2004年7月4日

「主の薫陶と訓戒によって」(エペソ人への手紙6・1〜4)
テーマ:『伝道』、今、子供達に必要なのは外なる知識よりも主の言葉である。
時:04.7.4. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

 第一と第三木曜日の夜、映画を見ながら福音と英語を学ぼうと言うプログラムをもって神宮姉妹が呼びかけておりますが、先週の木曜日には私も参加させて頂きました。映画を見る前に神宮姉妹と少し話をしていましたが、その話の中で懐かしい名前と共にエピソードを一つをお聞きしました。今日のメッセージのテーマと関連がありますので紹介をします。この話は神宮さんが直接聞いたのでなく、米津さんから聞いた話だそうです。ですから米津さんが通訳としてフラナリ先生の奥さんであるリーンさんと共に子供達が通っていた小学校に行った事があるそうですが、その時の事です。リーンさんは担任の先生にしきりに「discipline」するように言ったそうです。これは普通「訓練、規律、制裁」などと訳されますが、文脈によっては「躾」などとも訳されるであろうと思います。恐らく、リーンさんはその先生に時には厳しい態度をもってでも子供のために良き指導を願っていたと思われます。しかし、その話を聞いた後、思い巡らした事でありますが、その先生がどれ程リーンさんの意図を汲んでいたのかは大いに疑問になってきました。つまり、その先生は今の日本の教育現場で行われ、また求められ、規格化されている考え方ないし方針の範囲でしか、リーンさんの言葉を受け止めなかっただろうと思った訳であります。
 私達の教会には一生を学校教育に携わったいた方や、今も教育の現場にいる方々がいますが、今日は批判的に今の学校教育を考えてみたいと思います。勿論、多くの方々は過去においても、今においても理念と熱意をもって教育に携わっている事も事実であります。ですから、一人の先生への批判というより、教育の全体的な枠組みへ批判であります。
 ところが、私たちが聖書を通して子供の教育を考える時、学校教育だけを射程において語る事は出来ないと思います。つまり、当然の如く家庭教育をも共に考えなければならないと思います。
 なぜ聖書を通して教育の問題を共に考えて見よう思ったかを申しますと、今月は「伝道」をキーワードにして共に聖書から聞こうとしますが、「伝道」と聞けば、私たちが水平的に友達や知人、または知らない人々に「福音とは」と言う言葉をもって接近するようなことを先ずイメージします。しかし、それだけではないだろうと思います。すなわち、私達の後を担うべき世代を御言葉をもって育てることも極めて大事な伝道の一つであろうと思うわけです。子供の教育と言う観点で伝道を捕らえ、また、水平的な伝道という言葉に対比させると、教会や家庭での教育を「垂直的伝道」と呼んでも良いかも知れません。
 伝道は教会に与えられた主・イエス・キリストによる至上命令であります。去年も全く同じ事を申しましたが、伝道は教会の規模を大きくするところに目的がありません。伝道は御言葉と共に歩む人を作り出すことであります。御言葉に希望があり、命があり、解放がある事を私たちは知っているからであります。これがまた、伝道の内なる根拠であります。
 今日の聖書の個所はエペソ人への手紙でありますが、エペソ人への手紙は主に「教会論」であります。その教会論の中で子供の教育が語られています。大いに示唆するところがあります。教育を教会の使命として語り、また、強調しても決して言いすぎにはならないと思います。
 もう一つ子供の教育を伝道の一環として考え、積極的に考えて行かなければならないと思うようになったのは最近相次いで発生している子供による事件であります。すなわち、私達の記憶に新しい事件でありますが、約一ヶ月前に長崎で小学校の6年生の女の子がクラスメートをカッターナイフー殺害をするという痛ましい事件がありました。その前には同じく長崎で12歳の中学生が4歳の子供を屋上から突き落として殺害するような事件もありました。この他にも私たちが記憶しているだけも数多くの青少年による事件がありましたが、事件があった直後にはこの世に言い表せないほどの衝撃が走り、様々な観点でそのような問題を分析する声があがります。しかし、暫くするとまた忘れたかのように、またはなす術がないからと言わんばかりに過ごしてしまいます、兎に角、このような一連の事件を見る時、今の学校教育だけに私たちが子供を委ねる事が出来るだろうかと思わざるを得ないのであります。すなわち、今の学校教育は学力向上と入試だけに囚われているのではないかと思われて仕方ありません。その一例として2002年から文科省が「ゆとり教育」と言うキャッチプレイスの下で教育内容を三割削減していましたが、一年足らずで学力低下を理由にして軌道修正をしてしまいました。言いかえれば、学力第一主義に戻ったわけであります。勿論、学力は大事であります。しかし、それがすべてではありません。知識だけを頭に詰め込むのでなく、人間の存在価値、また、他人と共に生きる事の価値を心と体にしみ込ませなければならないのであります。
 また、学校教育は何か問題を起こす生徒がいれば、その人の外だけを見てそれを修正しようとするのではないかと思います。例えば、登校拒否をすれば、それが大いに問題であって何とかして学校に来させれば良い、決まった制服を着ない生徒がいれば脅かしてでも決まった服を着せればよいと思ってしまうのではないかと思われます。
 では、家庭教育を如何でしょうか。子供がお父さんやお母さんと向き合って真剣に話をしているでしょうか。親が信念をもって子供にこのような人間、このような生き方をしなさいと言う親がどのくらいいるでしょうか。せいぜい、良い学校に入って、良い職場に着けば、生きるのに楽であるから、そうなるまで、親が喜んで最善を尽くして支援する覚悟が出来ていて、またそうするだけで親の役目を果たしたと言えるでしょうか。
 人の外なる肉は確かに食べ物だけでも大きくなります。しかし、問題は心であって、魂であって、頭であります。これには良い言葉と良い指導が必要であります。
 親になるのは容易い事でありますが、親であることは難しいと私達は時々耳にします。当たり前な事でありますが、愛情を注ぐにも節度をもって臨まなければなりません。方向性を定め一貫性をもって臨まなければならない事であります。
 私は他の機会にも言った事がありますが、「友達のような親」と言う言葉を聞いて喜んでいる親のようであれば困ると思います。テレビで実際見た事でもありますが、親を前にして司会者が「どのような親であるか」と子供に聞きますと子供は平気で「友達のような親」だと言っているのをみました。親もその答えに満足しているかのような表情をしていました。私は全く納得が行きませんでした。親は親であります。友達ではありません。すなわち、親子の関係は垂直関係であります。親は子供を指導し、育てる義務があります。勿論、無闇に親の権威を振りかざして子供を抑圧してはなりません。子供を無闇に怒らせてはなりません。また、子供が親に話しやすい関係を勤めて造らなければなりません。し
かし、これらは親の責任の一部に過ぎないと思います。あくまで親は子供に対して指導する立場にあります。
 子育ての失敗談をもう一つ紹介します。何年か前にアメリカでの出来事でありますが、ある金持ちの韓国人の親が留学に行った高校生の子供にBMWを買ってあげたそうです。それが回りの学生たちからの嫉妬の種になって、結局、彼は暴力を受けて大怪我をし、留学をも止めて、韓国に戻らざるを得なかったそうです。この事がアメリカの地元の新聞にも報道され、また韓国の新聞にも報道され多くのヒンシュクを買いました。モノだけを与えれば、子供の要求をすべて受け入れるだけが愛ではありません。
 では、教育とは如何するものでしょうか。三つが考えられます。はじめに愛することであります。その次ぎ、指導する事であります。その次がその人の才能を開発させてあげることであります。この三つをもう少し考えて見たいと思います。
 先ず、愛する事であります。無条件の受け入れであります。殆どの親はこれは出来ます。またそうしてあげる用意も出来ています。しかし、それを伝えるの事には怠っているのではないかと思います。特に父親が大体そうであります。しかし、その愛をわざわざでも表現する事が大事であります。ただお小遣いを上げることで愛を表現できたと思わないで、毎日のように向き合って何かの形で表現し、常に関心をもっていることを伝えなければならないのであります。
 その次が指導する事であります。これは難しい事だと思っている方が多いかも知れません。愛することを伝えるのは感情的に難しいが、指導することは、そのようなノウハウや知識がないといけないと思っているのではないでしょうか。
 決して難しいことではありません。御言葉に聞き従えばそれで良い事であります。つまり、今日のメッセージのタイトルでもありますが、4節では「父たる者よ、子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒によって、彼らを育てなさい」となっています。これは口語訳でありますが、新共同訳には「主がしつけ諭されるように、育てなさい」となっていますが、御言葉を読み、共に教会で礼拝を捧げ、また御言葉を生活の中で適用する事であります。そのような姿を見せてあげる事であります。
 もう少し具体的に言えば、「知識が大事だよ」、「出生する為に良い学校が大事だよ」だけを聞かせるのでなく、「神を恐れる事が知識の始まりであり」、「人々に認められるより、神様に認められることが優先されるべきこと」であると生活の中で語り、また、示す事であります。
 今、多くの子供達がテレビや、パソコンや、ゲームに虫食まれています。この間の長崎の事件も前日見たテレビの真似をして首を切ってしまったと少女は言っています。言うまでもありませんが、映像は何でもかんでも悪いものではありません。しかし、批判的に捕らえる力のない子供に選ばずに見せるのは極めて危険であります。多くの映像はただ刺激的に子供達に「真似」を促しています。これは今の子供たちを見れば分かります。テレビの言葉を真似し、テレビを真似し遊びます。テレビ局は子供を育てるつもりで番組を作っていません。殆どの放送局はただお金や、ディレクターの出生に結びつくような視聴率だけを考えながら作っています。このようなモノに子供達が曝されています。
 「じゃ如何しろ」という言うのかと思う方がいるんでしょうか。聖書を子供達も読みやすく絵本にしたり、また面白く編集したモノなど幾らでもあります。テレビやゲームに夢中になっている子供を放置するのでなく、そのような本を時々は読ませるべきではないでしょうか。人々の「文字離れ」が叫ばれてもう既に古いですが、人を考えさせる面においては映像より文字が優れています。映像は真似を促しますが、文字は立ち止まらせて考えさせます。
 私達の教会でも子供を集めて、子供たちに何とか楽しく聖書を聞かせようと多くの方々が工夫し、教会は楽しいところである事を伝える為に色々苦労しております。大事な業であります。また、これは血の繋がっている子供だけを育てれれば良いという思いを越えてのイエス・キリストが命じた万人への愛、また伝道の業の実践でもあります。
 今日のメッセージは極めて実践的で具体的な内容になっていますが、これから私たちはこの教会での教育の為に共に語り合い、祈りあい、協力していければと願っています。何より大事な伝道の一部であり、教会に託されている業であるからであります。
 三番目に才能を咲かせることであります。順番をもう一回思い起こして頂きたいですが、はじめに無条件に愛する事であります。次は主の言葉をもって指導する事であります。その次が才能を咲かせることであります。教育といえば、先ず知識と才能を伸ばせることを真っ先に思い浮かばせるこの世の中でありますが、私はその逆であろうと思います。
 他の言い方をすれば、この順番を縦並びの順番でなく、一番下に愛であって、その上に指導、その上に才能を咲かせるための業という順番だとイメージして頂きたいのであります。
 この世に必要でない人は一人もいません。何の才能もない人も一人もいません。その人がもっている才能を見極めてそれを導き出すべきであります。言ってみれば当たり前な事でありますが、往々にしてそうならないようであります。親が決めて「金になりそうなので」という理由で決め付けてその方向に導こうとするのであります。つまり、その人の才能などは考えずに親の欲に従わせようとするのであります。
 それで結局、親の思い通り行かないと今度は「お前は何をしても駄目だ」と言う親が多いこの世の中ではないかと思います。私達は神様が良しとするところにしたがって造られています。神様が備えてくださった才能をそれぞれがもっています。
 最後にもう一回申し上げた三つの順番を確認し話を終わらせたいと思います。先ず、無条件に愛し、受け入れ、それを積極的に表現する事であります。その次が御言葉をもって指導する事であります。その次が才能を咲かせることであります。これからも神様の愛と言葉に基づいて共に伝道の一環としての教育に励んで行ければと祈っています。