わたしたちを保護したい、悪より守りたいと思っています。神の御許に住む人、神 の 御許にやどる人になる事を、わたしたちに期待してくださるのです。住むこと、や ど ることは、積極的行動を前提にします。一つの例を挙げます。太陽が強く焼け付く よ うに照っていながら、わたしたちは日焼けの予防がない、とします。すると、大き な 日傘をもった人がやって来て、傘の下に入るように招いてくれます。そのとき、わ た したちはどうするでしょう?わたしたちは積極的に行動します。傘の下に入るので す。 神はわたしたちをこう招いてくださいます。「お出でよ。私のもとに住んでくださ い。 わたし神はあなたを守ってあげよう。」 すなわち、神ご自身はわたしたちにご自分の傘を差し出してくださいます。神の保 護 の共同体に入ることをわたしたちに勧めてくださいます。神ご自身はわたし達を守 り たいと思っています!この保護に入っていき、この保護の下に生活し、またずっと 住 みつづけることは、神はわたしたちに期待しています。それも一生の間ですよ。神 は そうすることをわたしたちに強制しないのです。傘をもって必死にわたしたちを追 い かける訳ではないのです。神との共同体に入るかどうかという話になりますと、問 わ れているのは、わたしたちはどれくらい積極的になるかどうかということです。わ た したちは、自分の意志の無い人たちではありません。神の保護を避けることが出来 ま す。また神の保護を受け入れることもできます。なぜ、わたしたちは神の保護を受 け 入れないのでしょうか。神の御許の安心よりいい事は、どこにも見つからないので す。 人間的保険が必要です。しかし、すべての配慮を含む保護は、ただ神のみがわたし た ちに約束してくださいました。(マタイ6:26〜28)「働きもせず」:これは 怠 けるための手引きではなく、むしろ、神に信頼をよせるように、神からの招きなの で す。なぜなら神は、わたしたちの信頼を得ようと務めるすべてのものより、はるか に 勝る力のあるお方だからです。 わたしは神に信頼すると、わたしはどうなりますか。わたしの信頼はどんな結果を 伴 いますか。 1.一つ目の結果はこれです:神の保護の共同体を体験する人は、神と対話をしま す。 また、周りの人々と神について話します。2節の中でとても印象深い象徴的イメー ジ をつかって、詩篇の祈りをする人は、自分が神とどんな関係をもっているかを、 はっ きりさせます。 「あなたはわたしの逃げ場です。」ここは神との関係はまったく個人的なアクセン ト をもっています。「わたしの」という言い方は3回も繰返されているのです。「わ た しの避けどころ、わたしのお城、わたしの神」。わたしと神との間の関係は、こん な にも個人的な間柄になることができます。これ以下のもので我慢しなくていいので す。 詩篇の祈りをする人は、どなたの御許に逃れて、どこに保護を受けるかを、わかっ て います。動物は本能的に、危険からの保護と救いはどこにあるかを分かっているこ と と同じように、信じる人は神の近くに逃げていきます。自分の罪か、人の罪か、罪 は わたしたちを駄目にしようとしたとき、他に走っていく場がどこにあるのでしょう か。 神はわたしの唯一の逃げ場です。神の御許にいるときのみ、わたしは助けと赦しと 恵 みを受けることができます。 初めにお話しした、子どもを抱いた父親のことを思い出しましょう。同じようなこ と を神はわたしたちにしてくださりたいと思っています。神様を「アバ」と呼んでい い のです。「パパ」という意味です。イエス・キリストはこの日常的な呼び方を神と の 祈りの対話の中で使いました。またパウロもそれが正しいということをローマ人へ の 手紙に書きます。「わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶ」のです。わたしたちは神 の 子どもたちですから。(ローマ8:15〜16) 2.神に信頼を寄せるときの二つ目の結果はこれです。「あなたと共にいると、 わ たしはお城にいるほど、安全です。」その通りです。神とともにいると、わたした ち はどんなに安心できるかを、祈祷者の象徴的イメージは、わたしたちにはっきりと 見 せてくれます。 それでは、自分自身への問いです。わたしは自分の安全を何に・誰に依り頼みます か。 ある人のもとに、仕事の中に、家族で、保険会社をとおして、わたしは安心を求め て いますか。わたしたちは追い詰められているとき、どこに行きますか。 神との保護の共同体の目的は、わたし達がますます親しく、それからいつもまた 新 たに、神に信頼することです。わたしたちの悩みを神にうちあけていいのです。重 荷 をおろしていいのです。神の隠れ場には、わたしは神がご存知でない不幸に遭うこ と がありえないのです。 ここまで来て、わたしたちは疑問をもっていいのですから、おそらくこう思いま す。 「いまのことはあまりにも軽率にぺらぺらにしゃべったものだけじゃないか。もし も、 わたしは想像した通りに神から守られないのなら、どうなるの。もしも、神は黙っ て ばかりで、結局わたしはばかをみるのなら、どうなるの。」ですから、この法則は 正 しいのでしょうか:神に信頼する者は、神に守られるのだ。そうです。この法則は 正 しいのです。しかし、告訴して請求できるような法律ではありません。ユダヤ教の 神 学者マーティン・ブーバーはこう言います。「神は、成功を保証するブランドの銘 柄 ではない。」神は、神の子どもになれば、問題のない人生を約束しません。例えば ダ ビデとパウロを見ましょう。二人とも神の心にかなう人びとでしたが、大変大きな 問 題を抱えました。ダビデは迫害されましたし、子ども達もまたトラブルを起こしま し た。パウロは鞭打ちをされて投獄されました。しかし、このような神のお気に入り た ちを見て、わたしたちはわかります。神の保護領域の中では危険な力を恐れること は ありません。苦しみの中でも、神を愛し、神に依り頼む者は、弱気にならなくてい い のです。神は変わらない誠実なお方ですので、わたしたちは神の御許に庇護を求め ま す。 神は約束を守るお方です。遅くとも、神の国ですべてが癒される日の時に。 これがわかって、わたしたちは安心することができます。神と共にいると、わたし た ちは安心できる自分のうちにたどり着きます。このように神と親しい関係をもつ と、 気持ちいいのです。暑い国で日陰に入ることと同じように、気持ち良いのです。 これはずっと終らない安心なのです。この安心を受けるよう、神はわたし達を招い て くださいます。神はわたしたちを一人ぼっちにさせません。 神は、お互いに信頼することができるような教会を、わたしたちに与えて下るので す。 神の庇護を受けたときの体験を分かち合って、わたしたちはお互いを励まし合うこ と ができます。周りの人々のためにもなります。わたしたちは困難な状況の中にいる と き、祈ってもらうことができます。教会の中は、信頼と庇護の場となっていること は、 神のみ旨です。 自分の人生をしっかりと、主なる神と教会に結び合わせる者は、また心の中の悩み を 信頼深く主の御前に打ち明ける者は、その人自身は、信頼をつくりだす人間になり ま す。