2004年8月22日

「アバ、父よ」(ローマ書8・12〜17)
テーマ:『神の子』、私たちは天の父に果たすべき責任がある。
時:04.8.22. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

 昨日の夜、私たちはドイツから戻って来ました。長旅でありましたので、体は疲れていますが、心はホッとしています。心はこのようにホッとしていますが、まだ体はまだ心について行けないようであります。明日、昼にでも博多たラーメンを食べに行こうと思いますが、豚骨ラーメンが体も博多に着いた事に目覚めさせてくれると思います。
 私がドイツに行く前にミヒャエラから何回か電話がありました。その中で一回はナオミがパパに会いたいと言いながら泣いているので、話をしてくれるようにと言う事でした。それでナオミにパパも間もなくドイツに行くから少し待ってくれるように言いながら宥めましたが、親と言うモノはそのような電話だけでも非常に嬉しくなるものであります。神様も私たちがこのように礼拝と賛美をもって呼び求めることを喜んでいらっしゃると信じています。
 私は今も子供に「お父さん」と呼ばれるだけでも非常に感動をする時があります。つまり、この呼びかけと共にふと自分がこの子のお父さんなんだと改めて考えたり、どこかまだ親になっていないような、自分は子供たちの親である事にまだ慣れていないような不思議な気分に捕らわれる時があります。「お父さん」と言う言葉はこれほどいつも新鮮で重みがあると思います。勿論、「お母さん」と言う言葉にもそのような力があると思います。
 昨日、私たちが福岡に下りて家にタクシーで帰る途中で、色々ドイツであった事を話しましたが、その中でナオミが今度はもう一人のおばあさんに会いたいと言っていました。韓国にいる私の母の事でありますが、どうやらおばあさんが日本にいる間もそうでありましたが、ドイツでは特に、おばあさんが自分に親切にしてくれたから、「おばあさん」とはそのように親切にしてくれる存在だと覚えたようであります。確かに、私たちが駄目だと言ったこともおばさんはやってあげたりしていました。
 考えてみれば、ナオミにはこのように「もう一人のおばあさん」と言う選択肢がありますが、親子とはそうのような選択肢が残されていない決定的な関係であります。ですから私たちが、喩え、どんなに厳しくナオミにあたってもナオミが「他の親が欲しい」とは言えないし、また親としても子供に対して最後まで責任を取るモノであります。親子関係はこのように互いが切り離せない責任関係に置かれています。
 普段はナオミは私に「パパ」と呼んでいますが、たまに、皆さんの真似をして「黄先生」と呼んだり、ミヒャエラの真似をして「インゴン(=仁坤)」と呼ぶ時があります。私は面白くてけらけら笑いますが、ミヒャエラはすぐに「パパだよ」と訂正をします。確かに私はナオミとの関係はどのような関係より親子と言う関係が緊密でありますので、「パパ」と呼ばれるべき人であります。
 ところが、「所変われば品変わる」と言う言葉がありますが、ドイツでは親しくなると人を名前で呼びます。例えば、私がミヒャエラの母にも呼び捨てで名前で呼びます。私には始めにはかなりの心の抵抗がありましたが、今は少しはそのような呼び方に慣れています。そのような文化があるからだと思いますが、ドイツではある親は自分の子供に名前で呼ばせている変わった家庭があるそうです。これには個を中心とする西欧の価値観も働いていると思います。すなわち、幾ら親子と言う関係にあろうとも互いが独立した一人一人の人格であると言う意識が重んじられるからこそそのような発想が出来ると思います。しかし、一般的な家庭では「パパ、ママ」呼んでいるそうです。「パパ、ママ」という言葉はもうすでに関係が前提されている呼び名でありますが、私たちには信仰によって創造主なる神様を決定的な関係の中にいる方として、互いが責任をもっている関係であると言う前提の下で神様を「父なる神様」と親しく呼んでいます。今日のメッセージのタイトルにもなっていますが、「アバ、父よ」と言う呼び方にはそのような親しみが込められています。
 さて、今日の聖書の個所はローマにいるキリスト者に送られた手紙であります。これからキリストと共に永遠の命を生きるように勧めるているのでなく、もうすでにイエスを信じている人々に送っている手紙であります。しかしながらパウロは13節で「もし、肉に従って生きるなら」と言っています。信仰者であると自負しながらも、霊に従って生きるのでなく、肉に従って生きる事を警戒しています。
 この個所を読みながら、一寸気になるところがありました。つまり13節で「もし」と記されていますが、信仰者であると自負している人に向かって「もし肉にしたがって生きるのであれば」と条件文で尋ねれば怒られるかも知れないと思ったからであります。
 それで、先ず、私たちの信仰がどのようなタイプに属しているかを心の中でそれぞれ確認して見たいと思います。信仰者を四つのタイプに分類できますが、始めに、聖霊によって生かされながら、教会に来ている方、このタイプが最もイエスが臨んでいる信仰者であろうと思います。また多くの方がこのような信仰生活をおくっているところであります。次は、聖霊に生かされていると自負しながら教会には来ない人、このような方は教会に行けば煩わしいから、静かに聖書を読み、祈りをし心静かに過ごすのが一番だと思うタイプであろうと思います。確かに一理ありますが、教会抜きの信仰は虚しいモノであって、観念に過ぎない信仰であります。神様と他人との具体的な関係に生きるのがキリスト信仰であります。次は、聖霊は知らないが教会に来る方もいます。このような方には教会は一つの共同体であってこの共同体は自分にとっても、この世にとっても有意義であると言う意識が強いと思います。しかし、キリスト教はこの世的な、人間的な思いで造った理念を掲げている共同体ではありません。イエス・キリストの霊によって結ばれている共同体であります。最後に、聖霊も知らないで教会も来ない人がいると思います。要するに不信者であります。皆さんは何処に属しているでしょうか。最後のタイプの方はいないと思いますが、答えはそれぞれあろうと思います。吟味して頂ける機会となればと願います。
 話を戻しますが、パウロは今日の個所で人間を二つのタイプの分けています。つまり、「肉に従って生きる者」と「霊に従って生きる者」とにわけています。肉に従って生きる者は死ぬが、霊によって肉を殺す者は生きる者であって、その者は神の子であり、その人は神様を「アバ、父よ」と呼び求める事が許されていると語っています。この「アバ」とはアラム語で、「パパ」ないし「父ちゃん」と同じニュアンスの言葉でありますが、幼い子が自分の父を「ぱぱ」、「父ちゃん」と親しく呼び求める如く、私たち神の子は神様をこれと全く同じ心で呼ぶことが許されています。
 私ととても親しく過ごしていたある牧師の話を紹介します。彼は幼い時に父と別れなければなりませんでした。事情は更に悪くなって、母とも別れて母の妹の手によって育てられました。早い話、幼い時、親のない子供になってしまったわけです。それで、回りの友達は皆自分の母を「ママ」と親しく呼んだり、父を「パパ」と親しく呼んだりしているのを見るとふと悲しくなって泣いたりしていたそうです。なぜ、自分にはパパとママがいないんだと恨んだりもしたそうですが、その子供の気持ちは私たちは容易に想像する事が出来ないほどつらいものであっただろうと思います。
 彼は幸いにも信仰が与えられ、教会に行くことが出来ました。そこで彼は初めて神様に向かって大声で「アバ、父」と泣きながら呼ぶことが出来たと言っていました。その時、彼は初めて長年の悲しみから大いに解放される事が出来たと言っていました。自分にも目には見えないけれども親しく呼び求める「天の父」がいる事の喜びを分かったと言っていました。
 イエスは神様を「アバ、父」と呼んでいました。イエスの気持ちも今紹介した証と相通じるところがあるのではないかと思います。イエスはまだ結婚していないマリアから生まれました。これは想像でありますが、イエスの父ヨセフがイエスを大事に育てましたが、互いがどこか血の繋がっていない寂しさを覚えていたと思っています。このように想像しているのはいつか申しあげた事がありますが、イエスの父、ヨセフは福音書の中では影の薄い存在であります。勿論、イエスが幼い時は積極的なヨセフの父ぶりもありますが、段々名が上げられなくなっていきます。この事はそのような寂しさを暗々裏、物語っているかも知れません。
 これはルカによる福音書に記されていますが、イエスがまだ幼い時、マリアとヨセフと過ぎ越しの祭りに参加する為にエルサレムの神殿に行った事がありますが、イエスを神殿に忘れて両親を帰宅の途について後でこの事に気付いた両親は慌ててエルサレムに戻り、イエスの探す場面があります。そこで、イエスを見つけては叱っては連れ戻そうとするとイエスは両親を前にして神殿をご自分の父の家であると言いました。もうすでに天の父へと目覚めているのであります。イエスはその時から常に神様を「アバ、父」と大きな声で呼び求めつつ祈りをしていただろうと思います。
 イエスが神様を「アバ、父」と親しく呼んでいた事を当時のユダヤ教の指導者達は神を恐れない行為として考えていたようであります。しかし、イエスは神様を「アバ、父よ」と呼ぶ事をやめようとしていませんでした。このような事もあってイエスは十字架につけられましたが、イエスによって多くの者もまた神様を父なる神様と呼ぶ事が許されましたが、また、このことによって多くの者が迫害され、殉教までもが強いられて来ましたが、にも関らずキリスト者はその呼称を辞めようとしません。
 なぜなら、この呼称はただ創造主なる神様が摂理や原理として、私たちの外に存在する方でなく、神様と私たちの関係は具体的で、人格的な出会いであって、私たちの内部から働いてくださる方であると告白と一致するからであります。
 また、これは天地を創造され、御子イエス・キリストにおいてその愛を現して下さったその神様は他の如何なる「神」という名によって呼ばれている神とも置き換える事が出来ない神様であると言う告白でもあろうと思います。
 私たちがこのように呼び求めることは、勿論、私たちが「神の子」であると告白でもありますが、これによって私たちが神の相続者でもあります。パウロはこのことを踏まえながら、17節で「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難を共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」と語っています。
 パウロは当時の法律にも詳しい人であると印象を私はもっていますが、相続とは被相続者の法律的な地位を受け継ぐ事であります。平たく言えば、親の財産も負債をも共に担うことが相続であります。財産だけを貰うのが相続でなく、その負債に対しても責任をに担うであります。そのような地位を受け継ぐ事が出来なければ、相続者としての地位を放棄する意思を表示しなければなりませんが、このようにこの世の相続においても自分は相続者であるから財産だけを頂きたいと言うのは出来ないのであります。
 これと同じく、私たちはイエス・キリストと共同の相続者であるから、言い換えれば、私たちは永遠の命と言う栄光が与えられているから、これに伴う責任も果たすべきであります。責任とは何かを今日の個所の言葉を借りれば、肉に従って生きるのでなく、イエス・キリストの霊に従って生きる事であります。再び恐れを抱かせる肉の奴隷に留まるのでなく、すべてから自由にして下さるイエスの霊に従うことであります。
 イエスに従うとは時にはつらいこともあります。時には肉の目で見れば、理解できないこともあります。と言うより、心ないし魂では分かっていても肉による欲や恐れの為に従う事が困難な時があると言った方が正しいと思いますが、兎に角、霊に従うことは容易いことではありません。私たちはその道に導かれているのであります。イエスの栄光と苦難を共に受け継ぐ地位に置かれているのであります。これからもこの信仰の道を共に歩むことが出来ればと願っています。