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「教える事に心を」(テモテ第一4・11〜16)
テーマ:『伝道』、教える事と学ぶ事は同じである。
時:04.7.11. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
先月から悲しい事が続いておりますが、今日の礼拝の後は渡辺一成さんの告別式があります。先々週の水曜日の夜であったと覚えていますが、12時頃、玲子さんから電話がありまして、主人が入院したと言う知らせがありました。病院に駆けつけたところ、玲子さんが真っ青になっておりました。人が衝撃を受けるとこのような顔色にもなりうるんだなと初めて知りました。真っ青になると書く時は、「青」という字で現します。白くなっている人の顔は以前も何回が見たことがありますが、「青く」なった顔はその時初めて見ました。しかし、暫く話をしている中で、早めに病院に来られたので大事には至らないだろうと医者が言った事が分かりました。また、看護士の話などを聞いても、重態ではないと思われたので、私は気持ちが軽くなって帰宅する事が出来ました。ところが、実際はそうでもなかったようであります。入院当時の期待や話とは裏腹に、肺炎にもなり、高熱が続いたようであります。結局、入院した以来、玲子さんとは一言も喋る事ができないまま、治療の甲斐もなく、一昨日の金曜日に午後に亡くなりました。今は神様の御下で安らぎを得ていると信じています。また、何より遺族の上に神様からの慰めが豊かに臨むように祈るばかりであります。
後の告別式での聖書の個所の言葉でもありますが、「死んでも生きる人」がいますし、これとは逆に「生きていても死んでいる人」がいます。最近、私は残念ながら病院回りが多くなっていますが、この間、ある医者さんの口から出た言葉を聞いてとてもがっかりしました。というより憤りを覚えたと言ったほうが良いかも知れません。
今は詳しくは言えませんが、悲しみと恐れを覚えている人を前にして医学的な知識だけを根拠にして、こちらが訪ねもしていないのに、「脅かし」であるとしか言い様がない話をしていました。例え、それが100%間違いない事であっても、その時、その場で、言う話ではありませんでしたが、平気でそのような事を言っておりました。正に人を殺す言葉だなと思われました。人をいたわる心をもっていない人は、人を愛する心をもっていない人は「生きていても死んでいるんだな」と思われました。愛のない知識はただの人を傷つけ、時には人を殺す凶器となるのであります。
先週も少しだけ申しましたが、主を恐れる事が知識の始まりであります。つまり、神を愛し、人を愛することがすべての知識に優先されるものであります。神を愛し、人を愛する者は幸いであります。なぜなら、その人は神によって愛され、また、人によって愛されるからであります。愛することと愛されることは別々の事柄ではありません。
さて、今月は「伝道」をキーワードにして共に御言葉から聞いております。それで、先週は特に「教育」を垂直的な伝道として捉えメッセージを致しました。その中で、学校教育だけに私たちは私達の子供を委ねる事が出来ないこと、また、家庭教育を省みるべき事、そして、何より主を恐れる事が知識の始まりであることなどを確認しました。今日もその延長線の上にある聖書の箇所から共に聞きたいと思います。
今日の個所でもあるテモテへの手紙TとU、そして、その後に来るテトスへの手紙を「牧会書簡」とも言います。これらはパウロによって、テモテとテトスに宛てられた手紙でありますが、その内容は二人が属したそれぞれの教会を如何指導するべきかについて具体的に語っています。それでそのような「牧会書簡」という名がついている訳でもあります。
今日の手紙が宛てられたテモテはユダヤ人の母とギリシャ人の父を持つ人でありましたが、実はパウロによって教会に導かれた人であると言われています。そして1章2節に記されていますが、パウロはテモテを「信仰による私の真実な子」と呼んでいます。この言葉で分かりますようにパウロはテモテを教会に導いただけでなく、手塩をかけで良き信仰者として育ててきたのであります。それで今は自分の実の親子のような関係になっています。このように伝道とはただ教会に導くだけの終わる事ではありません。教会に導き、よき信仰者として育てる事が伝道への責任でもあろうと思います。
少しだけ私の事を申しますが、私は新学校に来る時、ひそかに決心した事があります。私はその時、一生をかけて10人に伝道をしようと思った訳であります。如何でしょうか、牧師になろうとする者がやっと「10」人かと思う方もいるかも知りませんが、そうではないと今も思っています。全くイエスを知らない人10人にイエスを伝え、教会に導き、その一人一人がまた10人を伝道する事が出来るような、良きクリスチャンに育てたいと思っていました。それで、決して少ない人数だと思いません。イエスも12弟子だけを許し、育てました。
「生みの親」という言葉はありますが、生むだけでは本当の「親」であるとは言えないのであります。肉の糧だけを与えることで親の役目が終わるとは言えないのであります。
これと同じく、教会に導くだけで伝道が終わったとは言えないモノであります。クリスチャンを一人生んだとは言えないのであります。
少し、話が重たくなってきましたが、一寸した笑い話を一つ紹介します。私達の家族にとって大きな楽しみの中での一つは三苫海岸へ散歩に行く事であります。広々とした海を眺めながら砂の上を歩くと細々とした悩みなどから解放され、また新しい気持ちを充電することが出来ます。最近はナオミも良く歩いてくれるようになって共に散歩に行くのも以前より楽になりました。また、彼女なりの遊び方をも見つけ一人でも遊んだりしておりますが、この間の夕方にも皆で海岸に行きました。私達は少し疲れて砂の上に腰を下ろして海を眺めていると若い夫婦がナオミよりやや小さい子供を連れてきて、私達の近くで玩具を広げて砂遊びをしていました。するとナオミは彼らが楽しく見えたのか、早速そこに近づいて、一緒に遊んだりしていました。暫くすると今度はその若いパパにしがみ付いて、肩に乗せるように、ブランコになるようになどの強請ったりしていました。
そのお陰で私達はただそれを眺めながら楽な一時を過ごしましたが、私はミヒャエラに(=説教者の妻)「これは『托卵』」だ」と言いながら笑いました。ミヒャエラは「托卵」という言葉が始めは分からなかったようでありましたが、この「托卵」の習性のある鳥はカッコウとホトトギスなどだそうですが、ご存知のように、托卵とは卵を他の鳥の巣に産んで置けば、それを巣の主なる鳥は自分の卵だと思い暖め、孵化させ、それを育てるわけですが、そのようにして自分の種族を維持する習性を托卵と言います。
動物はこのような智恵をもって子育てをする事が出来るかも知れません。生まれながら本能は備えられ、ただ、肉を大きくするだけで済むからであります。例え、ホトトギスが鶏によって育てられてもホトトギスであります。決して「コケッコッコ」とは鳴かないのであります。しかし、人間はそうならないのであります。人間は本能と肉だけの存在でないからであります。心や習性は言葉によって育てられます。教育によってその人柄が定まります。心や思考のパタンは親やその属している共同体が決めるのであります。教育が幾ら強調されても言いすぎにならないという所以であります。
話を今日の個所に戻しますが、今日の個所を見ますと当時の教会の中での事情を少し窺い知る事が出来るところでもあります。テモテは若くして教会での役目を担うようになりました。「若い」と言っても当時は40歳を目安にしてそれより下の人は若いと言っていたようでありますが、兎に角、テモテは若い年で教会を指導し、人を育てる所に立てられていました。今の教会に喩えれば、教育主事にでも着いたんでしょうか。
パウロはテモテに「若いから」ということで自分が立っているべき場所を見失ってはならないと諭しています。これを見ますと、テモテはいつも相談に乗ってくれるパウロに自分の教会には自分より年をとっている経験豊富は方々が大勢いて、自分がそのような方々の前で発言をしたり指導したりするのは引け目を覚えるという苦しみなどを漏らしたと思われます。しかし、パウロはこれに答えているかのように、若さの故に軽んじられてはならないし、祈りによって今の働きついたことを自ら軽視してはならないと戒めています。
確かに豊富な経験は大事であります。また、年配の方々の智恵に私達は大いに学ぶべきであって、聞くべきであります。しかし、人間的な経験や人間的な知識より大事なのは、正しく方向が定まっているか如何かであります。信仰者としての言い方をすれば、神様に向かって正しく方向が定まっているか如何かであります。一旦、方向が間違っていればどんなに頑張って走っても結局は、間違ったところに辿りつく結果のみであります。
このことを例えで言えば、私たちの教会は外国語が出来る人が多くいますが、外国語を学ぶ目的とは何でしょうか。言葉を学ぶ目的はなんでしょうか。言うまでもありませんが、人の出来ないもモノを身に着けて自分の勲章とするためではありません。他の文化とのコミュニケーションの為であります。人と会話をし、心を通わせるためであります。この方向ないし基本が間違っていれば、どんなに多くの言葉をもっていても、どんなに多くの外国語を語る事が出来ても無益であります。心の通う会話が出来ないからであります。
話がそれましたが、テモテの教会には彼より若い人、幼い人などもいたの思いますが、テモテは若くして自分より年上の人をも含めて教会の人々に教育する働きをになうようになりました。
教会での教育といえば、何か専門的な知識が必要であって、ギリシャ語やヘブライ語、教会の歴史、教理、神学的な知識などを知っていなければならないと思って、自分は出来ないと前もって諦めてしまう方もいるかも知れませんが、そう難しく思わないで下さい。勿論、知っておけばそれに越した事はないでしょうが、決して、それが基本ではありません。
13節の後半に示されていますように、教会での教育は共に聖書を読み、聖書の言葉に従って生きることを勧める事であります。また、言葉だけでなく、模範になるように行動する事であります。これが教会教育の基本であろうと思います。
もう少し実践的な言い方をすれば、教会で教育をするためには、また家庭でクリスチャンとして子供に教育をするためには、聖書の言う「罪」とは何か、「救い」とは何か、「愛」
とは何かを理解し、その上で自分の言葉をもって語る事が必要であろうと思います。そのために絶えず、聖書を読み、黙想し、また証をを立てるのであります。これは困難なことではありません。
自分で繰り返し聖書を読み、子供を含む他人に繰り返し語り、また、繰り返し自分の行いがイエス・キリストが求めていることと合っているか、大きくは違ってはいないかなどを省みることが教育であります。詰まるところ、教会での教育は教育するものと教育されるものが何時までも全く別々の主体として存在するのでなく、一つとなって行くものであります。言い換えれば、教育するものが教育されるものとなり、教育されるものが教育するものとなるのであります。
この事が16節に示されています。読みますと「自分の事と教の事とに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは自分自身とあなたの教えを聞くものたちとを救うことになる」と示されています。簡単に言えば、教えることによって自分が教えられ、結局は、教えるものと教えられるものと両方が救われるという話であります。
私たちの生活の中でも発見する事でありますが、何かについて最も良く知っている人は最も分かりやすく語る事が出来ます。なぜかといえば、そのような方の話は、比喩で言えば、何かの知識を良く自分の歯で噛んで、自分の心に一旦落とし、そこから、更に自分の言葉になって出てくるからであります。すなわち、自分のモノになっているからであります。
繰り返しになりますが、教える事は学ぶ事であります。語る事は聞く事であります。教える事と学ぶ事がまったく別々の事柄ではありません。如何すれば、よく教える事が出来るか、私達の後の世代に良きモノを語る為に何をまず私たちが聞くべきかを真剣に悩み、そこから得られた答えを実行しながら、共に、教えることに、教えられることに励みたいと願っています。
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