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「主の為の祭壇を」(創世記12・4〜9)
テーマ:『礼拝』、礼拝は神様への感謝の現れであり、神様に聴き従うと言う応答である。時:04.6.6. 所:和白教会 説教者:黄仁坤
私達は驚き、心を痛めているところでありますが、電話連絡網を通してお知らせをしましたようにこの礼拝の後に、江頭さんの告別式があります。
金曜日の夕食後、江頭兄が亡くなったと連絡がありまして、急いで駆けつけましたが、病院に着いて見ると米津さん、晴枝さん、万記子さんはもう既に連絡や葬儀の段取りなどに追われていました。私は病院についた途端、何時もこの別れだけは簡単には受け入れることも、慣れることも出来ない事だなとまた思い知らされました。と言うの、晴枝さんが以前から本人もそう願っていることであるから「主人が亡くなると教会で宜しく」と何回も言っておりました。この言葉が免疫注射見たいモノになって、91才にもなったんだからという気持ちで、江頭さんとの別れを淡々と受け入れる事が出来たかと言えば、やはり、そうにはならなかったのであります。行ってみれば悲しくなり、虚しくなり、人生って呆気ないモノだなという思いに囚われてしまったわけであります。
このような話はまた告別式で致しますが、教会での告別式は礼拝の形式であり、また他の礼拝とその本質的な意味において同じであります。すなわち、礼拝とは神様の業への驚きと感謝の表れであり、神様の言葉に聴き従いますという人間側からの応答であります。言い換えれば、礼拝とは時には神様の導きを前にして、人間的な思いでは到底受け入れることの出来ないような事であろうとも「アメン」という答えと共に「受け止めます」という人間側からの答えであります。
では、聴き従う私達には何が残るのでしょうか。神様に聴き従うこととは主体的に生きることの諦めでありましょうか。果てしなく待つだけの無力感だけが残るでしょうか。決してそうではありません。神様の言葉に聴き従うこと自体は希望であり、永遠の命であります。虚しき心に対しての勝利であります。悲しみに対しての勝利であります。
この事は後で、今日の個所を通して確認したいモノでありますが、神様の約束は虚しく終わる事がありません。神の御言葉に聴き従う者は幸いであるという所以であります。
今月は『礼拝』をキーワードにして共に聖書から聞こうと思います。言うまでもありませんが、礼拝は信仰者にとって何より大事であります。この礼拝に失敗をすれば、私たちは何処で罪から来る絶望や愚かさを振り切って、新たなる勇気と慰めを得て、前に進む事が出来るのでしょうか。礼拝を失敗しながら、すなわち、神様と人間との関係においては失敗をしながら私達はどのようにして他者と関係を回復し、または新たなる関係を築いていく事が出来るのでしょうか。
失敗した礼拝の典型としてカインの礼拝があります。カインは自らが礼拝に失敗をして、その怒りを弟のアベルにぶつけてしまいました。これを見れば、分かりますように礼拝においての失敗は単に自分の上にその怒りが止まるのでなく他人に向かって行くのであります。ところが、私達は毎日に様々な局面において、様々な失敗を繰り返します。しかし、このような失敗はまだまだ大丈夫であります。なぜなら、生活の中での失敗から来る失意や無気力は神様の前にもって行ける道が残されているからであります。つまり、そのよう
なもろもろとした悩みや苦しみは正しい礼拝を通して回復される道が残されているのであります。何が正しい礼拝かを今日のアブラハムの礼拝を通して共に学ぶ事が出来ればと思います。
今日の個所を見る前に話が少し逸れますが、最近少しずつ熱くなってきて我が家も窓を開けっぱなしにして寝る事がしばしばあります。道路側の窓は騒音や排気ガスの為に開ける事が出来ませんが、道路と反対側の窓は開けて新鮮で涼しい空気を取り入れたりしているわけであります。小さい窓でありますが、なかなか気持ち良いものであります。ところが、開かれた窓を通して時々裏の神社から明け方になると、ぶら下がっているわに口を打ち鳴らす音が聞こえてきます。この間はまだ暗い時でありましたが、眠りが浅かったせいであったか、ガラガラと言う音と共に目が覚めて、色んな思いを巡らしたことがあります。どこか大事な仕事があって、勇気を得るために出かける前に自分の神にお願いに来ているのかな、どのような願いであったのかな、もしかしたら、遠くまで旅に出かけるかな、危険な仕事をする人かなと思ったりしたわけであります。
一般論として、神社参りをする人の願いは絵馬に書かれる言葉から推測しますと、殆どこの世においての課題であろうと思います。例えば、交通安全、夫婦円満、合格、恋愛、無病息災、安産、商売繁盛、などなどであります。珍しいものとして他人と縁を切らせてくださいという願いをもって神社に行くようであります。如何でしょうか。このような祈願を如何考えれば善いでしょうか。勿論、交通安全や健康、経済的な豊かさなどは善い事であります。人との縁を切らせて下さいという祈願にはどうしても賛成できませんが、他の願いは悪くはありません。実際に私達もそのような祈りをしたりしてます。しかし、そのような祈りだけに止まっているのであれば、それは極めて世俗的な祈りであると言わざるを得ません。すなわち、そのような願いのために礼拝をささげ、その反対給付として願いを叶えてくださいと言うだけであれば、人間的な思いや計算に止まっているだけであります。そこには人間的なイメージをもって作りあげた偶像礼拝のみが浮き彫りになって現れるのであります。そこには全知全能の神様への呼びかけもなく、従って全知全能の神からの答えもないのであります。
礼拝に関してもう一つ確認して置きたい事であります。去年もまったく同じ事を申しましたが、礼拝は前奏から始まって最後のお知らせをもって終わります。すなわち、礼拝は私達一人一人が神様にささげる行為であります。牧師の説教を聞いて神学的な評価を下すだけでもなく、ただ聞いて善い話を聞いたと喜ぶだけでもなく、私たち一人一人が祭司となり神様を呼び求める行為であります。
もし、ただ牧師の話を聞くだけであれば、神学的な知識を得るだけであれば、私達は教会に来なくとも出来ます。幾らでもインタネットやテレビ、ラジオを通して牧師のモノより遥かに善いメッセージを聞く事が出来るのであります。しかし、私達はこのように肩を並べて生きている神様に礼拝を捧げているのであります。
この事は今日の箇所を見ても分かりますが、今日のような礼拝と言う形が出来る前の初期的と言うべきでしょうか、基本的と言うべきでしょうか、兎に角、アブラムが始めにささげた礼拝の段階においては別に祭司が存在していません。すなわち、アブラム一人で祭壇を築いて神様に感謝し、御名を呼び求め、また、御言葉に聴き従うと言う約束をするのであります。この他にも細々とした礼拝に関する事を申したいですが、時間がありませんのでこの辺までして今日の個所を見たいと思います。
さて、4節を見ますと「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出た時75才であった」と記されていますが、ここに記されているハランというところはアブラムの長い旅の中で中間点でありました。すなわち、一時的に止まっていた所であって、目的地ではありません。目的地は今の名ではイスラエルでありますが、あくまで約束の地カナンでありました。ところが、アブラムが始めに旅立ったところはハランよりさらにユフラテ川の下流に位置するウルでありました。私達は昔、地理の時間によく聞きましたが、下流になればなるほどその周辺の平野は広くなって、肥沃であります。それで、そこを中心にして文明が発達してきたと教えられましたが、正にウルというところはメソポタミは文明の発祥の地でありました。豊かな食料を求め人が集まり、人が集まることによって商売も盛んになり、そのようにして文明が始まったのであります。
この肥沃なウルという所では自分たちに既に与えられた豊かさを守りたいという願いが強かったのか、偶像礼拝が盛んでありました。それでそこを発つように神様が言ったかもしれませんが、アブラムを呼び出してご自分が導くところに行くようにと命じます。
アブラムを祝福の基として、また、大いなる国民の信仰と父として用いるからという約束と共に従いなさいと命じるのであります。ところが、アブラムが辿った道程を見ますと、ユフラテ川を溯っています。すなわち、肥沃な土地からますます遠ざかって、石ころの多いところに向かって行くのであります。にも関らず、神様は蜂蜜とミルクが流れる地に導いているのだとアブラムに言い続けます。受け止め難い約束であり、現実であります。でも、アブラムは愚かに見えるほど黙々と旅を続けて、ようやくカナンの地に着きました。しかし、着いて見たらそこは空き地ではありませんでした。もう既にカナンの住民が住んでいたわけでありました。私がアブラムであったら大いに当惑してしまったでしょう。7節を見ますと正に途方にくれていた筈のアブラムに神様がまたタイミングよく現れて言います。読みますと「時に主はアブラムに現れて言われた『私はあなたの子孫にこの地を与えます』」と記されています。
この約束が再三与えられたアブラムは新たなる力が湧いてきたのか、立ち上がって祭壇を築くのであります。既に土地が与えられたからでなく、ただ、そのような約束が与えられただけなのに、祭壇を築いたことに注目をしたいのであります。このように礼拝とは神様の約束を、神様の言葉を受け取った人間側が現実化する行為であります。アブラムの祭壇はそのような礼拝の意味であります。
ところが、アブラムは礼拝を通して神様の言葉を現実のモノとして受け取った後も、そこにはカナン人がいたので、その場で住むことが出来ずに、さらに移動してべテルの山の方に行ってそこで天幕を張るしかありませんでした。しかしながら、アブラムはそこでもまた主の為に祭壇を築いて主の名を呼んだと8節に記されています。この短い個所で二回も祭壇を築いたと記されています。アブラムはこのように転々としながらもいたる所で主の為に祭壇を築きました。13章の18節を見ればアブラムはヘブロンでまた主の為に祭壇を築いたと記しています。この祭壇は神様への信頼の現れであると言えると思います。
神様の約束は私達を人間的な目から見れば、すなわち、世俗的な視点から見れば、何の益も無さそうに見える時もあります。アブラムにもそう見えた時がきっとあっただろうと思います。しかし、アブラムは神様の約束を喜び、祭壇を築き神の名を呼び続けるのでありました。
この事を喩えで申し上げます。私の娘ナオミは最近目立つように大きくなってきましたが、大きくなるにつれて、自分の言葉も多くなってなかなか親の言葉を聞かないで私達を困らせています。夕食を前にしては飴をなめないように、テレビは近くでは見ないように、雨が降らない時は長く靴はかないように、はさみをもって走らないように、兎に角、私達は彼女にとって有益だと思うことを勧めます。これからも彼女に最も有利だと思われる方向に導くでしょう。時には必要だと思われる時には門限も設けるでしょう。しかし、彼女が何時も「ハイ」と分かりましたと答えてくれるとは思いません。彼女は彼女なりに有利だと思う事を好み、楽しいことを好み、また、時には自分の判断をもって親は間違っている、親は何も知っていないなどと思い、頑なに私達たちの言葉を拒むこともあろうと思います。
如何でしょうか、私たちの親が自分の子に魚の代わりに蛇を与える事がありましょうか。パンの代わりに石を与える事がありましょうか。親は子供を愛するが故に最もよい道を選んで欲しいものであります。例え、今、葛藤があろうとも、また理解出来そうでなくとも、今は苦しくとも善い結果に導かれる道を選んで欲しいのであります。
私たちが子供の時は親の期待に背いたこともありました。今は背けられることもあります。しかしながらも親子の絆を維持させるのは何でしょうか。子供が「お父さん」と「お母さん」と親しく呼び求める事ではないでしょうか。そのような親を呼び求める子供である限り、どんなに間違いをしてもまだ可能性があります。親はその求めに何時も答える用意が出来ているからであります。
礼拝とはこのような親子関係と全く同じであります。イエス・キリストによって私達は礼拝や祈りの中で神様を「父なる神さま」「主のなる神様」と呼び求める事が出来るようになりました。礼拝とは私達の目には何の益もないように映る神様の導きであろうとも、従いますと告白であり、感謝の現れでありますが、この神様の導きに対して、人間がわの応答としての礼拝は決して虚しく終わる事はありません。神様はアブラムに約束した事は悉くはして下さいました。これからの共に神の子供として、また神の名の下での兄弟姉妹として共に礼拝を捧げながら歩みたいと願っています。
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