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「邪悪な時代の只中で」(ピリピ2・12〜15)
テーマ:『神の子』、私とこの世に平和をもたらすのは神からの平安である。
時:04.8.1. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
今日は嵐の中での礼拝になるのかなと心配をしていましたが、雨は少し降っていますが、嬉しい事にこのように静かな朝になりました。この天気のように私たちもこの礼拝を通して心が静まり返る事が出来ればと思います。
早いものでもう8月であります。この季節になりますとどうしても戦争の話が多く語られます。六日と九日に広島と長崎に投下された原爆をはじめ、他の戦争の悲劇を忘れてはならないと言う決意からであろうと思います。
しかしまた、多くの政治家は平和憲法を改正してでも日本を戦争が出来る国にしようとしています。民主党の岡田体表は国連が決意するのであれば、海外で武力行使をしても良いのではないかと意見を示して、アメリカの日本に対する期待に近づいたようであります。勿論、自民党の中にはより多くの人々がそのような意見をもっています。このように私たちは一方では戦争の悲劇を語りつつも、戦争のできる方向に動いているこの世の中を生きています。邪悪な時代の只中を生きていると言えます。
歴史において戦争のない時代があったでしょうか。些細なところまでは分からないとしても、私たちは戦争で明け暮れたのが人類の歴史であると言うイメージをもっています。
「ローマの平和」と言う言葉がありますが、これは紀元前27年アウグスツスと言うローマ皇帝が即位してから、約200年間ローマに戦争がなかったことをこのように言います。たった200年の間、戦争がなかっただけなのに、平和の記録として語られるほどであります。人類がどれ程戦争を繰る返して来たかは、これを見ても分かります。
人類は多くの知識を自然を観察することによって、または歴史から学ぶことによって獲得して来ましたが、平和に関しては何も歴史から学んだモノはないと思います。戦争や平和に関する限り、寧ろ、人類の歴史は後退している感じさえします。武器だけは発達しているのに、それをもっている人々の智恵は全くと言っても良いほど成長していないのであります。喩えで言えば、子供が機関銃をもって遊んでいるような様子であります。
今月は「神の子」をキーワードにして共に聖書から聞きたいと願っています。イエス・キリストは平和を作り出す人々は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろうと語っています。今月は特にこの世の平和の為に、「神の子」として如何生きるべきかを聖書から学びたいと思います。
聖書では「神の子」と言う言葉は度々登場しますが、その意味は常に一致しているわけではありません。大体四つの意味で使われています。つまり、超人的な人間を「神の子」と言う時があります。その次は信仰深いイスラエルの民と言う意味でこのように呼ぶ時もあります。そして、イエス・キリストの時代に入りますと、今度はイエスを「神の子」と言う事が多くなりますが、もう一つ、キリストを信ずる特権が与えられた者をこのように呼びます。兎に角、キリスト者を「神の子」と言うにはこのように聖書的な根拠がありますが、私たちがキーワードにしている「神の子」とはキリスト者の意味と同じであります。
私たちは「神の子」として神様を「お父さん」と呼んでいます。神様を客観的な存在として、距離を置いて「神様」と呼ぶだけでなく、私と親しく存在する方としてこのように呼ぶのであります。言い換えれば、私たちは創造主と被創造物としての神と人間と言う関係にあるだけでなく、父と子としての関係にあります。
それで、子供が自分の父を信頼するように私たちは神様の言葉を信頼するのであります。喩え、今は子供が父の話を理解する事ができないとして、父の話であるからと言う信頼の関係があるが故に、父の言葉に従って一歩踏み出す事が出来るのであります。
如何でしょうか、子供を育てる人は誰でも一回、二回は経験があろうと思いますが、やや高いところに上った子供が下を見下ろすと怖くなっては、自分の親に助けを求める事があります。そのような時には親は両手を広げて飛び込んで見るように言います。親を疑わない子供であれば、実際に親を疑って飛び込む事が出来ない子供は極めて少ないと思いますが、殆どの子供は親の言葉とおり飛び込みます。親が取ってくれないかも知れないと思わないからであります。私たちが神様を信頼すると言う事はこれに似ている事だと思います。神様の言葉を信じてそこから踏み出す事が信仰であります。
神の子として父なる神様の言葉に従う者は幸いであります。その人は神様にって守られるからであります。
さて、今日の聖書の個所はパウロによるピリピ人への手紙でありますが、ピリピ人々とパウロの関係はとてもよかったようであります。ピリピの人々はパウロの宣教活動を援助していましたが、事情があって一時その援助が中断されました。しかし、その援助を再開し、献金と共にエパフロディトと言う人を体表に立ててパウロに送ります。それで、彼は暫くパウロと共に働き、また投獄されているパウロの面倒を見ていましたが、病気になりピリピに戻る事になりました。その際にこの手紙を持参させて送ったわけであります。そう言う事もあって、このピリピ人への手紙は喜び感謝の気持ちでいっぱいであると言って良いと思います。
このピリピ書も獄中書簡と呼ばれています。なぜなら、年老いて囚われているのに獄の外に人々にパウロは喜びと感謝のメッセージを送っているからであります。これを見れば、獄の外にいるから自由であって、獄の中にいるから不自由で苦しみや苦悩だけと言うこの世的な方程式はイエス・キリストを信頼しているパウロには当てはまらないのであります。
パウロは今日の個所の少し後になりますが、有名な個所でありますが、4章4節以下で獄の中にいながら外にいる私たちに主の名において喜びなさいと命じています。私たちは喜ぶべきモノがないのに、喜ぶ条件は何一つないのに、「如何喜べ」と言うか聞き返したくなりますが、パウロはそのように呟く私たちに再び喜びなさいと命じます。
喜べる条件が整えられているのに喜べない人は一人もいません。また、そのような人に喜びなさいと命じる必要もありません。しかし、これは極めて人間的な思いであり、このような喜びは間もなく消え去るものであります。
時が良くても悪くても、常に神の言葉に聞き従いながら、神に信頼を置く神の子は人間的な目による条件に従って喜ぶのでなく、イエス・キリストにおいて喜ぶのであります。このことをこの書を通して、パウロが自ら示しています。
話を戻しますが、先ほど、私たちは平和に関しては人類の歴史から学ぶ事が出来なかったと言いましたが、そうであれば、私たちは何処から学ぶべきでありましょうか。今日の個所の13節が多くのモノを語っています。つまり、私たち、キリスト者は先に、歴史や
人間的な経験から聞くのでなく、私たちのうちに働きかけるイエス・キリストに聞き従わなければならないのであります。つまり、キリストに聞き従おうとする時、キリストが自らがよしとする願いを私たちに起こさせ、それを実現に至らせて下さるのであります。
私たちが先に思い巡らし、計画を練ってそれを実現しようと神様に力を貸して下さいと言うのでなく、先ず御言葉に無条件に聞くのであります。
私たちの心の平安やこの世の平和もこれと同じく、私たちが獲得するのでなく、私たち一人一人の内に働きかけるイエス・キリストによって与えられるべきモノであります。私たちの心に神様からの喜びと平安があって初めて真の平安を知る事が出来るからであります。
最近、皇太子妃の雅子さんの病気が話題になっていますが、私はその報道を見ながら人はやはり内部からの自由、内部からの平安がなければならないモノだなと思いました。すべてが整えられていて、多くの人々から尊敬され、愛されているかのように見えても本人の心には喜びと平安がなく、結局、そのような精神的な病気になったと思います。この事で外から与えられる条件によって心に平安が訪れるものではない事を知ることが出来ます。
もう一つ例を申しますと、曾我ひとみさんの夫、ジェンキンスさんを見ながら、私はどのような思いをもって北朝鮮で人生を過ごしてきただろうかとだろうかと思う事があります。彼はご存知のように韓国に駐屯していたアメリカの兵士でありましたが、北の方に逃走しました。何かの不満をもっていたか、自分が希望した理念や体制を求めての行動であったと思いますが、彼は一生追われる人生となりました。すなわち、平安のない一生であった思います。未だに何時訴追されるか分からない不安な状態に置かれています。自分が追い求め、獲得した喜びや平安はこのようなモノであろうと思います。
繰り返しになりますが、心の平安は自分の努力で獲得出来るものでもなく、また、外なる条件が整えられたから訪れるものでもありません。神様から与えられるものでなければなりません。
私は時々平和を訴える集会やデモに参加をしますが、戦いによって平和を獲得しようとする意図はありません。この意味では外観的には他の人々と同じ声をもって平和を訴えているように見えるとしても、その精神的な根拠は違うと思います。
何年か前に自衛隊の訓練場でアメリカ軍が訓練をする事に対して反対をする集会に行った事がありますが、ある人と話をすると私の思惑と全く違うと言うことを知りました。それは私だけと違うのでなく、そこにいる大多数の人々との思いとも違うと思いますが、彼がその集会に来ている理由はアメリカ軍が自衛隊の訓練場を使うことによって、彼は日本人としての自尊心が傷つけられた思い、この事に対して抗議していたのでありました。かなりの驚きでありましたが、勿論、そこに集まっていた大多数の人々は純粋に平和のためと言う視点でデモにきていたと思います。
しかし、更にそこにいる大多数の人々と私と違うところは、私は平和の為に戦うつもりはありません。獲得するためではありません。それより、すでに私に与えられている平和を分かち合いたいと言う願いが基盤となっていると言うことであります。
人の心の平安やこの世の平和は強要出来るものではありません。私がもっている平安をあなたに与えるからあなたは受け取らなければならないと脅かすのであれば、そこにはもうすでに平和はありません。
イラクとアメリカとの今の戦争を見ればそのような印象があります。アメリカが思う正義、アメリカが思う平和を無理矢理にでも植え付けようとして起こした戦争であります。
それで平和が獲得できたかと言えば全く反対の方向に行っています。ますます互いが憎しみあっています。国と国との戦いを越えて、キリスト教対イスラム教との戦いの様子まで広がっているように思われます。
話を纏めて終わらせたいと思いますが、私たちのクリスチャンは「神の子」であります。この告白には私たち一人一人が神様との人格的な出会いが許されたと言う意味でもあります。平たく言えば、多くの兄弟をもっている人であろうとも、父と自分とは一対一との関係にあります。すなわち、兄や弟の父ではなく、私の父であります。ですから、喩え、兄や弟が私とは違う神様からの声を聞いて、私と違う方向に行っても私は神様から直接聞いた道をすすむべきであります。兄がこう言うからこれが神様が示した道であると言うのでなく、自分が聞くべきであります。これによって私たちには神様と私との直接的な関係が生まれるのであります。
教会は時々戦争に協力してきました。これは悔い改めなければならない事でありますが、そのような過ちを繰り返さないためにも、私たちの信仰のあり方は如何であるべきかを真剣に問わなければならないと思います。教会の有力者達の声に従うのでなく、先ず神様に一人一人が聞き従うべきであります。
もう一つ確認したいことは、教会や私が平和を獲得するのでなく、また人間のあたまで作り出した制度ないし、政治による平和を軍事力で守るのでなく、神から与えられる平安をキリストへの信頼の中で守り、また、これを隣人と分かち合う時、平和がこの世に持たされるのであります。
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