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「柔和な心で教え導き」(テモテ第二の手紙2・22〜26)
テーマ:『伝道』、人を選ばずに受け入れ、柔和な心でイエス・キリストを教え、導こう!
時:04.7.25. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
先週は私の兄の家族が我が家に来て一週間共に過ごしました。しかし、残念ながら共に一度も礼拝を守る事が出来ずに、今日、朝早く韓国に戻りました。兄の家族にはクリスチャンはまだいませんが、そのうち甥や姪の中で何人かは教会に行くと確信しています。
この間、共に食事をしようとするとナオミ(=説教者の長女、3歳)が「お祈りしようか」と言って、手を合わせると兄の子供達もナオミの真似をしていました。それで私が短く祈りをするとまた皆が「アメン」と言ってくれました。とても嬉しくなる一時でありました。
ナオミには食事の前に、祈りをするのは当たり前な事でありますので、祈りがないと食事ができないと思っているようであります。これからもナオミやヨハナ(=次女)に祈ること、感謝する事を忘れないように指導したい思います。これが私にとって何より大事な教育だと信じています。他のところで言った事がありますが、ナオミやヨハナが神様と人が好きになれば、彼女らの人生の半分以上は成功したと信じています。
皆が学生である子供を持つ兄夫婦は子供たちの入学で常に悩んでいるようでありました。口をあけるといつも何処の大学校、何を専攻にするのが将来に良いとかなどの話をしていました。この間も夜遅くまで子供達を交えて入試、塾、偏差値などの話をしていましたが、私は何も言わずに黙って聞いていました。一番上の姪はいわゆる名門大学の学生で、卒業すると間違いなく就職が出来ると言われています。そのような事で彼女はもうすでに卒業するとどの位の給料がもらえると予測を立てていました。気の早い話であります。教育とは何かと首を傾げざるを得ない場面であります。
そのような兄の家族でありますが、子供中には勉強が出来る子もいますし、出来ない子もいるようであります。考えて見ますと、兄家族だけでなく、子供の入試は韓国の普通の親の主な関心事であろうと思います。日本の場合もかなり似ているのではないかと思いますが、如何でしょうか。
先週のメッセージで西南学院大学の事を少し言及しましたが、西南学院大学の隣には有名な高校があります。名前を言わなくともお分かりと思いますが、多くの中学生の子供を持つ親は出来れば何とかしてその高校に子供を入れたいと願っているところであります。いわゆる「名門」であります。名門と言われる学校は勿論それだけではありません。かなりの大学校がそのように呼ばれています。また、時には幼稚園まで名門と言われるところがあります。
これも何時かのメッセージで申しましたが、聖書に出て来る「狭き門」と言う言葉は多くの場合、入試を連想させる言葉となっています。つまり、多くの人が激しい競争で勝ち抜いて狭き門を潜るのが出来れば、そこには誉れと良い仕事、出世などが保障されているから、その狭き門を必死になって通らなければならないと思っています。
日本においても韓国においても、名門と言う狭き門はこのように選ぶ為の、また選ばれるためのハドルであります。また、確かにそのようなハドルを乗り越える事が出来た人には他人より一歩も二歩も有利なスタートを切る事が許されるのであります。このようなモノがこの世の中での法則であり、また現実でありますが、教会の法則は如何でしょうか。教会も優れた人だけを選んで人を受け入れたり、また選ばれた子供だけに教育をすべきでありましょうか。決してそうではありません。
確かに、世間が言うように優れて学生を見つけることは教える人には喜びであろうと思います。昔、孔子は優れた弟子を集め教える事が君子の三大喜びの中で一つであると言いました。しかしそれだけではないはずであります。イエスは弟子達を優れてない人の中から選び育てました。知識のない漁師や罪人の頭とされている人を弟子として選びました。
誤解がないように申しますが、勉強を疎かにして良いという事ではありません。「主を知る事が知識の始まりである」という御言葉は「脱知識の宣言」でもなく、「知識への嘲り」でもありません。と言うより、主を知る事が知識の始まりというのはイエス・キリストの愛によって、すべての知識を統括すべきであり、また、これはすべての知識の基盤であるべきと言う意味であります。
話を戻しますが、この世の教育機関は人を一定の基準をもって選び、選ばれた者だけを受け入れますが、教会はそうではありません。教会は人を選ばずに、どのような人をも受け入れ、どのような子供に対しても、どのような人に対しても、例え、私たちに反対する人さえも受け入れ、イエス・キリストを教え導くのであります。
今日の個所の少し前を見ますと、聖書が人を如何見ているかを比喩をもって良く語っています。つまり、器には金銀で出来ているものもありますし、土や木で出来ている素朴なモノもあります。ところが、器とは、それを使う人がそれをどのように用いるかによって清いモノにもなり、卑しいものにもなります。
人も金銀の器のように才能が優れている人もいます、そうでない人もいます。ところが、そのような才能より、どのようにその人が用いられるかによってその人柄が決まります。例えば、素材が何であれ、器に花を活ければ花瓶になり、酒を入れれば酒瓶になるの事と同じであります。これを知っている教会はこの世とは違って、すべての人を受け入れ、すべての人に等しくイエス・キリストを教え導くのであります。
また、教会はこのことを知っていますから、例え、智恵や才能がない人を前にしてでも、決して用いるところがないとは言わないものであります。すべての人は用いられるために神によって造られています。
さて、今日の聖書の個所はパウロがテモテに宛ててテモテを良き教会のための器として導こうとしている個所であります。それで、テモテに必要な具体的な言葉となっています。
つまり、テモテは若かったので、まず、若さの故に失敗をすることを戒めてもいます。若さは素晴らしい事でありますが、その故に特に異性との関係から失敗をする事があり得るのであります。異性に目覚めた若者は「歩く情欲」のようなモノであります。この問題を指導するのは極めて難しい事であろうとは思いますが、常に関心を注いで健全な異性との関係が出来るように親と教会は指導しなければならないと思います。今日の個所では先ずこの事をパウロは信仰による息子、テモテに自分の情欲を注意するように勧めています。
異性の対しての戒めは昔からのすべての人々にとって関心事であったと思います。私たちも時々見かける場面でありますが、多くのイスラム教は女性の身を黒い服で纏わせるようにして強制的に互いの接近を遮断しています。これは女性の人権と関るような問題であると思います。その代わりに健全な男女の関係を作ることが出来るように注意深く指導をすべきではないかと思います。いずれにしても極めて困難な課題でありますので、そのような事を考慮しての指導が必要かと思います。
話が前後しますが、今日の個所が書かれた背景は当時に異端とされている人々が活躍している時代でありました。勿論、イエス・キリストの教えを捻じ曲げている人々は昔だけでなく今も教会の周辺にいます。
それで、パウロは若さの故に特に注意すべきことを先ず、書き記しては、今は23節で「愚かで無知な論議を止めなさい」と言っているのであります。つまり、異端的な教えをする人々と議論をして論破して見せると言うような意気込みは避けるように勧めています。
皆さんも同じであると思いますが、私にも異端的な教えに従っている人だけでなく、信仰をもっていない人とも話をする機会が時々あります。しかし、相手が議論を始める時であれば、簡単に、私の信仰体験や神学などを話をしますが、それを越えて私が自らそのような論議を始めることをしないようにしています。出来るだけ避けております。なぜなら相手は私から何かキリスト教について聞きたくて話を始めるのでなく、反対する為に話を始める時が殆どであることを知っているからであります。それよりそのような方といつも話が出来るような関係を維持しておくのが大事であろうと思います。また、例え、私から議論をしはじめて論破できたとしても、つまり、議論には勝ったとしても、その人を失う事を知っているから議論をするのは出来るだけ避けようとしています。このことは私たちの生活の中での口げんかにおいても同じであります。口げんかをして勝ったとして、その人との関係が旨く行くかと言えばそうでなく、逆にその人の関係はますます悪くなる事がしばしばあります。
兎に角、パウロは23節以下でテモテに異端との無益な議論を避けるように言いながら、25節では「反対する者を柔和な心で教え導くべきである」と矛盾するようなことを言っています。ですから、調和を計りながらここを読む必要がありますが、口論はしないで、その代わりに柔和な心をもって反対する者らにも、根気強く教え導くようにと言う意味で理解すれば良いかと思われます。
勿論、柔和な心をもって教え導くと言う態度は異端や私たちに反対する者と接する時だけ必要な戒めではありません。あらゆる人を導く時、必要な戒めであります。なぜなら、教会とは優れた人だけが集まるところでもなく、また、私たちの周りには私たちに常に好意をもって見ている人ばかりではないからであります。
ですから、私たちはむしろ優れた才能のない子供や私たちに反対する人々により力を注いで柔和な心で教え導くべきではないかと思います。
ある師匠と弟子の出会いを紹介します。昔の事でありますが、朝鮮時代の鄭若庸という人がいましたが、彼は政治的な謀略を受けて島流しにされましたが、島流しの地である青年に出会い、彼に学問を勧めます。するとその青年は自分には才能がなくて、智恵も無い事をもって学問に向いていないと答えます。
するとこの師匠はその青年に言います。智恵があって理解するのが早い人は軽くて、重みが欠け勝ちである。また、才能があって簡単に文を作る人の文には深みが欠け勝ちである。しかし、智恵と才能がなくとも、と言うより智恵と才能がないからこそ、繰り返し読みながら思索をすることによって、その人の思いと文には深みが出来、その広がりは大きくなるものだ。大事なのは努力であると励ましながら更に学問を勧めます。それで結局、
その青年は良き彼の弟子となって歴史に名を残す人物になりました。
才能があってその才能を容易く発揮する事を恥っている一人の詩人の詩を紹介します。韓国の詩人で、1940年あたりに活動をしていた尹東柱(1917〜1945)という詩人であります。彼クリスチャンであって信仰者の視線で自分とこの世を見ていた詩人でありましたが、紹介しようとするのは「容易く書けて詩」と言うタイトルの詩であります。1) 一部だけを紹介しますと「人生とは苦難が多いものであるのに、詩がこれほど容易く書けるとは、恥ずかしいことである」。私にはこの行を忘れる事が出来ません。彼には優れた才能がありました。その才能から容易く紡ぎだされる自分の詩を警戒していたと思われます。つまり、先ほど申しましたように才能があるが故に、深みが欠けた詩を書くのは世の人々に申し訳ないことだと自分を戒めていたのであります。
今の教育の現場は智恵と才能に優れた生徒だけを選び抜こうとして血眼になっています。それで、当然その教育の現場から追い出される子供も生じるわけであります。言い過ぎを恐れず言うのであれば、成績だけをもって人格までが評価されるような教育現場であります。このような世の教育の立場と私たちの教育の立場とは違います。
パウロは他のところ(第一コリント1章26節以下)でこのように言います。神は知者を辱める為にこの世の愚かな者を選び、強いものを辱める為にこの世の弱い者を選び、云々と言います。教会は喜んで才能のない人を選ぶところであります。智恵のないものを選ぶところであります。そして、神がそのような者を育てて下さる事を信じ、教え導きながら、また自分も教え導かれるものであります。
柔和な心をもって才能のない人であろうとも、また私たちに反対する人であろうとも教える事が出来るものは幸いであります。なぜなら、共に救われるからであります。神様が喜ぶ業であるからであります。これからも共にそのような業を担って行ければと祈っています。
1)説教者による全文の訳
窓の外では春雨が囁くが、六畳部屋は人の国、
詩人とは悲しき天命である事を知りながらも一行の詩でも書いてみようか、
汗の匂いと愛が染み付いた送金封筒をノートに挟み、年老いた教授の講義を聞きに行く。
思い出すと幼い友を一人、二人、すべてを失い
私は何を願ってひたすら沈殿するものだろうか。
人生とは苦難が多いものであるのに、詩がこれほど容易く書けるとは、恥ずかしいことである。
六畳部屋は人の国、窓の外は春雨が囁くが、
灯火を灯し闇を追い出し時代のように来るはずの朝を待つ最後の私、
私は私に小さい手を差し伸べ、涙と慰めとで握る最後の握手。
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