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「知恵を与える御言葉」(詩篇139編1〜7節)
「天のお父様、
あなたはわたしを造ってくださいました。
あなたはわたしを母の胎内で組み立ててくださいました。
わたしが生まれる前から、
あなたはわたしを知っておられました。
あなたの御業はすばらしいです。
あなたに感謝します。
今、わたしはもはや多くのことができるようになりました。
わたしは見ることができます。
わたしは聞くことができます。
わたしは感じることができます。
わたしは考えることができます。
わたしは話すことができます。
わたしは歩くことができます。
天のお父様、あなたはわたしを愛しています。
わたしはずっとあなたの御許にいたいのです。
わたしをあなたの道を導いてください。
アーメン。」
(詩篇139編による)
2004年5月23日 和白バプテスト教会にて(説教者:ロージー・マンケ)
皆さんと共にここに住むのは、もうすでに3ヶ月にもなりました。家族 と共にいることも教会にいることも、とても楽しいことす。また、再び、小さ い子どもがいる家族と共に生活するという経験をもすることができます。
4ヶ月のヨハナちゃんにとっては、もっとも重要な人はだれでしょうか。ナオ ミちゃんが朝起きるとき、誰を呼ぶと思いますか。 小さい子どもにとって、お母さんは世界の中心です。わたしたちは授乳中の母
親、慰める母親、助ける母親のことを思い浮かびます。子どもはどんな場合に も、まずお母さんのところに行きます。子どもはお母さんを信頼し、お母さん
に抱っこされて子どもは安心し、慰めを受けます。しかし、子どもは心の揺ら ぎをもお母さんにぶつけてしまいます。怒るとき、機嫌がわるいとき、不愉快
なとき、喧嘩したとき。それでも、子どもが母親に愛されます。 先ほど読んでいただいた聖書の個所は一つの詩篇でした。この詩篇は神を母親 として描きます。いつも子どものために時間がある、いい母親として。この詩
篇を書いたダビデ王はこれが分かりました。一人の母親は自分の子どもを知っ ていることと同じように、神ご自身はわたしのすべてを知っておられます。こ
れが分かって、ダビデ王は非常に信頼を込めた、プライベートな言葉でお祈り をします。 ここは抽象的専門用語をつかった神学的教えではなく、むしろ、神と人間、
すなわち創造主と創造物との間の対話が重要です。神と対話をするとき、すべ ての感情を表していいのです。怒りなどのような心の揺らぎもそうです。なぜ
でしょうか。神はわたしのすべてを知っておられるからです。 これはわたしたちの生活にはどんな意味をもつのでしょうか?人はわたした ちについてすべてを知りつくしていることは、だれだっていやです。わたした
ちは監視され、縛られ、裁かれた気持ちになります。わたしたちは皆、だれに も見せたくないような、プライベートな所が必要です。これは、例えば誰にも
言いたくないような考えと気持ちなどです。 「知る」または「わかる」ということを指すヘブライ語の単語は、C知的な 知識ではなく、しかし、一つの愛の関係を言っています。神は「わたしはあな
たを知っています」と言われることは、神はあなたと愛の関係を結びたいとい う意味です。 神はわたしのすべてを分かっておられ、わたしをよく知っておられますが、
それで何かいいことがあるのでしょうか。神はわたしを愛してくださいますが、 それで何かいいことがあるのでしょうか。わたしは神を愛しますが、それはど
こかでわたしのためになのでしょうか。 ダビデにとっては重要な問題でしたので、彼は5つの答えを挙げます。 1)神はわたしについて何でも知っておられます。このことはわたしに安心
感を与えてくれます。1節〜12節。 この詩篇を書いたダビデは、神を愛します。そのため、神が彼をどんなに知っ ておられるかを、あれほど鮮明に描くことができます。わたしは立っても、座っ
ても、神はわたしの考とこれからの予定を知っておられます。それも遠くから です。神はわたしの言うことをすべて聞いてくださいます。それもわたしの舌
がまだひと言も言わない前からです。神は、わたしを前からも後ろからも囲 む、ひとりの母親と同じようなお方です。このように「抱きつかれること」を
受け入れたくなるためには、わたしは神を信頼しないとだめなんですね。ダビ デのこのお祈りを気持ち悪いと思う人びとを、わたしはよく理解することがで
きます。すなわち、神には自分の一番いいところだけを見てほしいと思う人々 です。わたしたちのだれでも、できれば神に見えないように隠したい考えや行
い、感情などを持っていると思います。わたしたちは恥に思って、怖くなるよ うな所ですね。ダビデは神を愛し、ダビデは神によって愛されていることを知っ
ていました。そのため、ダビデは神が彼について何でもかんでも知ってもいい と思い、そのため、ダビデは神を信頼します。愛し合う者同士や親友とは同じ
ことです。かれらはお互いを信頼し、お互いにないしょにしていることがあり ません。 どうして、神はわたしをあれほどよく知ることができるのでしょうか?
わたしは人間として、神の神秘を知ることができません。わたしは神の考え を理解することができないですので、説明不可能なものをそのままにしておく
より他ありません。わたしはどこに行こうとも、神はそこにいます。 それで、ダビデは考えます。神はいない所があるのでしょうか。それは天でしょ うか。しかし天は神が住んで、支配しておられる、神の最も高い聖なる所なの
です。それとも、それは陰府でしょうか。あの死人が地下に滞在する場所でしょ うか。ダビデはこれを知っています。「陰府も神の前であらわであり、滅びの
国も覆われてはいない。」(ヨブ記26:6)神から逃れるには、死ぬことも何の 解決にもなりません。神の創造してくださった世界の中、わたしは隠れること
ができる場所があるのでしょうか。どこにいても、神はわたしを見つけること ができます。東にいても、西にいても。 もしかしたら、闇はわたしを覆うのであれば、闇の中にはわたしが見えなくな
るのでしょうか。神は光であり、神は光の中に住むのです。神の光は最も暗い 場所をも照らします。 ユダヤ人の古い物語の中で、一人の人は、ある学者にこの提案をします。「
神はどこに住むかを、教えて下さい。そうすれば、このお金をあなたにあげま す。」学者の答えはこうでした。「神はいない所はどこにあるのかを、あなた
はわたしに教えてくれたら、わたしはあなたに倍のお金を上げます。」 ダビデの結論はこれです。どこにいても、神の御手はわたしを守ってくださ います。神の御手は安心を意味します。
2)神はわたしのすべてを知っておられます。それは、神はわたしを造って くださった素晴らしいお方だからです。13節〜16節 神はわたしの母の胎内でわたしを組み立ててくださいました。妊娠中絶につい
ての議論の中で、このことが強調されるだけの理由が十分にあります。人間は 神の御旨を妨げてもいいのでしょうか。 神はわたしを造ってくださった素晴らしいお方です。神の御業がわたしの中に
現われます。わたしにはあまりよくないモノもあり、またあまりできないこと もあるのに、そうです。深く感心してわたしは、わたし自身のことを、心身と
も、感謝します。わたすたちはいったい、神の奇跡の御業としてのわたしたち 人間を深く感心して喜ぶことができるのでしょうか。神はわたしをお創りになっ
たからこそ、わたしは自信を持って生きることができます。多くの足りない所、 多くの間違った所があっても。神はあなたをお創りになったから、神はあなた
のすべてを知っておられ、人生を克服する力をあなたに与えようと思っておら れます。人間がどんな領域において不思議な実績を図るかを、思い出しましょ
う。文化や職業、芸術、スポーツなどなど・・・神はわたしたちを強いものと して造ってくださったのです。 しかし、これは、障害をもつ人びとについても言えるのでしょうか。彼らは
例えば神についてどう思っているかをダビデ程うまく表現できないのです。そ の点では、わたしたちは神をもはや理解することができません。ただ一つは確
かです。神はこの人びとを特別に、愛してくださいます。愛をもってこの人び との面倒を見る者を、神は祝福してくださいます。 わたしはもっとも好きな文は16節にあります。「わたしの日々はあなたの書
にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」神はわたしの 名が記されている一冊の本をもっておられます。「命の書」があります。この
書に記された者たちは永遠の命を得られ、最後の審判から救われます。神を信 じる者たちの名は、神において永遠に記されているのです。そのため、わたし
たちは喜ぶことができます。そして、わたしたちは再び神の神秘の一つを見る ことができます。神は前もって、わたしの人生のどの一日も知っておられます。
それにもかかわらず、わたしは自分の生き方を決める自由をもっています。 3)神はわたしのすべてを知っておられます。また、神はわたしにご自身の
ことを少しずつ見せてくださいます。17節〜18節 神の考えはわたしにとって非常に尊い、非常に大きいものです。計り知れない ほど豊富です。わたしはどんなに長く考え続こうとも、その果てにたどり着く
ことができません。神の素晴らしさは海辺の砂と似ています。砂の一つ一つの 粒をわたしたちは見ることができても、わたしたちはその粒を数え切れないの
です。数えようとしても、数えるうちに砂がますます増えてくるような気さえ もします。 初期キリスト教会最大の思想化だった教父のアウグスティヌスについては次
の伝説があります。アウグスティヌスはある日、海辺を散歩し、神の三位一体 の神秘について考えました。そのとき、彼は一人の子どもを見ました。その子
どもは小さなバケツを使って一所懸命、海の水を汲んで小さな洞穴に入れまし た。「そこで何をしているか?」とアウグスティヌスが聞いたところ、子ども
が答えました。「わたしは海をすくってわたしの穴に入れたいんだよ。」これ を聞いて、アウグスティヌスは笑いました。「これはいつまでもできないでしょ
うね。」すると、子どもは立ち上がり、言いました。「わたしはあなたと同じ ようなことをしているだけなんだ。あなたはあなたの小さな理解力をつかって、
偉大なる、三位一体の神の神秘を分かろうとしているのではないか。」 神はダビデにとって理解できないお方でしたが、しかし、ダビデは視野の狭 い自己崇拝から解放する広さに導かれます。なんといっても、ダビデは王を務
めていました。ダビデはこれを知っています。わたし達人間よりは素晴らしい ものが存在するのです。わたしたちは、最後のものではありません。神はわた
したちよりずっと素晴らしいお方です。 4)神はわたしのすべてを知っておられます。神はわたしの憎しみとわたし のよくない感情をも知っておられます。
ダビデは神を信じない者を憎んでいました。かれらは自分たちが神であるかの ように威張るからです。ダビデは神の敵を憎んでいます。神を愛する熱心さは
ここまでに及んでもいいのでしょうか。神の敵によって神から離れさせられる ことは、ダビデが恐れているのでしょうか。わたしたちはこの個所を読んで、
ダビデの憎しみに気付きますが、しかし、この憎しみはわたしたちにとってい い模範にはなれません。イエス・キリスト御自身は神と神の戒めに対する反逆
をひどく嫌っていましたが、それでもイエスは神の敵のためにとりなしの祈り をしました。イエス・キリストの御旨に従って、わたしたちは神の敵対してい
る人の中にも、神を受け入れることができるような人間を見るべきです。もは やダビデの息子にあたるソロモンは箴言の中にこう記しました。「あなたを憎
む者が飢えているならばパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうし て彼は申し訳なく思うようになり、そして主があなたに報いられる。」(箴言
25:21〜22) 5)神はわたしのすべてを知っておられます。そのため、わたしたちはダビ デと共にお祈りします。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。
」 親になったばかりの人びとはまだ胎児の超音波検査の映像を鮮明に覚えている と思います。わたしたちは皆、わたしたちの体のレントゲン写真を知っていま
す。この方法で、病気が発見され、治療されます。神はわたしたちの病院の医 者よりも、もっと私たちの中を見ることができます。神は、わたしたちはどれ
ほど神を愛し、どれほど神のいつくしみと憐れみを信頼するかを、知っておら れます。ダビデは詩篇の終わりに、自分の方に目を向けます。ダビデは自分自
身のことを知っています。自分の間違った望みや考え、神から離れていく道な どを。信頼に満ちあふれた心をもって、ダビデは自分のことを神の御手に委ね
ます。そして、誠実に従い、間違ったことをした時でも神の御許にまた戻って くることができるよう、神様よ、何でもしてくださいよ、とダビデは神から願
います。一生、神の近くにいることは、ダビデの目標です。このような目標 がわたしたち皆にもあるよう、わたしは今朝、神に祈ります。もし、わたした
ちは今日、うちに帰ってからまだ少し時間があれば、この詩篇を一度読み返し てみませんか。また自分の名前を入れてみませんか。例えば、1節目には、「
主よ、あなたはわたしロージー・マンケを究め」、などなど。自分を問うって 見ましょう。わたしは、神との愛の関係をどのようにして経験しますか。神は
わたしを知っておられます。これは、神はわたしを愛してくださるという意味 です。心を開きましょう。わたしたちの心の奥を神に見てもらいましょうか。
神はわたしたちをコントロールしようとしません。すべてが大丈夫かどうか、 ということをチェックしようとしません。神は、条件無しに、無条件に、わた
したちを愛し、祝福してくださいます。
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