2004年8月8日

「心を騒がせるな」(ヨハネ14・25〜27)
テーマ:『神の子』、聖霊が私たちにイエス・キリストの平安を教えてくれる。
時:04.8.8. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

 昨日は日本と中国とのサッカで多くの人々にとって更に暑くなった一日ではなかったかと思います。勿論、サッカを応援しながら楽しむのは大いに良い事でありますが、スポーツが国家という概念を上乗せた戦いに変質しては困った事だと思います。つまり、純粋にスポーツを楽む事が出来ずに、国家の威信を掛けての戦いになるのは困ったことで事であります。
 約一週の後にはアテネでオリンピックが開催されますが、オリンピックについても同じ事が言えます。全く実現可能性はないと思いながらも、私は時々、出来れば優勝者が属している国の国旗を掲げたり、国歌を歌ったりするのは止めて、優勝者が希望する歌を歌ったりするのが良いのではないかと思っています。もし、そうなった時、イエスが何かのスポーツで優勝すれば間違いなく賛美歌を歌いましょうと言うだろうと思います。
 先ほども司会者が読んでくださいましたが、今月の招詞はピリピ人への手紙から選びました。激しい言葉であります。この激しさを意識してあえて選んだわけですが、もう一回一部だけを読みますと、「彼らの最後は滅びであり、彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いはこの地上にある」と記されています。ここの「彼ら」とはキリストの十字架に敵対している人々でありますが、正にそうであります。神を呼び求めない者は自ら滅びの道を歩むしかないと思います。
 これに対してイエス・キリストと共に永遠の命を生きる者はこの地上に国籍があるのでなく、この地上はただ通り過ぎる所であります。私たちが永遠を喜び、永遠を生きるところは天の国であります。それに相応しく生きる者は幸いであります。それを教える為にイエス・キリストは十字架に架かり、復活をなさったからであります。
 昨日、私たちにとってはサッカより大事な行事がありました。教会学校の教師が中心になって夏期学校を催しましたが、例年より多くの子供達が来てくれました。工作をしたり、ゲームをしたりしながら楽しい一時を過ごしました。昨日の夏期学校が終わって子供達が帰った後、少しお茶を飲みながら話をしましたが、皆さんは本当に喜びをもって子供達を指導してくださった事を知ることが出来ました。私たちが喜びをもって蒔いた言葉が子供達の心で芽を出し、例え、すぐには教会に来なくともいつか教会に戻ってくることを信じています。これは私たちの信仰を後の世代に繋ぐとても大事な業であり、教会にとって欠かせない業であります。
 さて、今日の聖書の個所はイエスの遺言の一部であります。ヨハネ福音書13章1節から17章26節まではいわゆるイエスの決別説教と言いますが、言い換えればイエスの遺言であります。
 私はこの個所を読みながら自分は自分の子供達にどのような言葉を残してこの地上での最後を迎えるだろうか、自分の両親は私にどのような言葉を遺言として残すだろうかと想像をする時があります。如何でしょうか。皆さんも親御さんからそのような言葉を聞いたり、また後の世代の為にどのような言葉を残すかを考えて見た事がありましょうか。
 時には私たちの後の世代にどのような言葉を残そうか、それとも何を残そうかなどを考えて見るのも無駄ではないと思います。なぜなら、それは今を如何生きるかと言う問いと同じことであるからであります。
 話を今日の聖書の個所に戻しますが、イエスの前にいる弟子達は今、恐怖に捕らわれています。三年間、イエスの言葉のみを信じて、イエスのみを見上げて生きて来た彼らであります。このことによって彼らはユダヤ教の共同体から外されています。しかし、明日になるとイエスは十字架に架かります。これを考えれば、イエスが亡くなると彼らにはもはや、肉においても、精神的な面においても戻る所がなくなっています。このような恐怖に捉えられている弟子達を今イエスは慰めている場面であります。勿論、この決別説教には慰めだけでなく、他の事を教えたり、また、その場で弟子達の足を洗ってあげながら、「あなたたちもこのように他人につかえなさい」という場面もありますが、今日の個所は慰めているところであると言えます。
 ところが、イエスは怯えている弟子達にただ怯えるな、心を騒がせるなと言っているだけではありません。三つの約束をしています。すなわち、聖霊を送ること。そして平安を与える事。そして、今日の個所のすぐ後になりますが、戻ってくると言う約束であります。
 私たちの経験からでも分かる事でありますが、人がすでに恐れているのに、その人に向かって「恐れるな」と幾ら言っても無駄であります。それよりその恐怖に勝る何かを見せたり、恐怖に勝る約束が必要であります。
 その逆の場合も同じであります。一旦、恋愛の心に落ちた者にそれを止めさせるのは殆ど無理であります。その人にとってそれ以外にはそれに勝るモノがないかのように見えるからであります。
 今日のメッセージのタイトルを「心を騒がせるな」としましたが、今日の個所を良く見ますと心を騒がせない方法が示されていると思います。その方法の答えを先に言いますと聖霊を受け取る事であり、イエスが与える平安を受け取ることであります。また、イエスの再臨の約束を信じる事であります。
 この事を喩えで申しますと、私たちはある容器の中に空気がない状態を真空状態と言います。しかし、私たちは一つの瓶を真空の状態にする事は容易ではありません。ポンプで空気は抜き取る事は私たちの素人は不可能であります。しかし、瓶から空気を抜き取る全く簡単な方法が一つあります。その瓶に水を入れればその中にいる空気は全く外に押し出され、ゼロになります。真空になります。
 私たちの心には状況が変わることによって常に騒がしくなったり、他の感情に捕らわれたりします。時にはさほど意味のない事をもって喜び、傲慢になります。これを仏教では煩悩と言います。そしてその煩悩を自ら取り除こうと必死で修行をしたりしますが、これは瓶からポンプで空気を抜き取ろうとする努力に似ている事だと思います。それより、恐怖や未来にへの不安などで一杯になっている心にイエスが送ってくださる聖霊と平安を満たせば、そのようなモノは自ずと心の外に押し出されて行くものであります。私たちのクリスチャンはその信仰に立っています。
 私たちは律法が要求する行いをもって自ら自分の心に満足を満たすのでもなく、また、余計で邪悪な心を取り除こうとするのでもありません。それより、イエスの名と共に聖霊の助けを呼び求める者であります。
 イエスは今、弟子達に聖霊を約束しています。しかし、この聖霊は目に見えるモノでな
く、匂いがあるわけでもなく、手に触れるものではありません。では、聖霊とは全く実体のない虚しいものでありましょうか。ただ、荒唐無稽な観念にすぎないものでありましょ
うか。そのような疑問が起こる方がいるかも知れませんが、決してそうではありません。聖霊に満たされれば、具体的に私たちが感じ取れる現象が起こります。つまり、26節の後半に記されていますが、「聖霊をあなた方にすべてのことを教え、また私が話しておいたことをことごとく思い起こさせるであろう」となっています。
 イエスは十字架に架かり死んで、三日後には復活をしました。そして、再び、天に戻りましたが、約束された聖霊は送られました。その聖霊を受けてイエスの言葉や教えをことごとく思い起こされた弟子達が書き残したのがこの聖書であります。イエスの言葉と教えがこのように具体的に存在しています。そのような約束が実現されたからこそ、私たちもまた聖霊の助けを受けて、イエスを私たちの主と告白し、聖書の言葉に従っているのであります。
 時々、信仰生活を長くした方でも、神様の御旨を知ることが出来ないのでクリスチャンになっても依然として悩みや心の騒がしさが消えないと言う人がいます。これはどこかの誤解であろうと思います。イエスの言葉は明確であります。
 勿論、その言葉に聞き従いきれるか、従い切れないかと言う問題はあります。従い切れない時に、人々はイエスの言葉を分からないと言ってしまうのではないかと私は思います。確かに、従い切れない弱さは私たちにあります。しかし、それをもって分からないと言ってはならないことであります。聖書には部分的には理解に及ばないところもありますが、全体としては私たちが如何生きるべきかは明確に示されているのは確かであります。
 また、私たちの弱さの故に完全に御言葉に従い切れない事をもって心を騒がせてもなりません。ただ、私たちの罪深さと弱さを知り、聖霊の助けを求めればよい事であります。これによって方向を見失わないでイエスが良しとする道を歩む事が出来るのであります。世の思いと自分の弱さによって流されるのでなく、主が喜ぶ道を一歩一歩踏み出すことが出来るのであります。
 イエスは聖霊の約束のほかに弟子達に平安を与える約束していますが、ご自分が与える平安はこの世が与える平安とは違うと言います。
 先ほど申しましたように今日の個所はイエスの遺言であります。それも自然死を前にしている人の遺言でなく、訳もなく殺される事件による死を前にしています。と言うのは幾ら弟子たちに先生を失う不安があったとしても、彼らよりイエスの方がより厳しい心境になっているはずであります。普通であれば、弟子達がイエスを慰めなければならない場面であります。しかし、イエスが弟子達に平安を約束しています。
 ここで先週のメッセージを少し思い出して頂きたいですが、パウロは投獄されている状態で外にいる人々に平安であるように、また、喜びなさいと言っていましたが、イエスはパウロより厳しい状況でありながら、すなわち、十字架での死を目前にしながら、ご自分が今もっている平安を弟子達に残すと言っています。この世の平安とは違うことをここでもうすでに知ることが出来ます。
 この世の平安は金による平安であります。他人の私との間に高く壁を作りあげる事によって手に入れようとする平安であります。この世の平安は強力は武器による平安であります。この世の平安は物資による平安であり、人間の手による平安であります。このような努力よって人間は平安の法則を確立する事が出来たんでしょうか。
 パウロはイエスが約束した平安を受け取って人々に平安であるとように叫ぶ事が出来ました。イエスは今すべてを父なる神様に委ねることによって得た平安を弟子達に残すのだと言っています。イエスはこの世的な目からみれば、弟子達に御言葉以外に、何も残していません。お金を残した訳でもなく、この世の地位を残したわけでもありません。寧ろ、ある意味では彼らはイエスに今まで従ったことによって居場所がなくなっているだけであります。にも関らず、イエスは彼らに平安を残すと言うのであります。
 話が変わりますが、昨日夏期学校の準備をしながら、何人か方々と話をしましたが、その中で自分の子共に何を残すかと言う話題もありました。子供を迎える為に準備をしていたからそのような話になったかも知れませんが、その話の中で私はもし自分が天に召される時、お金が残ったとしても子供達には残さないだろうと言いました。これは前々から考えていることでもあります。それより、いつも信仰に生きる姿を子供達に残したいと願っています。私は別に他の遺言を子供達に残さなくとも良いと思っています。ただ御言葉と共に歩み続ける姿を残す事が出来れば十分であると思っています。
 お金はこの世を生きるための手段であります。物質はこの世を生きるための道具であります。それが決して生きる目標にはなりません。スポーツも交流のための手段であります。メダル自体が目標ではありません。メダル自体が目標であると言うのであれば、それは他人との交わりは取り除かれた言葉であり、相手の存在を見出す事の出来ない決意であります。
 私たちは「神の子」であります。他の言い方をすれば、神様との関係を回復し、神様の言葉に生きる者であります。この世が与える平安を求めながら生きるのでなく、神様が良しとする道を歩もうとしている者であります。この世が与える喜びを追い求めるより、聖霊に満たされることを願いつつ歩む者であります。聖霊が私たちを平安と共に良いところに導いてくださることを知っているからであります。