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「行って兄弟たちに」(マタイ28・8〜15)
テーマ:『復活』、行動と共に福音は知らされる。
時:04.4.25. 所:和白教会 説教者:黄仁坤
今日は私達の和白教会と共に歩んでいる内に先に亡くなった先輩や私達と深く関わりをもっていたが、先に亡くなった方々を覚えながらこの礼拝を神様に捧げたいと思います。
先ず、週報に記されている方々を改めて紹介します。拓哉君は短い命でありましたが、私達に命の尊さを教えてくれました。神様の業には全く無駄が無いはずであります。無意味な業をもってただ私達を苦しませるはずがないのであります。菰田夫妻はこの和白教会が立つのに欠かせない働きをしてくださいました。正に神様の御旨を伝える使者として一生を過ごしたのであります。岩崎先生はこの教会の牧師として働いている間、亡くなりましたが、時々私もテープで先生のメッセージを聞いたりしておりますが、とても熱い心でイエス・キリストを語った先生でありました。岩切先生も牧師として働いていましたが、多くの方々に尊敬されていたことを知っています。今は岩切婦人が先生が闘病中に残してくださった多くのメッセージを人々に語っています。今も岩切婦人の口を通して語っていらっしゃるのであります。上田さんはクリスチャンではありませんでしたが、その娘さんと私達との交わりがあって、お母さんの魂はイエス・キリストに委ねたいという願いが起こされて教会で葬儀をすることとなって、今もこのように私達は覚えているわけであります。
その他にも名簿にない方々を紹介しますと、篠崎さんはクリスチャンになったからはご主人の魂もイエス・キリストに委ねる決心をしました。大きな証であると信じます。また神様が篠崎さんの祈りを顧みてくださるように祈ります。また、渡辺晃一君は一年前に若くして突然亡くなりましたが、彼は生前からキリストに従う方でありました。信仰によって永遠の命を知り、また、復活の希望を抱いていたのであります。神様が約束を守ってくださると信じます。讃井さんのお母さんも約一年前に亡くなられましたが、亡くなる直前まで回りの方々を楽しませるような冗談を言ってくださったと聞いております。そのようにこの世において、最後の瞬間まで主が共にしてくださいましたから、今もそうであろうと信じます。最後に脇山さんのお父さんも何ヶ月か前に亡くなりましたが、病に苦しんでいる時から、脇山婦人が常に祈っておりました。感謝です。
この間の11日がイエス・キリストの復活を祝う日でありましたが、キリスト教の信仰を一言で言えば、「復活信仰」であります。イエスが死という絶望に打勝って復活をし、弟子達はこの知らせを聞いて再び集まり、教会を形成されました。私達も復活の希望と喜びを聞いて集まっている群れであります。それで、私達もこのように2000年前と同じくこの復活を語り、復活を伝えているのであります。復活は理念や観念でなく現実であります。また、この復活は私たちが作りあげたモノでなく、神様によって起こされた事件であり、それが私達に伝えられたものであります。
人間による歴史には復活はありません。つまり、人間には手による業においても、頭脳による理解においても復活はありえません。私達はこの事はよく知っていながらも復活を信じ、語り、その信仰の只中で生きているのであります。このことを言い換えれば、私達の理解や業を超えて復活を信じるようになったのは神様の導きによるものであるということになります。これは、また、信仰よって復活を信じて生きる者は幸いであると言う所以
であります。
今月は「復活」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、この復活を語るための糸口となる言葉はやはり「墓場」、ないし、「死」ではないかと思います。一昨日の朝日新聞の広告欄に養老猛司さんの「死の壁」という本が紹介されていました。彼の「馬鹿の壁」という本は330万部売れたそうですが、そこで使われた「壁」という一文字を取ってきて新しく出版する本もそのように名づけたようであります。多くの本を売るための巧みな業であると思います。私も近いうちに買って読んでみたいと思いますが、その宣伝文句だけを見れば、どうやら、「死は恐れる必要はない」という内容のようであります。 死は確かに無闇に恐れる必要はないと思いますが、それより、肉の滅びである死の現象は今の私に何を意味するのかを問うのが本当の死への問い、すなわち、死生観であろうと思います。言い換えれば、単純に恐れるか恐れないかという感情の問題でなく、死の意味を問うのは生きる意味を問うことと同じ底辺をもっているのであります。生まれる事と死ぬことが全く別々のことであったり、また、死という現象はただ今の有意味が未来の無意味に飲み込まれる事であるとすれば、私たちは全くわざわざ「死」を問わなくとも良い問題であります。また、「生きる事は死ぬことである」という絶望的な命題は以上は出てこないはずであります。しかし、私達の現実は同でしょうか。死から自由な人がいるでしょうか。一人もいません。私本人の問題として、また、隣人の問題として、家族の問題として常に付きまとう問題であります。
ところが、私達はイエス・キリストの復活によって「神と共に歩みつつ死ぬことは生きることである」という信仰に導かれています。ですから、私達は信仰のない人のように「生きることは死ぬことである」という結論に止まることなく、「死ぬこともまた生きることである」と語る事が許されているのであります。
少し堅い言葉が続きましたが、「揺りかごから墓場まで」という言葉がありますが、これは第二世界戦争後、イギリスの労働党が掲げたスローガンでありますが、国が社会保障制度の忠実を約束するという意味が込められていますが、人間による約束は墓場までであります。それ以上はイエス・キリスト以外に誰も約束できません。すなわち、イエス・キリストは「揺りかごから復活まで」を約束してくださるのであります。
復活の信仰もないながら「死を恐れる必要はない」という言うのは蛮勇であると思います。この蛮勇を思わせるような寓話を申します。母親から子供の時、聞いたいわゆる「昔話」でありますが、ある若い男が自分の胆の太さを人々に自慢していました。それを聞いていた人々は、へそを曲げて、そのように法螺を吹いている人に言いました。何月何日の真夜中に、村の裏山にある誰々の墓に行ってその前に杭を打ってくる事が出来るか、もしそうすればあなたの胆の太さを認めようと言う話になったわけであります。すると彼は今までの自慢話をして来たので、勇み足で「勿論だ」と答えました。そのような約束を交わして、回りで聞いていた人々は約束の日に先にその墓の近くに来ては、身を隠して彼が現われるのを待っていました。すると例の法螺を吹いていた人が恐る恐る現われては約束を果たしたという証拠を残すために杭を打ち始めました。ところが、彼は恐ろしさのあまりに、自分の着物の裾と共に地面に杭を打ってしまったのでありました。しかし、彼はそれに気づかずに、慌ててそのまま帰ろうとすると裾が引っ掛って前に進むことが出来なくなったのであります。それで誰かが後ろから自分の裾を引っ張っていると思ったらしく、「離してくれ、離してくれ」と泣き叫びながら一晩を過ごしたという笑い話であります。「死を恐れる必要はない」、「死とは私達にとって何でもない」というような話はこの笑い話とも良く似ているのではないかと思います。
さて、今日の聖書の個所は先々週の個所の続きであります。覚えていらっしゃると思いますが、今日の話と繋げるためにあらすじだけを改めて申しますと、二人のマリアという女性が日が明けるのを待ちきれずに暗い内に家からイエスの墓に向かいました。日が昇る頃にイエスの墓について見るとイエスは復活をして墓は空っぽでありました。そして、墓の中から天使が彼女らにイエスの復活を告げ、また、ガリラヤに行くように命じたところでまででありました。
今日の個所はこの神様の告げを聞いて二人は喜びのあまりに恐れながらガリラヤに走る所からであります。この事はこの間のメッセージの時も私達は確認をしたところであります。また、神様は時々まわりくどい方法をもって人々に自分の御旨を知らせたりします。二人の女性を家にいらせておきながら、復活を知らせることも出来たはずなのに、神様は二人の女性が墓まで来るのを待って、そこで彼女らに復活を知らせたのであります。この話もこの間、申しましたが、このようなもどかしさは今日のところでもまた見る事ができます。始めに彼女らに復活を告げたの天使であって、そしてガリラヤに行くように命じました。つまり、彼女らの生活の場であるガリラヤで復活の主にお会いできるだろうと言いました。しかし、彼女らがガリラヤに走り出すとその途中でイエスが現われるのであります。ここでも神様は彼女らの行動を一旦待って、つまり、一テンポずらしてからご自分を現したのであります。
これらのことからのやや飛躍になりますが、キリスト教はイエスの教えを理念として掲げているだけの信仰ではありません。すなわち、行動する信仰、十字架の下から生活の場へと押し出されて行く信仰であります。言い換えれば、神の言葉を聞き従う時、その奥義が知らされるのであります。これに似ている例をもう一つ挙げますと、ヨハネによる福音書の2章にあるイエスによる奇跡の物語でありますが、婚礼の場でぶどう酒が無くなるとイエスは働き人に命じて、水かめに水を満たすように命じます。するとそれがぶどう酒に変わったと記されています。ところが、誰もそのぶどう酒が何処から来たか分からないでいました。しかし、水を汲んで満たした人だけがそのぶどう酒がどのようにして出来たか、婚礼の場がどのようにして喜びを取り戻す事が出来たかを知っているのであります。
話を戻しますが、二人のマリアに復活のイエスが現われて掛ける初めての言葉は「平安あれ」であります。これは大事なメッセージであります。神様からのこの言葉を聞くことが許されている者は幸いであります。考えてみれば、自分が自分の心に「平安あれ」と言っても仕方の無い話であります。その平安には根拠が無いからであります。勿論、細々とした事で自分に自ら言葉を掛けて落ち着かせることも出来ますが、これは極めて限られた場面だけであります。例え、肉親や愛する人と死に別れた場合、「人生とはそんなものである」と自分に言い聞かせても、慰められることは出来ないのであります。また、人によって「平安あれ」と言われても全く慰めにならない事が殆どである事は私達は知っています。
私達が生きる上で決定的な絶望や悲しみに落ちいた時、すなわち、人間の業や言葉では如何しようもない時、神様の言葉や約束を聞く者は幸いであります。二人の女性は悲しみの中でも、復活の知らせを聞いて走っているうちに、イエスからこの言葉を聞かされたのであります。
この言葉を聞いてどれ程の慰めになったか、また、どれ程喜んでいたかを現す言葉がその後続きます。つまり、彼女らはこの言葉を聞いてはすぐにイエスの足をいだいて拝したと記されています。地面に跪き、イエスに感謝しているのであります。復活が知らされての初めての礼拝であります。その感謝と喜びが二人に許されたのであります。
もう一つ私達を慰めてくださるイエス・キリストの言葉があります。私はこの言葉が今日の個所で最も印象深い言葉でありましたのでタイトルにもしたわけでありますが、イエスは十字架に掛けられた後、みな逃げてしまった弟子達を「兄弟たち」と呼んでいます。勿論、ここはイエスにとって「兄弟たち」でなく、彼女らにとって「兄弟たち」という読み方も出来るとは思いますが、何れにしても裏切って逃げてしまった彼らに対してイエスは一言も悪く言わないのであります。私達は本当に小さいことであっても何かあれば、すぐ不平を言ってしまいます。しかし、イエスはそのような私達を兄弟と呼んでいるのであります。
もう一点だけを申し上げて話を終わらせたいと思います。神様は始めは天使たちを通して彼女らにご自分のメッセージを告げておりましたが、今や彼女らを通してご自分の兄弟たちにメッセージを告げるのであります。すなわち、天使に取って代わって彼女らを用いていたのであります。この奥義は大きいと思います。み言葉に聞き従う者が天使であり、神から使わされた者であるという意味であります。
私達クリスチャンは神の御旨をこの地に伝えるために用いられている者であります。天と地を繋ぐ者であります。あの世とこの世が私達によって繋がれているのであります。この世の多くの人々は復活はないと呟いています。未だにイエスは復活されたのでなく遺体が盗まれ、行方不明になっただけであると言っています。私達は恵みよって復活をこのようなこの世の人々に語るべき主の兄弟として立てられているのであります。
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