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「穂をひろわせなさい」(ルツ記2章14〜16)
テーマ:『教会』:互いが支えあいながら歩もう!
時:04.5.9. 所:和白教会 説教者:黄仁坤
今日は「母の日」であります。去年の母の日にも申しましたが、この「母の日」の由来はアメリカのある教会からであります。すなわち、アンナ、ジャーヴィス(Anna
M Jarvis)という女性が、母親の命日に追悼の意を表し、カーネーションで教会を飾ったことから始まったそうです。この事を考えれば、母である立場から祝いや感謝の言葉を受け取るより、子供として母への感謝の気持ちを伝える日であろうと思います。お母さんである方々にお礼の言葉を申し上げます。
また、この「母の日」はとても意義深い祝日だと思いますが、この日だけのイベントとしてでなく、何時も母への感謝を忘れないでいたいものであります。韓国の場合、曜日とは関係なく5月8日を「両親の日」として祝っています。それで毎年のように政府も親孝行を奨励するために、模範となりそうな方に表彰状を贈りますが、今年、国民勲章が贈られた人を紹介しますと、寝たっきりになってもう長いそうですが、105歳の姑と共に暮らしている75歳の方に贈られました。彼女の主人は40年ほど前に三人の子供と姑を残して亡くなったそうですが、それ以来、独りで三人の子供を育て、姑の世話をしてきたそうです。今は子供達はそれぞれの独立し、姑と二人で暮らしているそうです。
この事を彼女の主人の親戚達は感謝して既にその旨を書き記した碑を村に立てたそうですが、今度は国がそれを褒め称えたわけであります。章が贈られた感想を聞く記者に「嫁としてのやるべきことをやっただけだ」と答え、願っている事があるかと聞かれては「一日でも長く姑と暮らす事である」と答えたそうです。これを聞きながら人の「幸せ」とは客観的な基準をもって計る事は出来ないモノだなと思いました。外から見れば、彼女の人生は不幸であるかのように見えるかも知れません。それで勝手に同情をもしたりするものであります。しかし、これはとんでもない話であります。章が贈られたから彼女は幸せになったと言うことでは決してありませんが、彼女は自分に満足しながら豊かに暮らしてきた事を彼女の言葉から窺い知ることが出来るのであります。
さて、今日の聖書の個所はルツ記でありますが、これも今紹介した話の背景と少し似ていて、姑と嫁との間にあった美しい話しであります。ルツは国によって章が贈られた訳ではありませんが、この美談は人々によって語り継がれて結局、聖書にまでその名を残したのであります。すなわち、マタイによる福音書の1章5節にルツとその夫であるボアスの名が記されています。
今日の個所を見る前にルツ記の全体を先ず少し見たいと思いますが、ルツ記の初めを見ますと「さばきつかさが世を治めている頃」となっています。すなわち、イスラエルにまだダビデ王が出現していない時代の話であります。そのような時代の話であることが反映されてルツ記は士師記とサムエル記の間に挟まれているわけでありますが、兎に角、中央政権が出来ていないで、まだ政治的に混沌としていた時代に、イスラエルにひどい飢饉がありました。それで、ベツレヘムに住んでいたナオミ一家はモアブと言う地方に移り住むようになりました。
因みに申しますが、この「ベツレヘム」とはエルサレムの近くでありますが、その名はヘブライ語で「パンの家」と言う意味であります。ですから、この個所を語呂合わせで読み直しますと「ナオミの一家は飢饉があって食べ物を求めてパンの家を去り」となります。何かの困難を予期させるような言葉となっています。このように、食べ物の豊かさを求めて故郷を離れたこの一家に不幸が続きまして、ナオミの夫は異邦の地で亡くなり、その後二人の息子が結婚しましたが、その二人の息子も間もなく亡くなってしまいます。結局、残ったのはナオミと言う姑と二人の若い嫁、合せて三人となりました。それでナオミは自分の故郷であるベツレヘムに戻る決心をしますが、二人の嫁にはそれぞれ自分の家に帰るように勧めます。しかし、ルツと言う嫁だけは姑であるナオミと苦労も生死も共にしたいと言いながらナオミついてベツレヘムまで来るのであります。ですから、今日の個所はルツとナオミとがベツレヘムで生活している内に起こった事であります。
もう一つ確認したい事でありますが、今月は「教会」をキーワードにして共に聖書から聞いていますが、ルツ記はまだ教会のない旧約の時代の話であります。それなのに、「教会」をキーワードとしながら、この個所を選んだ理由はルツ記はユダヤ人共同体の中での話であるからであります。すなわち、教会の原型とも言える信仰共同体としてのユダヤ人達の間での出来事であるが故にこの個所を選んだわけであります。
昔からユダヤ人共同体の結束や助け合いについては改めて言うまでもないと思いますが、彼らは世界の至るところに散らばって住んでいます。ところが、何処に行っても決して自分達のアイデンティティを失うことなく、共同体として互いに支えあいながら共に生きて来たのであります。時にはそのような結束が回りの人々に反感をも買ってしまいましたが、それでも彼らはそれを良しとして来たのであります。ルツ記はこのように共に生きる共同体の営みの一断面を語っているのであります。
ところが、ルツ記は絶望から始まって希望が起こされる話であります。すなわち、この話は飢饉から始まって豊かな食事の場面が語られ、夫や子供達がなくなったと言う悲しみから始まって新しい子供が与えられたと言う喜びで物語りが終わります。更には、この子供はイエス・キリストの家計図にまで受け継がれるのであります。すなわち、信仰による共同体の豊かさと永遠の希望が語られているのであります。信仰を共にし、生活の面においても支えあっている共同体は幸いであります。そこに神様は祝福を注ぎ、また、それは主が望んでいることでもあるからであります。
初期教会の歴史を見ますと教会は所有をも共にしていました。すなわち、使徒行伝4章32節を見ますと「信じた者の群は、心を一つにし、思いを一つにして、だれ一人その持ち物を自分のものだと主張する者がなく、一切のものを共有にしていた」と記されています。今の時代において私たちがこの個所が語る通りの共同体を作るのは不可能に近いことであり、また、そのようにまでしなくとも善いとは思いますが、でもその精神だけは受け継いでいくべきではないかと思います。具体的な話として私達の共同体の中で誰かが例え、最小限の生活も出来ないほどであれば、私達は出来る限りのモノを出し合って支えあうべきであろうと思うのであります。
前置きが長くなりましたが、今日の個所は畑での昼食の場面から話が始まっています。年老いて貧しき姑について来た異国の人、ルツは姑を家に残して朝早くから人の畑に落穂拾いに出かけますが、この日は昼食の時になっても食べ物がなくて、働き続けるルツをボアスと言う親切な人が呼んで共に食事をしようと誘うのであります。
この場面はやや私達の常識では分かり難い話ではないかと思います。すなわち、私達の常識としては幾ら落穂を拾うとしても刈り入れの作業が一段落しないところでは落穂を拾うのは出来ないはずであります。しかし、今日の場面では刈り入れの作業中にそのような事が許されています。これはユダヤ人の共同体ではそのような寛大さがあったようであります。例え、人の畑のモノであろうともそれをその場で取って食べる限り、律法によって許されていました。これを見て分かりますように、ユダヤ人の共同体の中では、最小限度生活の手段は共有しようとしていたのであります。
今の時代の感覚とはかけ離れている人々の余裕でもあろうと思います。例え、レミゼラブルの小説の主人公ジャンバルジャンはお腹が空いてパンを一つ盗みますが、それで19年の間、牢屋に入れられるのであります。そのような時代の精神的な貧困を訴えるためにユーゴはそのような作品を書いたのでもあろうと思いますが、何一つ損することなく、自分の物は自分の物として守りきろうとする所では「共生」と言う精神は生まれてこないだろうと思います。少し損しても良いだろうと言う豊かさから共生の精神は生まれるのはないかと思います。
私の子供の時の話をしますと、悪戯をして人の畑で芋やキュウリを取って食べたりしていたものであります。勿論、見つけられれば怒られたり、また、親に知らせたりしていました。しかし、昔はそれまででありました。今はこのような事は全く出来なくなったようであります。例え、そのようなことで見つけられると取った分の何十倍をも払わせたり、もし、そのような要求に応じないと警察に窃盗罪として告発されてしまうようになったと聞いております。
先ほどのレミゼラブルの話をもう少し続けますと、19年の刑をお終えてジャンバルジャンは出獄しますが、その日泊めてもらった教会の主教館で銀のお盆を盗みますが、その主教はそれに対して寛大に目をつぶるのであります。そこで彼は悔い改め、自分の名前を変え、愛と献身の生活を始めるようになるのであります。
話が逸れましたが、ボアスの親切でルツは飽きるほど麦のパンを食べる事が出来ましたが、食事の後、ボアスはさらに働き人に彼女が出来るだけ多くの落穂を拾うことができるように配慮をします。すなわち、わざわざ麦の穂を落としておくように言うのであります。そしてこのような事で彼女を叱ってはならないと二回も繰り返して働き人に言っておくのであります。この「叱ってはならない」と言うボアスの言葉から考えますと、幾ら律法によって落穂を拾うことが許されていても、落穂を拾う人を苛めたりしていた人もいたわけであります。それをボアスは警戒してこのように言うのであります。
さらに、ボアスはルツの落穂ひろいが行き過ぎをしても、言い換えれば、過ちをして拾っては行けないものを拾ったとしてもそれを咎めてはならないと言うのであります。つまり、わざわざでも束から穂を抜いておくように言うのであります。
私達は時々人の間違いを見てはすぐに律法主義的に考えてしまい勝ちであります。すぐに正義だと、常識だの、モラルだのと言う基準を持ち出して間違いとして定め、咎めようとするのであります。
教会という共同体はこの世の物差しが支配する所ではありません。ただ、イエス・キリストの愛と赦しが支配するところであります。モノだけでなく自分の命までをも差し出して私達に受け取ることを望んでいるイエス・キリストの愛がこの共同体の理念であります。
自分のモノを守りきろうとする時、人は他人と一つになって行くことは出来ないモノであります。先ず、人の過ちを見つけて咎めてしまう時、そこではイエス・キリストの愛を語り合う事は出来ないのであります。
最後にもう一つ確認したい事でありますが、ボアスの親切を呼び込んのはルツの親切であります。すなわち、貧しき姑を見捨てる事が出来ずに共に異国の地まで来たルツの親切をボアスはもう既に聞いていましたが、それを無視する事が出来なかったのであります。このように親切は親切を呼びます。これとは逆に悪は悪を呼ぶのであります。
損してはならないと言う経済的原理によって、モノは豊かになって来たものの、この世はますます殺伐なり、心の豊かさを失いつつあります。これは悪循環であります。しかしながら、この世の中をさらに人間的な智恵をもって何とか法律や規則をもって互いを制限しあい、叱りあいつつ、立て直そうとしています。しかし、これはただ人々の心の壁を高くするだけであって、規則は複雑になるばかりではないかと思われて仕方ありません。
例え、最近、政治家達の国民年金の未納で多くの話題をよんでいますが、この間のニュースを聞きますと、国民が互いに助け合いながら生きようとする精神から出発したはずであります。しかし、これがうまく行かなくなって、これを立て直そうとして新たなら法律を作ろうとしていますが、その法案が何百ページにも至るようであります。すなわち、ますます複雑なって行くばかりでありますが、簡単な話で、皆だ払えば済む事であります。 私達はこのような悪循環を断ち切らなければなりませんが、政治家は国民年金を未納しても私達は率先して払い続けて行くべきだと思います。
私達はこのような世を生きていますが、例え、人が私達に悪をもって接してきても、このような連鎖が断ち切られたところにたち続けたいものであります。ところが、これはイエス・キリストが語るに聴き従おうとする初めて可能であり、そこに道が、希望が開かれると信じています。私達はイエス・キリストの言葉が語られる教会という共同体の只中に立っているのであります。
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