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「主を誇れ」(第一コリント1・26〜31)
テーマ:『教会』、一人一人がキリストを通して自分を顧みる時、調和は自ずと図られる。
時:04.5.16. 所:和白教会 説教者:黄仁坤
来週は幾野さんのバプテスマ式がありますが、その準備のために先週まで、教会学校の時間を利用して三回に分けて共に学びの時を持ちました。三回目の時、彼に「これから教会生活をしていく内に必ず何かで人とぶつかる事がありますので、そのような時のために心の準備をもしておく必要がある」と申しました。また、この事は彼だけに言ったのでなく、バプテスマを受けようとする方には必ず申し上げている事でもあります。
人と親しくなると言うのは互いが精神的に空間的に近くなるという事でもありますが、そうなりますと今まで知らなかった互いの欠点も見えて来ますし、時間が経つにつれて始めにもっていた緊張感は解けて、互いが言葉などによる失敗もするものであります。
これに似たような話でありますが、結婚を前にしている人と話をする機会が牧師になってから何回もありましが、その時も色々自分の経験などを踏まえながら、「夫婦とは親しくなっていくものでありますが、そうなりますと必ず喧嘩をもしますので、上手に喧嘩ができるように工夫してみるように」と勧めました。
聞く方によっては「何時も喧嘩をしないように工夫し、もし喧嘩になりそうであれば、ひたすら忍耐してください」とか「教会とはキリストの体であり、聖なる群であるから、その中で決して争いがあってはならない」などと言った方がもっと牧師に相応しい言葉ではないか言いたくなるかも知れません。
しかし、私はそこまで楽観的ではありません。人ごみの中で暮らしながら、全く他人との関係で葛藤を覚えることなく、争いもなく、生きる事が出来ると思うのは現実からかけ離れた話でもあろうと思います。人間に対してやや悲観的であるとも思われるような話をしましたが、これがまた聖書的な人間観でもあろうと思います。すなわち、私達は罪人であります。罪人でありながら赦され、罪人でありながら罪の対価である死からイエスによって贖われている者であります。私達は完全な者でなく、不完全なものであり。また強いものでもありません。様々な意味で弱いものであります。ですから、家庭の中でも、教会の中でもこのような弱さや罪によって争いが起こり得るものであります。しかし、喧嘩とは人との関係に決定的なダメージを与えるモノでもないと思います。
考えてみれば、争いとは様々な形や局面があります。例えば、命を奪い合ってしまう戦争もあります。友達同士の口喧嘩もあります。先ほど言いましたように夫婦喧嘩もあります。親子の間にも様々な葛藤があります。商売なども競争であり、一種の争いであります。また、このような様々な局面において、争いの中でも必ず守るべきルールがあるはずであります。幾ら、殺しあう戦争であろうとも基本的な人権を侵害してはならないと言うルールがあります。互いが知り尽くした友達で、何でも言い合える関係においての争いであろうとも言ってはならない言葉があります。夫婦喧嘩の場合でも「家の中で」すなわち、「家庭を守りつつ」と言うルールを諦めてしまうとその家庭はたちまち崩壊するのであります。このように様々な局面に従っての争いにおいてのルールないしモラルがあろうと思います。ところが、教会の中での争いの場合、また教会の中での固有ルールやまた解決の方法があろうと思います。今日の個所はこれに対して答えを言っているようなところでもあります。
誤解がないように申しますが、ルールさえ守れば、幾ら戦っても良いと言う話ではありません。例え、戦争はどのような場合でも正当化できないモノであろうと思います。あらゆる争いはできるれば、避けるべきであります。しかし、現実におていはそうならない時が多いのであります。
先、結婚を前にしている人に夫婦の間で「上手に喧嘩ができるように」と工夫してみるように勧めたと言いましたが、夫婦関係でない場合においても同じであります。他人に上手に自分の意見や不満を伝える事は大事であろうと思います。
私は日本に来て全く理解できないニュースを聞いたりしました。例えば、「眼つけられた」と言う理由だけで人を刺しってしまったり、狭い道路で、車に追い越されたと言う理由で追っかけて猟銃で撃ってしまったりしたと言うニュースを時々聞いて驚き、これはもしかしたら、日本的なものかなと思った訳であります。韓国の人は気性が激しいと言われていますが、そのせいか、人と良く喧嘩をもします。すぐ何か人に不満があれば面と向かって話をしてしまうのであります。それでそれが激しくなることも時々あります。しかし、韓国では喧嘩は人の関係の終わりを意味しません。韓国人は「雨降って地固まる」と言う諺をよく口にしますが、「喧嘩があって互いが以前より理解ができて、親しくなる」と言う意味であります。しかし、日本では人との喧嘩は人間関係の終わりを意味するようであります。すなわち、人の関係を終わらせると言う思いに至った時、初めて喧嘩をするような事が多いと思われます。これも、時々聞く言葉でもあろうと思いますが、日本人は自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手であります。すなわち、自分の気持ちを相手に言葉や手紙で言い伝えもしないで、他人に向かって「未だに私を分からないのか」と言う内なる叫びをもっている方が多いようであります。この文化的な苦手を喧嘩と言う面から考えますと、我慢を極限までして、それを一気に爆発させるのが日本人の喧嘩の仕方ではないかと思われるのであります。このような意味で日本人は喧嘩が下手であります。
ですから、特に、これから大事にして行きたい人や、または、今において大事な人間関係であればあるほど何かあった時、上手に喧嘩ができるように工夫してみるのも意味があろうと思うのであります。
ドイツ人は自分達の文化を「喧嘩の文化」とも言います。1) 喧嘩を通して人の関係を調整することをある意味で誇っているような言葉であろうと思います。一方、日本の文化は恥の文化であると良く言いますが、人と喧嘩をするのも恥ずかしいことであり、見っとも無いことであるという意識が強すぎるのではないかと思うのであります。確かに喧嘩は誇ることではありませんが、また必要以上に恥じたと思う必要もないと思います。
長々と喧嘩の話をして来ました。なぜかと言えば、今月は「教会」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、もし、教会の中で喧嘩が起こった時、如何すれば良いのか、何処に立ち返れば良いのかが今日の個所が示しているからであります。また、この争いを中止させる法則は教会中だけで有用なモノでなく、教会の外においても有用なモノであろうと思います。そのような法則を共に今日の個所を通して聞く事が出来ればと思います。
さて、今日の個所はパウロがエペソにいながら、コリント教会に当てた手紙の初めの部分であります。2) もう少しパウロがこの手紙をコリント教会に当てた理由を申しますと、パウロが開拓したコリント教会に色んな理由で争い事が生じたと聞いて心痛めてこの手紙を当てたのであります。それで、争いや論争の局面毎に一つ一つパウロの見解を示しているのがこのコリント人へ第一手紙であります。
話が少し逸れますが、この間、この教会の開拓の時を共にしていた佐藤さん夫妻が来ていました。彼はこの教会のために何時も祈っていると私に会うたびに言ってくれます。また何かあったら私達を訪ねてくださっています。私の所に一人で来たことも何回もありました。この間もいつものように彼が帰る時「教会を頼みます」と言っていました。この言葉は私だけでなく他の方にも言ったようでありますが、この教会を今は離れていますが、今も愛して止まないでいるのであります。勿論、その他にもこの教会を離れていながら、何時もこの教会のために祈っている方々がいることを知っています。兎に角、彼の「教会を頼みます」と言う言葉を色々思い巡らして見ました。すなわち、この言葉は具体的に如何することを望んでいると言う意味だろうかと思ってみたわけですが、含みの多い言葉でありますが、主にある良き交わり、また、主によって託された言葉を教会の外に伝えることに励むようにと言う意味であろうと思いました。
佐藤さんは天に宝を積む方であると信じます。なぜなら、彼の心はこの世にあるのでなく、主にある交わりを感謝し、主の体なる教会にあり、主の言葉と共にあるからであります。
話を戻しますが、パウロは自分が携わっていた教会であり、今も祈っているコリント教会の中で争いが起こったと聞いて大いに心を痛め、急いでこの手紙を書き送ったのでありますが、パウロはその争いの原因は人間的な誇りや人間的な智恵であることを知って、今日の個所のような言葉をもって、主に呼ばれた時の初心に帰るように戒めているのであります。すなわち、兄弟達が始めに教会に来た時は、智恵のあるモノは少なく、権力についていた者もなく、また、出身もこれと言う者はいなかったのではないかと言うのであります。すなわち、今は教会において大きく用いられるようになっていても、それは全く神様の業である故に、それを自分の智恵や力のように振舞ってならないと言っています。そのような振る舞いや誇りによって他の兄弟と分け隔て、争いを起こしてはならないと言うのであります。
今日の個所を読むと何時も思い起こす事でありますが、昔ある坊さんが書いた本で読んで事でありますが、彼は人間には大きな三つの欲があるが、それは物欲であり、性欲であり、また名誉欲であると言っていました。ところが、この三つの中で修行によって、割りと統制しやすいものは前の物欲と性欲であるが、残るこの名誉欲だけは最後までしつこく人を付きまとうものであると言っていました。特に宗教的な修行をする者にはそうであるそうです。私が考えても納得の行くような感じがします。なぜなら、修行を積んで前の二つの欲を抑えれば押さえるほどこの名誉欲はこれに反比例して大きくなっていくのではなかろうかと推測されるからであります。すなわち、自分を誇りにし、また、人々にも尊敬されるために色々禁欲的な生活をし、正しいことをしているのに、それを周囲の人々から認めてもらえないのであれば、つまり、そのような事が自分の名誉と繋がっていかなければ、何のためにと言う疑問が持ち上がってくるであろうと思います。
このようは懸念は私たちの信仰生活においても当てはまるモノであります。すなわち、信仰熱心であるのに、聖書についてよく学んでいるのに、教会にこれほど多くの奉仕をしているのになどの思いが起こされれば、なぜ私はそれに似合うモとして、人々から褒め称えられると言う報酬が与えられないのかを思うようになってしまうのであります。
そのような思いが起こされれば、その瞬間もはや自分は赦されたものでなく、自分が自分を赦すものであり、自ら偉くなっていく者となり、自分は罪人であるという告白は消え、自分が自ら正しい者となっていくのであります。そうなると教会の中においても、そのたの人の関係においても分裂と争いになっていくのであります。
私達は罪人であります。この告白が私達の信仰においての初心であります。また、教会の中で良き交わりを維持するための最も大事な告白であります。
罪の人は主によって赦される必要もありません。しかし、私達は罪と弱さを知って主に赦しを求めざるを得なかっていた自分を知っています。また、それを主が良しとしてくださったのであります。それによって、私たちは、今は喜びと、感謝をもって生きる者として赦されましたが、これはまったく主による業であります。
イエス・キリストが始めに弟子達を集めた時も同じであります。主に集められた弟子たちは漁師であって、収税人でありました。当時も勿論この世的な智恵に長けている人がおおぜいいたはずであります。また、宗教的にもっとも優れた人もいたはずであります。しかし、主・イエスは取るに足りない者を集めて自分の弟子とし、ご自分の智恵と希望を託したのであります。それはこの世的な智恵を誇りとするものを辱めるためであります。この世の有力者を無力にするためであります。
もし、主・イエスがこの世の有力者を選んだのであれば、選ばれた者は主・イエスが自分を選んだ理由は自分にあると誇ったでしょう。そうなる告白は教会の本質を失わせます。教会は主を褒め称えるところなのに、人の讃えることになったしまうからであります。
そのような所では、形の上では教会であろうとも必ず、争いが起こり、そこから立ち直る事が出来ないのであります。
私たちは毎日のように親しくなっていくが故に、また信仰によって強くなって行くが故に争いも起こりえますが、そのような時は先ず初心に帰って、自分が今主を褒め称えているのか自分を褒め称えているのかどうかを省みたいモノであります。先ず主を褒め称えつつ共に歩んで行きたいと願っています。
1)「独和大辞典」(小学館、第二版)によると「Streitkultur」(=喧嘩の文化)と言う表題を見ると「(自己の立場を鮮明に主張し、相手との意見の対立を恐れない精神的な姿勢が一般的な)闘争〈論争〉文化」と説明されているが、ここを見て分かるように「喧嘩の文化」と言う響きにはネガチブなニュアンスはない。
2)「新約聖書注解U」(日本基督教出版局、第四版、73頁)によるとパウロは「54年春頃に」この手紙をエペソからコリント教会に出した。
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