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「私の霊をすべての人に」(使徒行伝2・14〜17)
テーマ:人を変えるのは天から送られる霊である。
時:04.5.30. 所:和白教会 説教者:黄仁坤
今日はすべての教会にとって記念すべきペンテコステであります。初めて「ペンテコステ」という言葉を聞く方もいるかも知れませんが、これはギリシャ語でありまして、「50」を意味します。これを日本語に訳して「聖霊降臨日」とも言います。こう言いますとますます分かりにくくなりますが、簡単に言いますとイエスが十字架にかかって亡くなって三日後に復活をなさいますが、復活の後、40日間、霊の体をもってこの地上に止まってから昇天にします。すなわち、人々の目には見えなくなったわけであります。さらに10日後、ですから、復活をなさって丁度50日目になりますが、イエス・キリストから聖霊が降り注がれたと使徒行伝2章の1節以下に記されています。こういうわけで50を意味する「ペンテコステ」をもって、「聖霊降臨日」とも言うようになったわけであります。
聖霊が降り注がれたその様子を、先言いました使徒行伝の2章1節はこう伝えています。「五旬節の日が来て、皆の者が一緒に集まっていると、突然激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡った。また舌のようなものが災のように分かれて現れ、ひとりびとりの上に止まった」と記されています。
教会はこの日をもって誕生したとも言います。すなわち、教会を教会たらしめるのがこの聖霊の降臨の出来事であります。言い換えれば、教会は何か私たちが思いついた理念や目的によって結社された団体でなく、聖霊によって誕生し、方向付けられ、成長される共同体であります。また、私達クリスチャン一人一人も自分の思いや計画だけによって生きるのでなく、聖霊に導きよって生きる者であります。
今日はこの聖霊降臨日を記念して聖書の個所を選びましたが、今日の個所を見る前に、旧約では聖霊とはどのような働きをする存在であると言うのかを暫く共に学び見たいと思います。神様の霊を聖霊と言いますが、この聖霊は創世記の始めに現れます。すなわち、1章2節を見ますと天地が創造され、まだ、混沌の状態にあるその水の上を神の霊が表を覆っていたと記されています。このように聖霊は初めから神様と共にいたのであります。ところが、この聖霊を現すヘブライ語はもともと「息」を意味しています。つまり、神様の息が聖霊であり、神様の息が命の源であります。
人は命のない土で造られましたが、この土の塊りに神様の息が吹き込まれ、始めて生きるモノとなったのであります。このように神の霊は人を生かす源でありますが、別の観点で見ますと聖霊は特定の人の上に注がれると猛烈な力として現れたりします。例えば、士師記14章16節以下に記されていますが、サムソンと言う人に獅子が向かって来るところ、神の霊が彼に臨むと彼は子ヤギを裂くように獅子を裂いたと語られています。この場面だけでなく、サムソンは聖霊の助けによって多くの力を発揮するのであります。また、申命記34章9節を見ますとヨシュアの成功も神の霊によるものとされています。ヨシュアとはモーセの後継者であり、モーセも成し遂げていないことを成し遂げましたが、モーセとヨシュアとの力量を比較しますと遥かにモーセが偉大であります。しかし、彼は聖霊に助けによって大いなる成功を収めるのであります。
また、時には倫理的な純潔さも聖霊の働きによるものであると語ります。このように聖霊は今日の個所が語られる前に、つまり、イエスよって送られる前からも存在し、色んな形での働きをしていました。
では、イエス様からの聖霊とイエス様の以前の聖霊とは如何違うのかが当然、疑問となってきます。これを簡単に纏めますと、旧約の時代の聖霊は特定の人と特定の目的のために神様によって注がれたモノであります。この事を顕著に示すのは旧約時代に活躍した夫々の預言者であります。例えば、イサヤは神様の霊が自分の上に臨み御旨の為に用いられたと語っていますが、その他の預言者たちも特定の目的の為に聖霊によって立てられたのであります。
ところが、今日の個所の17節を見ても分かりますように、終わりの時には神様はすべての人にご自分の霊を注ごうと言うのであります。ここの終わりの時とはイエスがこの地上に来た時からもう既に始まっていますが、ユダヤ人でなくとも、また特別な目的のためでなくとも、イエスを主と告白する者には、神の霊が注がれ、神様の約束を語り、希望を語るのが赦されるのであります。更には、永遠の命が与えられ、この永遠の喜びと平安を自分のものとする事が出来るのであります。
先ほど聖霊が注がれるのに特別な人でなくと良いと言いましたが、これを言い換えれば、誰でもイエス・キリストに求めさえすれば、聖霊が注がれるのであります。今までの事は一切問われません。ここにイエス・キリストからの聖霊の大きな特徴があります。この道筋を立てるために神様はイエス・キリストを地上に送り、また十字架に掛かり亡くなるまでも沈黙をしていたのであります。
過去も現在も問わないですべての人にイエス・キリストに求める事によって救いが与えられる例を一つ申しますと、イエスと共に十字架にかかっていたひとりの強盗はイエスに救いを求めます。するとイエスはその願いに対して救いを約束をするのであります。この強盗はいま釘打たれ、身動きが出来なくなっています。何一つ善い事をする事が出来る道が残っていないのであります。ただイエスに救いを求めるというチャンスだけが残されていたのであります。
多くの方々が間違いをしますが、多くの良き事を積む事が救いの基盤ではありません。イエスに求める事が救いの基盤であります。このように、キリストの時代には誰にでも聖霊が赦されますが、これは旧約の時代には想像も出来なかったことであります。ユダヤ人中でも信仰的に清く、律法、すなわち、規範を守る人だけが救われると信じられていました。しかし、イエスによって誰でも救われる道が開かれたのであります。繰り返しになりますが、今まで酷い罪の中にいた人であっても、みな均しく救いの道が示されているのであります。
それで今日の個所17節を見ると「息子も娘も、老人」もなどとなっていますが、ここでの老人や娘とは弱いモノの象徴として語られていると考えて良いと思いますが、当時は女性は弱いモノとされていました。時には女性は立ち入ってはならないところもありました。そのような娘が息子と均しく預言をするとされているのであります。この預言とは神様の言葉を語る事でありますが、兎に角、イエスキリストに求めれば、すべての人に均しく聖霊が注がれるのであります。イエス・キリストの求める者は幸いであります。
今日は主の晩餐式がある日でこのように用意されていますが、私達の教会はイエス・キリストを主と告白した人だけが主の晩餐に与る事としています。これは私たちが特別な人であるからという意味ではありません。また、私たちが特別に信仰熱心であるからでもなく、清いからでもありません。誰でもイエス・キリストを主と告白さえすれば、この晩餐に参加が赦されるのであります。すなわち、主による家族の一人となり、主と共に食卓を囲む事が出来るのであります。
話を今日の個所に戻しますが、14節を見ますと「そこで、ペテロが11人の者と共に立ち上がり声を上げて人々に語りかけた」と記されていますが、ここからペテロのメッセージが始まるのであります。すなわち、初めての教会のメッセージであります。もう少しこのメッセージが語られるようになった背景を申します。先ほど申しましたように、一同が集まっている時、聖霊が炎のように下ってきましたが、聖霊が注がれるとそこに集まっていた人々の口から今まで聞いた事のない外国語のような言葉が語られるようになりましたが、傍らでこの光景を見ていた人々は彼らが酒に酔っ払ったと言い出したのであります。このことを受けてペテロを初めとする12人が立ち上がり、ペテロが代表として語りだしたのであります。
ここの「傍らで見たいた人々」の驚きや非難を全く理解できないわけでもないであろうと思います。すなわち、習ったことのない言葉を急に語りだしているから自分達の経験から考えて、酔ったようにしか見えなかったのであろうと思います。
私も昔は多くの酒を飲んでいましたが、酒に酔うと確かに今までの自分と違う自分となって行きます。訳もなく愉快になったり、大胆になったり、寛大になったりします。時にはこれとは逆に怒りっぽくなったりします。今までの自分と違う人格になってしまうのであります。時には自分が大胆になろうと言う意図で酒を口に注ぎ込んだ事もありました。
しかし、私たちは今日の個所を通して酒にではなく、聖霊に酔って大きく変貌を成し遂げたペテロを見ます。彼は知識においてもそれほど優れた人ではありませんでした。また、それほど勇気のある人でもありませんでしたが、今日の個所が示すように、聖霊によって、智恵と希望に満ちた言葉を大胆に語りだすのであります。もう既に以前のペテロではありません。聖霊によって今まで全く違う人になっているのであります。
時々私達は自分を変えて見たいという欲求に駆られます。自分の性格、習慣、生き方、価値観、時には自分の出身や過去までもをも変えてみたいものであります。出来れば、今までの自分を全く忘れ新しく生きたいと願うものであります。変えれるものであれば変えてしまいたいものはこのように心や性格だけではありません。顔も、白髪も、髪の毛の数も、しわも何か希望通りの方向に変えて見たいものであります。また、時には自分のイメージをも変えようと自分の内面に蓋をし他人に和やかの表情して見せたりします。
しかし、過去を忘れる事も、自分の性格や習慣を簡単に変える事は出来ないものであります。自分を変えようと時には多くの決心をし、その為のスケジュールを立てて実践をもしたりしますが、何時の間にか元通りになっている自分に気づき、がっかりするものであります。時には拭い去りたい自分の過去の為に酒に溺れて生活する人もいますが、さらに苦しくなっていくだけであります。
ところが、顔を整形したり、分厚く化粧したり、幾ら増毛しても、その顔の内面から溢れ出る平安がなければ、何の益になるでしょうか。知識に満ちた言葉を幾ら語ってもそこに希望と愛がなければ、何の益になるでしょうか。問題は内面から神様に向かう方向に変わらなければならないのであります。根本のところが変わらなければならないのでありま
す。つまり、自分が自分の心を入れ替えるのでなく、神様から注がれる神の霊を受け入れなければ、人は変わらないものであります。
話が少し変わりますが、最近北朝鮮によって拉致されていた蓮池さん、地村さんの子供達が帰ってきて多くの話題を呼んでいますが、これから彼らがどのように変わっていくのか大いに気になるところであります。例えば、彼らは今、胸に金日成バッジをつけているようでありますが、親は無理矢理に外すように言わないでいるようであります。好い方針であろうと思いますが、外観的にそのような変化を求めてもあまり意味がないからであります。内面が変わってくると自らバッジを外すはずであります。この他にもこれから変わっていくのに多くの戸惑などもあろうと思いますが、できれば、神様を求める方向に変わって行って欲しいのであります。
例え、北朝鮮の国籍が日本に変わった。社会主義的な考え方が資本主義的になってきたというだけで良いだろうかと思うのであります。私はイエス・キリストに出会って、創りかえられた者として、できれば、彼らも神様によって変えられるのを期待しています。
今、日本にモノがなくて多くの若者が葛藤し、目標を失ってさまようものが増えてきているのでしょうか。哲学が浅くて大人はそのような若者に語る言葉を失っているのでしょうか。モノや知識はますます増えて行くのに喜びや人々との関係はますます希薄になってきているのであります。このことに対しては教会も悔い改めなければならないと思いますが、この話はまたの機会にしたいと思います。
最後にもう再び17節を見たいと思いますが、聖霊が注がれると若者たちは幻を見るようになると記されています。聖霊が注がれると老人たちは夢を見ると約束されています。言い換えれば、目の前にあるモノだけに囚われることなく、目の前のモノだけに飽き足りることなく、また、昔話を懐かしく語らだけでなく、夢を語るようになると言うのであります。目に見えないものに対して希望を抱くようになると言うのであります。何時も受身の姿勢で語られるものを受け取るだけであった娘たちに聖霊が注がれると希望と喜びに溢れ、人に自らそれを語るようになると言うのであります。
目に見えるモノだけに希望おくことは絶望であります。目に見えない聖霊に従う時、また、私達の智恵や知識や経験を超えたところの出来ことである復活に目を注ぐ時、初めて私達は内面から根本的に変わり、永遠の喜びと永遠の命を知る事が出来るのであります。
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