2004年7月18日

「今が刈り入れの時」(ヨハネ4・32〜35)
テーマ:『伝道』、今が私と他人との間にある壁を取り除く時である。
時:04.7.18. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

 私は時々何かの事で西南学院大学に行っておりますが、この間も用事がありまして行きました。時間が少しありましたので、駐車場に車を止めて少し自分の神学生の時などを思い出しながら色々思い巡らした事があります。
 ご存知のように神学校は干隈にありましたが、自然にも恵まれていて広いところでありました。私はそこで3年間過ごしながら学んだわけですが、私にとっては大変恵まれた時でもありました。全くすべてから解き放たれたかのような気持ちで過ごす事が出来ました。
 その干隈の地はもともとアメリカの南部バプテス連盟が購入したものであったそうです。勿論、西南大学や日本バプテスの連盟が受けた南部バプテスからの恩恵はそれだけではありませんが、兎に角、そのようなアメリカ教会の献金によって神学校が出来、私のような者までに大いに恩恵が及んだわけであります。
 ところが、私が入学する当時はもうすでにその干隈の土地を福岡市に売却して、西新に神学校を移転する事と決まっていました。私はもったいない事を決めたものだと思いました。むしろ西新の本校を売ってでも干隈の方に移転すれば良いのではないかと思った訳であります。しかし、当時の理事長の伊藤先生の考え方は教会は人ごみのところに行くべきであって、神学校も人里はなれたところにいるより、西新の方に行くのが望ましいと言っておりました。今はその話に十分納得しております。
 今は干隈を売却したお金でもともと西南高校、中学校があったところに色々施設を立てている最中であります。聞くところによりますと市民の為の語学センターをも計画しているようであります。
 これからも大いに西南大学が市民と触れ合う大学であって、それを通して多くの方々がキリスト教や教会とに親しみを覚える事が出来ればと期待しております。言い換えれば、市民に開かれた大学であってほしいし、そのためのプルグラムと企画をもってほしいのであります。
 このような思いをしながら私たちの教会のあり方についても考えてみました。私たちの教会は地域に開かれた教会でありたいと願っています。これからもそのような教会を目指し、共に祈り、共に智恵を出し合っていければと思います。
 さて、今月は「伝道」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、先週と先々週は教育を伝道の一環として捉え共に学びました。今日は少しその向きを変えて、伝道の喜びと私たちの心の中にいながら伝道を妨げるモノは何かを主に考えてみたいと思います。そして来週は元に戻ってまたテモテへのパウロの手紙を通して伝道の一環としてのクリスチャンの教育を学びたいと思います。
 今日の個所は有名でありまして「サマリヤの女の話」と言えば、多くの方が「アー、その話」と思い出すであろうと思います。先ず全体のあらすじを簡単に申しますと、当時のイスラエルの人々は信仰の純粋性を失い、また他民族との混血の過去をもっているサマリヤの人々を忌み嫌っていました。それで旅をする時も、わざわざサマリヤの地方を通らないで、遠回りをしてでも避けて行くほどでありました。そこをイエスは通っていました。
 このイエスの旅は民族の間に出来た心の壁を越えての旅であると言って良いと思いますが、イエスは旅の途中、スカルと言う町である女性に出会い、彼女自身について、また礼拝についてなどを語ります。つまり、良き信仰者として生きるように諭したのであります。すると彼女は大いに喜んで村の人々にイエスを伝えに言ったと記されています。伝えられた者の喜びであります。今まで、人間として人々に受け入れられなかったが、イエスに受け入れられた喜びであります。教会に招かれた者の喜の喜びも同じであると言っても良いと思います。
 今日の聖書の個所はこのような話の中でも特にイエスと弟子との間の会話であります。
因み言いますが、ヨハネの福音書の特徴の中で一つはイエスと弟子達との話の中で、時々断絶が起こります。つまり、弟子達は自分の思いでイエスの話を聞いていたので、イエスの言葉を正しく理解できずに良く拍子がずれたような答えをします。今日の個所もそのような場面でもあります。
 今、申しましたようにイエスがサマリヤ女に福音を伝えると彼女は喜んで他の人々に、今まで自分を貶していた人々に聞いた福音を伝える為に村に走って行きましたが、その後、イエスはこの事でとても嬉しくなって井戸のそばで弟子達が帰ってくるのを待っていました。との位待っていたんでしょうか。弟子達が食べ物をもって戻って来て、イエスに食べるように勧めます。するとイエスは「私にはあなたがの知らない食べ物がある」と言いながら食べようとしませんでした。
 すると弟子達は他の人が食べ物をすでにもって来たので、イエスがそれを食べのたのかななどと思い巡らします。しかし、実はイエスは肉のための食べ物を食べたからでなく、自身を遣わした方の言葉を成し遂げたと言う満足感から食欲を忘れていたのでありました。食べなくともお腹いっぱいの喜びがあったのでありました。
 私たちは度々聞く事でもありますが、ストレスが溜まると余計に食べる人がいます。私はこの事について医学的な説明は出来ませんが、恐らく心の虚しさを埋める為に、または自虐的になってそのような行動をするだろうと思います。確実なのは幾ら食べてもストレスが取れるわけはないと言うことであります。逆に、ますますストレスが膨らんでいくばかであろうと思います。
 例えば、一世を風靡したエルビス・プレスリーと言うアメリカの歌手がいましたが、彼は舞台でいつも喜んで歌っていたかのように見えていましたが、人が知れない苦しみがあったようで、それを解消する為に彼は毎日多くドーナツを食べつづけました。それで、苦しくなり吐き出すようなことを繰り返していたそうですが、結局拒食症で亡くなりました。極端な例でありますが、食べ物が人を幸せにする事が出来ないという一例でもあろうと思います。
 話が逸れていましたが、イエスは弟子達がもってきた食べ物を前にしながら、それを食べようともしないで伝道を勧める話を弟子達に始めました。丁度その時は刈り入れの時であったようでありますが、これに比喩して「今が刈り入れの時である」と言うのであります。つまり、今が伝道の時であって、その刈り入れの喜びを自分のモノとするように勧めているのであります。
 穂が実って首を垂らしているのにそれを喜んで鎌を入れない農民がいるでしょうか。もしかしてスズメが来て穀物を食べはしないかと思い、カカシを作って立てたり、台風が来て倒れる事はないであろうか思い、天気予報に耳傾けながら、その時を今か今かと待つものであります。それでいよいよ時になりますと喜んでたんぼに入って刈り入れるのであります。
 雇われた人は違います。刈り入れの時が来ても自分の物にならない事を思い、「まだその時ではない」と言い続けます。雇われた人はもし台風が来ると聞いたら仕事が先に延ばされたことで喜びます。雇われた人はスズメが来てもそのスズメを喜ぶものであります。今日の聖書の個所は単純に伝道を勧める事だけではありません。私たちにこの世を主人として生きるのか、雇われた人として生きるのかの決断を迫る箇所でもあります。
 「今を生きる人」と「まだを生きる人」がいます。今を生きる人は、「今」、最善を尽くしますが、まだを生きる人は今は最善を尽くす時でなく、もう少し待たなければならないといつも自分に言い聞かしてその時から常に逃げます。
 最近、米津さんから紹介されて、ある方を会いに病因に何回か行きました。彼は癌を宣告されてホスピス病棟で過ごしている方でありますが、行きますと色々面白い話をしてくれます。私は彼の話を聞く事が、少しでも彼の為になるかなと思って行っていますが、色々此方が学ばされる事があります。彼は米津さんのご主人の会社の人であって、警備の仕事をしていましたが、この間、聞いた話を紹介します。彼は自分が警備員として真面目に働いたことをとても誇りに思っていますが、ある時は新しく入った若者と共に警備の仕事に着いたそうです。ところが、暫くするとその若者は退屈になったのか手にしていた旗を丸めてゴールフの練習をするような真似をしていたそうです。その方は誘導すべき車が何時来るのはいつも緊張して仕事をしければならないと思って一生懸命にしているのに、入ってきたばかりの若い人はそうでなかったそうです。それで、注意をした事があると言っていました。
 如何でしょうか。私たちも時々見かけるような風景ではありませんか。今、仕事をする時なのに野球のピッチャの真似をしたり、ゴールフの真似をしたりする人がいます。
 恐らくその人はゴールフに行きますと今度は仕事のことを思い出して、それを楽しむ事が出来ないだろうと思います。今を生きるのでなく、「過去の思い出を生きる」か、「まだを生きているか」であるからです。今を生きる事が出来ないと常にチャンスを逃します。
 伝道においても同じであります。まだ私はキリスト教を知らない。まだ私は教会をしらない。まだ喜びがない。あの人にはまだ福音を伝える時ではないなどといい続ける人もいます。これとは反対に、常に今がチャンスだと思う方もいます。
 時には自分の前にいる人が自分より幸せのように見えて、自分より大きく見えて伝道する必要性を覚えない事もあろうと思います。しかし、これも大きな間違いであります。私たちがもっている信仰は、聞いた福音は最も価値あるモノであります。最も大きなものであります。私たちの人間的な目で、自分より財産が多いので、自分より出世しているので、自分より幸せであって、喜びも多いだろうと思って躊躇うことは自らの信仰の価値を蔑ます事であります。イエス・キリストの言葉を自分の思いをもって切断し切断し、今や自分の手には小さい喜びもないと嘆くことと同じであります。
 私たちはもうすでにイエス・キリストによってこの世に勝っています。この世のすべてに勝る信仰をもっています。この世の如何なる喜びにも勝るモノでもあります。私たちには永遠の命があります。これは何とも取り替えることの出来ない喜びであり、価値であります。例え、この世のすべてを手にしても命を失ったなら何の益があるでしょうか。
 常に私たちには伝道の機会が与えられています。イエス・キリストは私たちに目を上げて畑を見なさいと命じています。今が刈り入れの時であると言っておられます。
 伝道はキリスト教の本質であります。伝道は教会にとって省略できない業であります。なぜなら、伝道は他人と私との関係の回復であるからであります。言い換えれば、伝道は私と人との間にある壁を取り除いて、互いが神様によって解放された者として向き合う為の業であります。
 キリスト教は自分だけが解放される喜びを味会うための信仰ではありません。教会が人ごみに出て行く所以であります。伝道の喜びを知って、イエス・キリストの名を人々に伝える事が出来る者は幸いであります。
 最後に韓国で流行っている言葉を一つ紹介して話を終わらせたいと思います。韓国でそのようなドラマ放映された後、この言葉が流行っているようでありますが、「首をたれた
男」と言う言葉がはやっています。男性が働いても働いても心から喜びを得る事が出来ないで、また、女性の位置が改善されて相対的に男性の居場所が狭くなて、家にいても、会社にいても常に無気力を覚えている男性が増えたことを現すような言葉であります。その言葉が多くの人々の心に響いているから流行っているだろうと思います。
 人は自分だけを見つめると絶望するものであります。また、この世の楽しみには限界があります。常に顔をあげて神様の言葉を聞き、また顔をあげて今、借り入れを待っている畑を見たいものであります。顔をあげて雄雄しく人々に近づき、福音を伝えたいものでありたいモノであります。