|
「聖なる供え物として」(ローマ書12・1〜2)
テーマ:『礼拝』、私達の生の全領域をもってイエス・キリストに感謝しよう。
時:04.6.13. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
私の机の前に掛かっている新宮町のカレンダには6月の第2日曜日であるはずの今日が「父の日」と記されています。それで父の日の由来などを探してみようと資料をめくって見ると、実は6月の第3日曜日が父の日である事を知りました。どうやら、新宮町のカレンダも間違っていたようでありますが、このように世間には、何かの名目でプレゼントを売ろうとするデパートは別にして、それ以外人々は「父の日」にさほど関心を寄せていないようであります。何れにせよ、私達は「母の日」となれば、母にカーネイションでを贈ったり、電話でも掛けようか等と言う気持ちになりますが、「父の日」となれば、そのような気持ちにはならないのであります。誤解がないように申しますが、父は大事でないと言う意味では決してありません。「父の日」という言葉には「母の日」と言う言葉が持つ響きのようなモノがないと言うことであります。
ところが、世間のカレンダには全く記されることがありませんが、実は今日、教会にとっては「父の日」よりは多く覚えられている「花の日」であります。しかし、聴きなれていない方も多くいらっしゃると思いますが、今日のメッセージのテーマとも少しは関連があろうと思われますので少しだけその由来を申します。
記録によりますと「花の日」は1856年アメリカのマサチューセッツの第一ユニバーサリスト教会から始まりましたが、始めは児童をキリスト者生活に献身させる意味を含めたセレモニーであったそうです。それが明治時代になって日本の教会にも伝えられ、日曜学校の時に特別なプログラムとして、子供達が花を持ち寄り、自然を通して神様を褒め称えるようし、子供を中心として礼拝を捧げ、そして、礼拝の後は花をもって病人などを慰問するように指導したそうです。それで、その伝統を受け継いでいる教会が今もあるわけであります。私達の教会は「花の日」のための特別プログラムはもっていませんが、大いに意義のある事であろうと思います。
私達の教会ではその代わりに子供祝福式や献児式をしています。これらは教会の歴史や日本の風習等と関連の中で出来た儀式であろうと思います。すなわち、七五三と言う名の下で、多くの親が子供を抱えて神社参りをしますが、これに対応して私達は私たちが仕えている神様に子供達の成長をお願いし、また、私達の分として神様の御旨にそうように育てて行きますという約束をするのが子供祝福式や献児式であります。
ところが、この献児式という字面をよく見ますと、子供を捧げるという字を当てています。この字面だけを見ますと確かに首を傾げざるを得ません。なぜなら、親が勝手に自分の子供を神様に捧げてしまったり、クリスチャンにしてしまったりするのは幼児洗礼と変わらないことになるからのであります。プロテスタント教会、中でも特にバプテスト教会は自分の意思をもって信仰告白をするのを強く求めます。それ無しにはバプテスマを授ける事が出来ないというのがバプテスト教会の原則でもあります。しかしながら、親が勝手に献児式をするのは何であるかが疑問となってくるのであります。
確かに私たちが勝手に自分の子供を神様に捧げる事は出来ません。あくまで私達の教会の聖書の読み方としての方針は、自分の意思をもって神様を自分の主人とすること、すなわち、自分は神様に捧げられた者として歩みますと言う告白が必要であります。ですから、献児式は先ほども言いましたように私たちが神のみ旨に沿うように育てますと言う決意の面が強いと思います。そして、そのような私達の決意や祈り、また教育の成果があって、初めてある程度の年齢に達した時、本人の告白と共にバプテスマを授けると言う順を追わなければならないのであります。
さて、今日の聖書の個所はパウロの強烈な言葉が目立つところであろうと思います。今日のメッセージのタイトルにもなっていますが「私達を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げなさい」と勧めています。真剣に読めば、鳥肌が立つような言葉使いになっています。花束だけでもなく、私達の時間の一部だけをでもなく、献金をするだけでもなく、また、子供をクリスチャンとして捧げるだけでもなく、私たちの生きたままの体を、言い換えれば、「生の全領域」を聖なる供え物としてささげなさいと言うのであります。「大胆過ぎる」と言っても良い言葉でありますが、この言葉をパウロは「兄弟達よ」と言う呼びかけと共に私達の前に置くのであります。
これに倣って私も「皆さんの体を神様に喜ばれる生きた聖なるその供え物として捧げなさい」とお勧めいたします。私は決して牧師としてでなく、また、聖書にしるされている言葉を鵜呑みしてでもなく、自分の実感した事として、また、皆さんの兄弟姉妹として勧めているのであります。生の全領域において神様に喜ばれる生き方をする者は幸いであります。
今月は「礼拝」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、今日の個所は私達自身を生きた供え物として捧げる事が「霊的な礼拝」であると言っております。ここでの霊的な礼拝と言う時の「霊的」と言う意味が少し分かり難いかと思いますが、これを文脈から考えれば、私達が教会で目に見える形、つまり儀式としての礼拝だけでなく、私達の生活の全般をもって捧げる礼拝をこのように「霊的」礼拝と言っていることを知ることが出来ます。
ですから、先週はアブラムの礼拝を通して、礼拝の基本的な意味を学びましたが、そのメッセージの中で礼拝は奏楽をもって始まり、お知らせをもって終わると申しました。これは儀式としての教会の中で礼拝であります。私達は先ずこの礼拝に成功しなければなりませんが、兎に角、今日の個所で言う「霊的礼拝」とは何時から始まるかと言えば、教会の礼拝としての「お知らせ」が終わる時から始まるのであります。つまり、私達が教会の礼拝を終えて教会のドアを出る時、この「霊的礼拝」が始まるのであります。
職場に行けば、その机が私達の祭壇であります。機械を動かすことの仕事であれば、その機械が祭壇であります。主婦にとっては厨房の流し台が祭壇であります。また、職場での同僚が兄弟姉妹であります。家族が兄弟姉妹であります。私達のすべての生活の営みが礼拝でありますので、これらをも心を尽くして捧げなければならないのであります。
ところが、昔の礼拝においての捧げモノは如何であったでしょうか。当時の神殿や祭壇は何を意味していたんでしょうか。イエスやパウロが活躍していた時代の礼拝の捧げモノは清いモノとして定められていた動物や、食物でありました。また、祭壇や祭壇のために用いられる容器は厳格な規格によって造ら、管理されるモノでありました。多くの人々が礼拝のためにそのようなモノを用いて、また捧げモノを持って行けば、よいと思っていたようであります。例えば、そのためには容器を綺麗に磨いたり、定められたモノを捧げればそれでよいとしていたようであります。このような礼拝を見て憤りを覚えたイエスは十字架に掛かる前に「いわゆる宮清め」と言われる大胆な行動をもって戒めます。すなわち、神殿の中で清いモノとして動物を売っていたり、また、お金を交換していたりしている人々の商売の台を引っくり返したり、鞭をもってそこにいる人々を追い出してしまったのであります。恐らくパウロもイエスと同じく、そのような礼拝の風景を見ていたと思います。
しかし、イエス・キリストの十字架の上で和解の供え物として捧げら事によって、神と人間の含む万物が和解をする事が出来た今においての礼拝は如何あるべきかをパウロは問いつつ今日の個所を書き記しているのであります。今日の個所の始めに「そういうわけで」と記されていますが、その訳とは今日の個所の一つの前に節に記されています。すなわち、今、私たちが私達を生きた供え物として捧げるべき理由が1章の36節に記されています。読みますと、「万物は神からいで、神によってなり、神に帰する者である。栄光が常しえに神にあるように」となっています。これを今日の文脈に沿うように読み直すと「教会の中だけが清いモノでなく、教会での礼拝のみを心を尽くして捧げるのでなく、万物が清いモノであり、万事が礼拝である」と言うことになります。
話が変わりますが、私達は何かある度に、贈り物をもって他人に自分の気持ちを伝えますが、贈り物について感動を与えるオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」を少しだけ紹介したいと思います。私達の教会学校でも去年のクリスマスにこの映画を子供達と共に見ましたが、企画の段階で「この映画はクリスマスとは直接関係がないのに」と言う発言もありました。でも、イエス・キリストは神様からの私達への贈り物であるからそれを少しでも子供達に伝える事が出来ればという期待をもって敢てそれを選びました。
原題は「The Gift of the Magi」でありますが、ここの「the Magi」が「賢者」と訳されています。これはマタイ福音書に出てくるイエスの誕生の物語のところで、博士達がイエスに贈り物をしますが、ここの博士をも「the
Magi」と言います。ですからヘンリーはこの個所の言葉を敢て持って来て、このようなタイトルにしたのではないかと推測をしています。すなわち、イエス・キリストに捧げるような気持ちをもって愛する妻に、愛する夫に贈る互いをこの「Magi」と言うのであります。すなわち、この夫婦が賢者であり、祭司であると言おうとしているのであります。
この話はあまりの有名でありますが、貧しきある夫婦はクリスマスの前日になっても、互いの気持ちを伝えるべき贈り物を用意する事が出来ずに気を揉んでいました。結局、妻は自分の美しい髪の毛を切って売り、その金で夫のために時計の鎖を買う決心をします。女性にとって、髪の毛は極めて大事であると時々聞いております。自分の美しさを諦めると言うのは女性にとってほぼ致命的であるからではないかと推測しています。女性の気持ちを私はリアリティをもって理解する事はできませんが、兎に角、髪の毛をそれほど大事にしていた妻は愛するの夫のためにその美しさを諦めるのであります。一方、夫は日頃、丹念に髪の毛の手入れをしている妻のために、自分の鎖のない時計を売って、宝石がちりばめられている櫛を買ってきて互いはクリスマスの贈り物として差し出すのであります。
如何でしょうか、この夫婦は大事にしていたモノを互いが失っただけでしょうか。それより大事な互いの愛を確かめる事が出来たのではないでしょうか。
先ほどイエス・キリストは父なる神様からの私達への贈り物であると言いましたが、神様は何の為に贈り物として私達の前にイエス・キリストを差し出したのでありましょう
か。自分の愛する御子であります。ご自分の意に適うイエス・キリストであります。しかしながら、天上に留まらせるだけでなく、私達の所に送ってくださって、イエス・キリストを通してご自分の心を人々に伝えようとしたのであります。
話を纏めてから終わらせたいと思います。私達クリスチャンは度々この世とは分かたれている処に立っていると自らを位置づけします。確かに私達はこの世の思いや価値観に従うものでなく、神の御旨に従う者として立っていようとする者であります。この意味で私達はこの世とは分かたれている者であります。しかし、これが誤解になってはならないと思います。つまり、私達は教会の中に留まりつつ、この世とは距離を置いて眺めているのでありません。教会での礼拝のみが大事であって、他の仕事は意味のない事ではあません。すべてが清いモノであって、すべてが礼拝の延長であります。
イエス・キリストは神の御許に留まったのでなくこの罪深い世に来て、ご自分の命を捧げモノとし、人々を神の御旨に従わせようとしたのである。すなわち、この世を上から眺めただけでなく父の御旨をご自分の体をもって完全に表したのであります。これによって私たちは罪から、死から、そしてこの世のもろもろの柵から解放されたのであります。
心の中で「私はまだ経済的な苦しみから解放されていない」と叫ぶ方がいるでしょうか。「私はまだ病気から、体の不自由から解放されていないから、教会の礼拝においてのみ、そのような事を願いたい、また慰められたい」と思う方いるでしょうか。
決してイエス・キリスト主と呼びながら、救われていない人は一人もいません。解放されていない人は一人もいません。私達は一人も残らずもう既にイエス・キリストの名とイエス・キリストの復活によって解放され、救われています。
私達は教会の礼拝の時だけ、解放されているのでなく、また、教会の礼拝において感謝する時だけが救われているのでなく、すべての生活の領域において解放され、救われているのであります。この神様に私達は何をもってこの事を感謝すべきでしょうか。
全生活の領域においてイエス・キリストの名が褒め称えられればと願いたいものであります。私達の生きたままの体を神様への贈り物としたいと願いたいものであります。
|