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「一つの祭壇」(ヘブル13・10〜14)
テーマ:『礼拝』、礼拝を通してイエス・キリストの苦難や辱めを負おう!
04.6.27. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
今日の礼拝の後は、ロージ(=説教者の義理の母)の送別会の意味を込めての愛餐会をすることになっています。このような時を設けて下さる皆さんに感謝していますが、アット言う間に4ヶ月半が過ぎて明日の朝、彼女はドイツに帰ります。実は私達は先週の礼拝の後、ロージが日本を発つことを惜しんで「共に旅にでも」と言うつもりで、水俣まで行って来ました。
なぜ、水俣になったかと言えば、ロージが石牟礼道子さんのある小説(苦海浄土)のドイツ語訳を読んで、水俣に関心を持つようになったからであります。私達の夫婦も水俣には始めてでありましたが、とても美しいところでありました。
勿論、水俣については以前から度々聞いておりました。また、法律を勉強していた時は、いわゆる公害訴訟に関る色んな事例を読んでおりました。それで自分は水俣について知っているつもりでありました。ところが、この間の旅の中である患者さん(=坂本シノブ)に出会った瞬間、私は水俣について何も知っていなかったということを思い知らされれました。
暫くこのことについて申し上げたいと思います。先ほど申しましたようにロージが水俣に関心を示していたので、行ってみようと思うようになりました。それで、水俣の患者さんや公害問題の為に運動をする方々との交流のある安藤栄雄牧師にお願いをして、そのような方々を紹介して頂きました。そして、早速、水俣に電話をしてみると親切に旅館などを教えてくださいながら、月曜日午前中に会おうと約束をして下さいました。
そう言う訳で、日曜日午後に紹介してくださった旅館に到着すると、丁度、日没の時でありましたが、不知火海を挟んで、天草が霧の合間合間に見えていました。その天草の向こう側に沈んでいく夕日はとても美しかったです。正にそのように美しさは石牟礼道子さんの小説にも良く画かれておりますが、私はどちらかといえば、このようにロマンチックな気持ちに浸っていて、この美しいところで起こった悲劇はもはやうわの空でありました。
美味しい食事と楽しい温泉と共に夜が過ぎて行きましたが、朝になって、ファクスで頂いた地図を頼りながら約束の場所に行きますと「蛍の家」という色あせた小さい看板が掛かっていた飯場のようなプレハブでありましたが、何人かの方々が快く迎え入れて下さいました。その方々と水俣の全体的に被害や運動のなどについて聞いていましたが、暫くして患者さんが来て下さいました。彼女はいわゆる胎児性患者ありまして、生まれながら体が不自由で、言葉も自由に話せないほどでありました。私には殆ど聞き取れませんでしたが、長年付き合っている人が彼女の言葉を通訳して下さいました。彼女の話によりますと、6才になってようやく歩けるようになったと言っておりましたが、そのような胎児性患者が60名ほどいたそうです。
私は彼女の話を聞きながら五体満足な自分が恥ずかしくなってしまいました。そのような衝撃に囚われたのは初めてであります。公害に関しては何の罪もない胎児が、人々の自然破壊という罪を背負って50年近く苦しみ続けてきたわけであります。しかし、そのような悲劇は小さいものとして、片付けられ、相変わらず、私達は拡大生産をし続けているのであります。それが私達に豊かさをもたらすと信じて疑おうともしないのであります。そのような仕組みの中で私達は罪を犯し続けているのであります。
私は彼女を目の前にして自分はこの事を第三者として語る事が出来ないと思わされました。すなわち、私も彼女の加害者の一人であると思われたわけであります。にも関らず、今まで、自分はそれを頭で理解して、もはや、忘れようとしていた何と愚かなものであって、恥じるべき人間であろうかと思わざるを得ませんでした。ここまで思いが及ぶと彼女の姿とイエス・キリストの十字架での苦しみの姿とがダブって見えてきました。
最近、イエスの十字架での苦しみがテーマである「パッション」という映画が話題になりました。私は映画館で見るチャンスを逃して、この間、インタネットで録画したビデオを見ましたが、これから機会があれば是非、映画館で見たいと思っています。このこの映画の背景を知らないとただ残酷物語に見えるだろうと思います。実際、この映画を見て映画館から出てきた人々にその感想を聞く記者に「ただ残酷であった」というような答えをするのを見た事があります。しかし、その背景を知っているクリスチャンは無惨に鞭打たれ、また、釘打たれるイエスの姿を見て、心を痛め、自分の胸を打つものであります。イエスの痛みや辱めに対して感情移入をするからであります。言い換えれば、イエスの痛みや辱めをただ第三者として眺めるものでなく、自分の痛みや辱めとして受け止めるのであります。何の罪のないイエスを、人々の心の中にある憎しみや、過ちが殺しますが、イエスはそれを神の救いの計画として受け止めつつ、十字架の上でその苦しみに耐え続けたのであります。
イエス・キリストの十字架を知り、自分の罪の深さを知る者は幸いであります。それによって清められるからです。それによって新しい悔い改めの道が開かれるからであります。
さて、今月は「礼拝」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、旧約時代の礼拝においてはよく動物を屠ってその血や肉を捧げていました。今日の聖書の個所にもそのような事が示されています。今日の個所だけを読んでも窺い知る事が出来ますが、当時は礼拝の目的によって動物を如何捧げるかが違っていたようであります。例えば、収穫の感謝を表すための礼拝と、罪を清めて頂こうとして捧げる礼拝との形式が異なっていたのであります。詳しい事を言う時間はありませんが、今日の箇所が示すところだけをもう少し見ますと罪を償うための礼拝においては動物を屠ってその血の一部は祭壇に塗り、肉などは宿営地の外にもって行って、そこで、焼き尽くさなければなりませんでした。つまり、罪を償うために捧げられた肉は人が食べてはならなかったのであります。この個所の根拠になっているのは出エジプト記29章10節以下であります。
話が前後しますが、礼拝に関する聖書全体の構造を極めて大雑把に申します。今月初めにアブラムの礼拝を見ましたが、礼拝が聖書に初めて記されている個所はアブラムの礼拝より先でありまして、ご存知のようにカインとアベルが始めて神に礼拝を捧げます。恐らくその後はノアであろうと思います。ノアは箱舟から降りてきて神様に感謝の礼拝を捧げます。その後がアブラムであろうと思います。これ以外にも創世記に多くの人々の礼拝が記されています。
ところが、イスラエルの信仰共同体としての礼拝の形が出来るようになったのは出エジプト記25章以下からであります。ここを見ますと祭壇の造り方や祭司の服装や捧げものなどについて細かく記されていますが、そのような内容が30章まで続きます。
その中で今日の個所の根拠になっているのが、29章10節以下であります。繰り返しになりますが、14節を見ますと主の祭壇に捧げられた雄牛の肉などは人が食べるのでなく、宿営地の外で焼き尽くさなければならないと記され、そしてこれは「罪祭」のためであると宣言されています。すなわち、人の罪を償うためにはそうするように命じたのであります。また、ご存知のようにモーセを通して与えられた律法によりますと捧げる牛は全く傷のないモノでなければなりませんでした。すなわち、全く清いモノでなければならなかったのであります。
兎に角、神様はこのように始めはモーセを通してあたえた律法の中で、人々の内外にいる罪を知らせために、また、それを償うために罪のない雄牛をそのように屠るように命じました。ところが、最後の時代になってはイエス・キリストが私達の罪のために十字架の上で屠られるのを許したのであります。これは神様の救い業を無限に広げようとする計画によるものでありますが、そのような神様の恵みと許しがあって、このように私たちはイエス・キリストを主と告白するものとなりました。
話を今日の個所のところに戻しますが、10節を見ますと「私達には一つの祭壇がある」と記されています。ここの「一つ」とは「同じである」という意味として読み替えても良いところであります。すなわち、旧約の時代の礼拝も、今の時代の礼拝もその根本的な意味においては同じであるということであります。昔は清い動物が捧げられましたが、今は罪のないイエス・キリストが捧げられた十字架としての祭壇が私達の前にあるという事であります。
私たちが礼拝を捧げているこの時間に日本中の教会でも私達のと同じ礼拝が捧げられています。また、この礼拝は最も東にある日本から始まって今日の一日中、全世界の教会で礼拝が行われるのであります。数え切れないほどの教会がありますが、これらのすべての教会の礼拝は根本において同じであります。つまり、私達の礼拝はイエス・キリストが十字架の上で受けた苦しみや辱め、そして復活への参与、そのモノであります。
因みに言いますが、私は日本の教会が好きです。教会の規模は大きくなく、歴史も西欧に比べて浅いですが、そうであるからこそ、日本の教会が聖書に基づいた良い礼拝、交わり、聖書の学びを新たにし、そのようにして出来た教会を世界に伝える事が出来ると信じているからであります。世界中の教会がこの礼拝をもって一致し、また、これによって教会が神の国、すなわち、神の御旨が支配する共同体としてその責務を果たさなければならないと思います。
話が少しそれますが、私たちは時々、「地球市民」「地球村」という言葉を聴きますが、私は「日本人」「韓国人」という言葉よりは好きです。なぜなら、これはこの中央政権よって統合された概念として国家や国籍より、幅が広い言葉であるからであります。しかしながら、私はこれには積極的な意味を見出す事ができないのではないかと思っています。つまり、「地球市民」と言えば、「日本人」、「韓国人」という窮屈にたいして反発だけをしていて、それ以上の積極的な理念や教えなどはないと思われます。それより私達はやはり「神の国の市民」であることを願いたいものであります。すなわち、名実共にイエス・キリストが私達の律法であって、私達の王であって、主であられることを常にすべての教会が礼拝を通して確認をし、喜びたいものであります。
先ほどパッションという映画について申しましたが、度々その映画を見てきた方の感想を聞いておりますが、そのような方々の中に、復活のシーンが少ないことを残念がっている方々多くいました。確かにそうであろうと思います。しかし、私はそれをこのように理解しています。つまり、その映画の監督は今の教会に警鐘を鳴らす意味で、受難を強調する為に造った映画である故に復活のシーンが少なくなったと思っているのであります。
勿論、イエス・キリストの受難と復活はコインの裏表のようなものであります。受難のない復活は幻想であります。復活のない受難はただの敗北であって、無駄であります。このように受難と復活は切り離すことの出来ないモノであります。
受難のない復活を今日の個所の言葉をもって喩えれば、罪の贖いの為に牛を捧げると言いながら、後で自分達の胃袋の為に、その肉を食べてしまうような事であります。これは牛を捧げたのでなくただ屠ってお祭りをしたことに過ぎないことであります。捧げられた牛は焼き尽くさなければならないのであります。それを捧げた人々にそれを食べる権利がないのであります。罪の対価であるからです。このように昔の人々は牛を失われる痛みを通して罪を償っていたのであります。
今、私達は牛を捧げるような事はしなくとも良い時代を生きています。しかし、私達は何を失い何を得るべきでありましょうか。失いたいものはこの世的な喜びであって、楽しみであります。得たいものは永遠の命であって、変わらない真理であります。その為に、
イエス・キリストの十字架の苦難と辱めを私たちも背負いつつ、これによって復活を得るべきではないでしょうか。このことを少し具体的に言いますと、無闇にこの世の人々が楽しみとするところ、この世の人々が美しくて、価値あるとするところに従うのでなく、イエス・キリストが良しとするところは何かを聖書や祈り、礼拝を通して先ず、聞いて、そして、それが例え苦しくなることがあろうとも、自分の自尊心を折り曲げる事であろうとも、生活の中で、人との関係の中で適用していく事であります。
礼拝はこのようにイエス・キリストに従いつつ、神様の心を求める行為であり、天の国を求める行為であります。この地上には永遠の都がないことを知っているからであります。この世は罪に満ちていることを知っているからであります。
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