2004年5月2日

「教会とは」(エペソ5・31〜33)
テーマ:『教会』:教会とは血縁を一旦切り離し、主によって新たに結ばれた群。
時:04.5.2. 所:和白教会 説教者:黄仁坤

 昨日、ミヒャエラが近くのスーパーから帰ってきて、スーパーの冷蔵庫に肉類が山のように積んであったと言っておりました。スーパーは恐らくこの連休の間、バーベキューに行く人々を見込んで、沢山仕入れただろうと思います。
 このように素晴らしい天気に、先ず何処かに出かけたくなるのが人の常であります。しかし、私達はまずキリストの体なる教会に集う事を良しとしてこのように集っています。つまり、このような良い天気には先ず川や山に出かけたくなるのが自然な心であり、これがまたこの世の心でもありますが、私達はこれらに逆らって敢て教会に集っているのであります。このような事を考えても私達の教会はこの世から分かたれたところに立っている事を知ることが出来るのであります。
 なぜ、私達はこのように教会に集うのを良しとしているのでしょうか。ただクリスチャンとしての習慣や文化としてでありましょうか。それとも教会に来ないと何か罰でもあたりそうであるからでしょうか。決してそうではありません。私達は神様に礼拝を捧げ、また、主の名の下での兄弟姉妹との交わりを求めてここに集っているのであります。私達はこのような明確な目的や意義をもってここに集っているのであります。これはこの世にはない喜びであり、この世にはない安らぎであります。キリストの体なる教会に連なっている事を喜ぶ者は幸いであります。
 今月は「教会」をキーワードにして共に聖書から聞こうと思いますが、「教会」をキーワードにしてメッセージをしたのは去年の6月でありました。去年5月は「礼拝」をキーワードにしてメッセージを致しましたが、今年は5月と6月との順番を入れ替えました。兎に角、今年度も去年と同じキーワードをもってもう一回、共に聖書から聞こうと思います。このように去年から聖書が言う大事な事柄を12のキーワードに絞って共に学んできたわけですが、「愛」とか「恵み」などは敢て選びませんでした。なぜなら、「愛」や「恵み」などはみ言葉自体であるから、改めで選ばなくとも良いかなと思われたからであります。
 やや事務的な事をも申しましたが、信仰をもっている人に対して信仰をもっていない人を「自然人」と呼ぶ事があります。これは恐らくパウロの言葉に倣ってこのような呼び方が出来たと思います。すなわち、パウロはローマ書2章14節などで信仰をもっていない状態を「自然のまま」と言う言い方をしています。
 ところが、この「自然」と言うギリシャ語は「生まれたまま」と言うニュアンスの言葉であります。また、英語でも「自然」を「nature」と言いますが、これにも「生まれたまま」と言う意味が込められています。また、何時も私たちが何気なく使っている日本語の「自然」と言う言葉を見れば「自らあるがまま」という字の組み合わせでありますが、私達も殆ど字面通りの意味で「自然」と言う言葉を使っているのではないかと思います。
 このように「自然人」という言葉と対比させながら、「信仰者」とは何かを考えますと、「信仰者」とは「生まれたまま」ないし「自らあるがまま」と言う状態から切り離されて、新たなる命や新たなる秩序、関係から生きる者であるという事が言えるのではないかと思います。また、この定義は聖書全体から見ても大きくその意味が外れていないのであります。
 さて、今日の聖書の個所は生まれたままの人間関係とも言える親子関係から離れて男女が出会い結婚する事と、信仰者による群である教会と同じ原理であると語っています。今日の個所を31節から33節としましたが、内容から言えば、今日の個所は22節から始まっております。22、23節だけを先ず読みますと「妻たるものよ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らはからだなる教会の救い主であられるように、夫は妻のかしらである」と記されています。今、読めば、家での男女の役割については古い内容となっていますが、それより、家と教会とを一つとして語っている事に注目したいのであります。これは、当時の教会が「家」を中心とした共同体であったことを示している証拠でもありますが、今の時代には教会と家とは別々のものとして組織されています。しかし、今も教会の本質においては昔と変わらないものであります。すなわち、教会とはイエス・キリストをかしらとする一つの家族であります。言い換えれば、この教会は血縁などのような自然の関係から一旦切り離されて主によって新たに繋がれた関係としての家族であります。
 生まれたままの状態から、自然のままの状態から一旦切り離す事は大事であります。私達は生まれながら男性であり、女性であり、誰々の子供であり、日本人であり、韓国人であり、ドイツ人であります。また、多くの場合、これによって社会的な、文化的な地位や役割、考え方などが定まります。すなわち、私達は一歩間違うとこれらを運命だの宿命だと言いながら、社会や歴史ないし血縁が与えるままのモノを受け入れ、これによって自分を固定してしまい勝ちであります。しかし、一旦それらから切り離され、神様の前でみな同じであり、神の前では私たちがもっているすべては全く相対的なモノに過ぎないと言う事を知ることが大事であります。これによってそのようなものはある意味で二次的なものであること知ることが出来るのであります。特に信仰者にとってはこれを確認することは欠かせない作業であろうと思います。言い換えれば、私達は先ず神様の前に一人で立つ事が求められています。漫然とした「私達」でなく、先ず、わたし独りを神様の前で確立し、後に「私達」を作っていく必要があるのであります。正に、教会とはこのような過程を通ってきた共同体であります。また、私たちが実の親子であろうとも、主によって兄弟姉妹である言う所以であります。
 誤解がないように申しますが、色々社会問題を起こすカルトなどはこのような信仰において求められる事を真似て、親や兄弟などから信者を切り離して集団生活させながら、集団の利益を図りますが、これらは全くナンセンスであります。なぜなら、彼らは切り離しっぱなしであるからであります。切り離すのは新たに繋ぐためであるのに、この繋ぐ行為が彼らには欠けているいるのであります。
 話を戻しますが、血縁関係を一旦切り離す事は新たに繋ぐための前提条件となります。すなわち、そもそも繋がっているっぱなしであれば、新たに繋ぐ事も出来ないのであります。例えば、子供は親の所有物でもなく、独立して独りの人格でありますが、親子は何れか親離れ、子離れを互いがしなければならないことであります。これによって子供も独りの人格として一人前となり、親も子離れによって、一人前の親となるのではないかと思います。そして、一人前となった親と、子供とが新たに繋がれなければならないのでありま
す。
 創世記の22章以下に出てくるアブラハムとイサクと言う親子関係から少し考えてみた
いと思います。有名な話でもあり、信仰のない方は読みきれない話でもあろうと思いますが、私は信仰においての親子関係について多くのモノを示唆する個所だと思っています。 話を要約しますと、神様はアブラハムを呼んで年老いて得た息子をご自分の為に燔祭として捧げるように命じます。するとアブラハムは神様の言葉に従って目に入れても痛くないはずのイサクをつれて神様が指示する山に登って黙々と祭壇を作り、イサクを縛って捧げモノとして捧げようとします。すると神様は決定的な瞬間にアブラハムの手を止めるのであります。もうそれで良いと言うのであります。刃物を握った手を振り下ろそうとした
その瞬間は、肉によって繋がれていた関係は切り離される時であり、同時に、神様を介在しての新たなる関係として繋がれる時でもあります。すなわち、親子の血縁は一旦切られ、その間に神様の言葉が置かれるのであります。つまり、神様の言葉によって新たに繋がれるのであります。
 私の話をして恐縮でありますが、少し私とミヒャエラが結婚する時のエピソードを申します。私達は遅れて結婚をしましたが、それでミヒャエラの母は、内心、もしかしたらミヒャエラは結婚をしないかも知らないと言う期待をもっていたようであります。ミヒャエラが結婚すると母に告げると母は「子供を四人も育てたから、その内、独りぐらいは結婚をしないでも良いと思ったのに」とミヒャエラに言ったそうです。勿論、同時に結婚を喜んでくれましたが、親は子供が結婚をして新たなら家庭を持つことはこのように、一方、寂しいことであり、一方、嬉しいことでもあろうと思います。子供が結婚するという事は親もとを離れ、新たなる独立した家を作り、その家の一人となる事であります。子供の結婚は前にしてこのように複雑な気持ちになるのは東西古今を問わず同じではないかと思います。
 確かに考えてみれば、ミヒャエラと母は新しい親子関係であります。つまり、もはや結婚前の娘ではなく、独りの男の妻としての娘であり、二人の子供の母親として娘であります。このような新たな関係として親子でありながら、また愛する娘の為にはるばるドイツから来て暫く共に暮らしているのであります。 
 結婚に交わる話をもう一つ紹介します。この間、韓国の新聞から見ましたが、ある女性が結婚して一ヶ月後に夫と別居状態になって、結局、離婚と共に慰謝料を求める裁判を起こしましたが、裁判所はこの女性を勝たせたというニュースでありました。良かったと思いましたが、記事を読みながら苦笑いをせざる得ませんでした。男性は大学校を卒業したばかりの医者のようでありますが、見合い結婚であったそうですが、ところが、姑は女性に結婚する際に多くの貢物を求めたそうです。彼女も教師をしていたのである程度余裕があったんでしょうか。求めるとおりもって行ったつもりであったようですが、実際生活を始めると姑が貢物が足りなかったとか、彼女に借金があるとかなどと言い、これがエスカレートして、最後には「詐欺結婚だ」とまで言いながら自分の息子に彼女と別居するように唆したようであります。
 他人ことでありながら、腹が立つ話でありますが、姑の事もさりながら、私はその男性は何を考えていたのか腹が立ちました。自分が結婚することであり、また自分が結婚したことでありながら、未だに母親の言いなりになっているのであります。一体、如何言う心境で結婚をし、如何いう心構えで結婚生活をしようとしたのかなど、色々疑問が湧いてきました。彼はただ漫然とした親子として繋がれっているだけであったとしか言い様がないと思われました。すなわち、自立した一人前の人ではなかったのであります。
 もう一つ申しますが、笑い話として私たちが時々耳にする事でありますが、親が結婚する娘に「嫌になったらいつでも帰って来い」と言ったとか、また、それが親の寛大さを言い表すような言葉として受け止めることもあろうと思いますが、そうでないと思います。すなわち、結婚とは親から切り離され、独りで立つことであろうと思います。そのように立たせるのが親の役目でもあろうと思います。しかし、「何時でも帰って来い」と言う言葉にはそのような覚悟などが見当たらないのであります。
 今日の聖書に倣って色々結婚の話をも交えながら話を進めていますが、考えてみたら結婚とは不思議なものある。今まで全く他人同士であった者が愛し合い、今までの親や兄弟より緊密になっていくものであります。一体になっていくものであります。また、結婚とは全く違うもの同士が愛によって一体になっていく何時までも進行形であろうと思います。すなわち、一体になってしまって、それ以上何もする事がないというのでなく、互いが愛し合って、互いが自分のからだの様に愛しあい、相手の痛みが自分の痛みとなり、喜びが自分の喜びになるまで、全く一体となっていくモノであろうと思います。
 また、その過程の中でもそもそもそれぞれが違うものであるが故に尊敬しあい、刺激しあい、互いが互いに対して好奇心を失わずに歩むべきであろうと思います。このような奥義は教会においても全く同じであります。
 私達は教会はイエス・キリストによって結ばれ、一体となりつつあるモノであります。互いが自分の妻を愛するように、夫を愛するように、また、子供が親を敬うように、親が子供を育てるように互いが励ましあいながら歩むことが出来ればと願っています。
 しかし、そのなるためには先ず生まれたままの状態から切り離される必要があります。つまり、イエス・キリストによって結ばれる教会となるためには、先ず、私達のあるがままの人間関係、自然のままの人間関係を一旦切り離し、主によって改めて繋がなければならないのであります。