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「王の前で」(箴言22・29)
テーマ:『神の子』、クリスチャンのすべての業は父なる神の前で行われる。
時:04.8.29. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
ご覧になりますように、今日は主の晩餐式が用意されていますが、この間の金曜日に掃除が終わった後、奉仕委員会がありました。そこで、少し主の晩餐式に関る問題についても話し合われました。つまり、主の晩餐式の後、残った葡萄汁とパンを如何すべきかという問いでありました。それで、先ずこの事を共に考えて頂きたいと思いますが、もし、今日のこの場で答えを出すのは保留してゆっくり吟味して見ても良いかと思います。また、私の意見に反対をする方がいれば、何時かの機会にそれを教えていただければ幸いであります。
カトッリク教会ではミサに用いられるパンと葡萄酒は聖なるモノとして定められていますから、ミサが終わったとしてもこれを棄てる事は、勿論、許されませんし、聖職者以外には食べてはならない事になっているようであります。しかし、私たちのプロテスタント教会の殆どは何かの「モノ」自体が聖なるモノであるとは考えません。例え、礼拝堂も「神殿」や「聖殿」でなく、礼拝を捧げ、祈りをし、聖書を学び、兄弟姉妹が交わりをもつための「建築物」であります。これと同じく、パンや葡萄酒自体が聖なるモノという発想もないと言って良いと思います。
礼拝堂やパン、葡萄酒に限らないで、一般論として言える事でありますが、どのようなモノであれ、それが主の御旨が表れる為に、聖なるモノとして用いられる時、それが聖なるモノであります。ですから、礼拝堂が戦争の為に用いられるのであれば、それは軍事施設であり、礼拝などの本来の目的の為に用いられる時、聖なるモノであります。もし、聖職者だと言われる人であれ、銃をもって戦いに出るのであればそれは軍人であって、もうすでにイエス・キリストの業の為に用いられる人であるとは言えないのであります。
更には、聖なる書物と言う意味で聖書には「聖」と言う字が冠せられていますが、と言ってこの書物と言う物体が聖なるモノではなく、聖なる言葉として用いられ、神の言葉として聞く時、聖なる書物であります。例えば、自分の利益や、世俗的な思いを裏づける為に一箇所の言葉が歪められて用いられるのであれば、その人にはもうすでにそれは聖なる書物ではないと思います。
繰り返しになりますが、パンと葡萄酒自体が聖なるモノでなく、イエス・キリストが私たちの食卓を共にして下さると言う信仰の下で主の晩餐式が行なわれ、また、それを私たち一人一人が恐れをもって厳かにそれを口に運ぶ時、それが聖なるパンや葡萄酒であります。それで要するに、私の信仰としては主の晩餐式が終わってもそれが一旦聖なるモノであるが故にそれを決まった人だけが口にする事が出来るとは思いません。
もう一つ因みに申しますが、私たちの教会の主の晩餐にはバプテスマを受けた方だけが参加する事が出来ますが、先ほど申しましたような主の晩餐の意味を心得ている人であれば、喩え、バプテスマを受けていない人でも良いのではないかと私は個人としてはそのように理解をしています。しかし、これは牧師一人で決める事が出来ることではありません。教会としての信仰告白、私たちの信仰体験など多くの事や意見を考慮しながら決めなければならない事であります。
もう一つ申し上げたい事でありますが、この間の金曜日の奉仕委員会で色々な話を互いが言うことが出来た事を私は非常に良かったと思っています。互いの神学ないし信仰体験に基づいての話し合う事はとても大事であります。勿論、私たちが幾ら語り合ってもそこから全く新たなる方針や理解を確認する事が出来ない事はあります。つまり、「復活をなさったイエス・キリストが私たちの主である」と言う告白であります。言い換えれば、証や神学は色々あっても私たちの信仰は一つであります。それ以外については色々自分の意見をドグマ化しないで、すなわち、絶対化しないで、互いの意見や思いに耳を傾けながら語り合うのは大事な業であります。
そのように互いが語り合い、理解しあう事が認められない事となりますと、私たちが到底受け入れる事の出来ないエホバの証人と同じあり方になってしまいます。つまり、彼らはニューヨークの本部にいる一部の指導者が解釈した通りしか聖書を読む事が出来ませんが、こうなりますと、御言葉が一人一人に生かされて行くのでなく、固定化され、動きも息もない死んだモノとなってしまうのであります。このようなことをも踏まえて、これからも聖書や教会のあり方などを語り合う機会があればと期待しています。
もう前置きは長くなりましたが、今日の聖書の個所は箴言であります。「箴言」は信仰者が生活の中で心得ておくべき智恵ないし格言を集めた書物であります。それでその内容は極めて具体的であり、時には倫理的であります。私たちの生活や経験から考えてみてもすぐ納得の行く話が殆どであろうと思います。また、この箴言は知恵文学の一つでもあるといわれていますが、なぜなら、この箴言は信仰者だけでなく、人間がこの世界の中で賢く生きていくために必要な実践的な智恵であると言う意味でそのように呼ばれているだろうと思います。
信仰者はただ「ハレルヤ」、「アメン」、「信じます」と叫ぶだけでなく、具体的な生活の面においても賢く、智恵ある者として行動しなければならないと思いますが、箴言はその為の内容が主であります。
この事を山登りに喩えますと、私たちは山を登る時、二つの事に注意しなければなりません。すなわち、先ず、足下を注意しなければなりません。もう一つは、目的地にたどり着く為の道しるべにも注意しなければなりません。先週も申しましたように私は夏の休暇の間、山登りをしましたが、険しい山でありました。一歩踏み外すと大惨事になりかねないほどでありました。ですから、足下にも非常に気をつけなければなりませんでした。しかし、それだけで安全が確保されたとは言えません。私にはその道を良く分からない山でありましたが、間違った道に入ってしまえば迷い、酷い場合には遭難にもなるモノであります。つまり、足下に注意をするだけでなく、時には目を上げて遠くを正しく目指しているのか如何かをも確認しなければならないことであります。ところが、箴言は信仰者の足下の為に心得ておくべき事が語られています。それでその内容が具体的であります。
私たちは自分が度々行く山道であって良く知っている道であれば、さほど足下にも、道しるべにも気を配らなくてとも良いですが、私たちの人生の道程はそうではありません。毎日が昨日とは違う新しい日であります。また、長いスパンで見て、果たして自分の人生の方向が正しく設定されているのであろうかと不安になる時もあります。
しかし、私たち信仰者は死の向こう側にまで延びている永遠の命と言う最も遠くまでを見つめつつ歩むことが許されています。また、箴言のように日頃の生活についての智恵が示された御言葉をも親しく読む事が許されています。信仰者は幸いであるという所以であります。
今日の聖書の個所は短いので全体をもう一回読みますと「あなたはその業に巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つが、卑しい人々の前には立たない」となっています。
巧みな業をもっている人の仕事は偉い人によって認められ、用いられるという意味であります。私たちの生活の周辺を見てもそれは分かる話であります。今も時々、自分の商品が優れている事を宣伝する時に、天皇に、また誰々に献上したことのある品であると宣伝文句を掲げます。これは何処の国も同じだろうと思います。韓国でも何処の地域で取れた米が、何処の窯で焼いた陶器が昔の王室に納められていたなどと聞く事が出来ます。勿論、そのような品は最も優れていて誠意が込められた品であったはずです。
世界で食べ物が発達している国は多くの人がフランスや中国であると認めるところでありますが、そのように食べ物の文化が発達した背景には長く、続いた皇帝制もあるだろうとも推測されています。すなわち、皇帝やその皇族、そしてその周辺にいる人々に飽きずに、美味しく食べてもらう為に、様々な工夫を重ねてきた結果そのような文化が発達されたと推測されています。
そのような美味しいものではありませんが、今日は主の晩餐の為に用意されているパンと葡萄汁は素朴であります。でも主の共にして下さるから、私たちの心と魂にとってはとても美味しいものであると信じます。
もう少し食べ物に関る話をしますが、私の親戚の中でとても料理の上手な方がいました。その事が親戚の間でうわさになるほどでありました。私も訪ねて食事をすることもありましたが、うわさの通り、とても美味しく料理をし、また器に非常にこだわっていました。ところが、そのおばさんは自分の主人が亡くなると、全く料理にこだわらなくなってしまいました。何でも冷蔵庫のモノを適当に取り出して食べるようになり、簡単に出前を取って食べたりしていました。愛する夫がないから料理をする甲斐もなくなったのです。
今日の個所に話を戻しますが、食べ物に限らず良い業をもっている人は王の前に立つことが許されます。王の為に服を作ったり、宮廷を立てたり、家具などを作る為に王に呼ばれて王の目の前で仕事をする事もあろうと思いますが、そうなりますとその人はますます緊張の中で誠意を込めて最善を尽くし、その業を発揮するのであります。そのような人は更に巧みな業へと向上されて行くものであります。
これに似た例でありますが、オリンピックに出た選手たちは厳しい審判の目の前で、また世界中に放送されるテレビのカメラの前でその業を披露します。その為に自分の業を磨いてきたと言うのが良いかも知れませんが、兎に角、そのような磨かれた業がは々に感動を与えてくれます。
ナオミは時々自分なりに難しそうな事や新しい事が出来た時は、いつも「パパ、見て」、「ママ、見て」と私たちを呼びます。おそらく幼稚園では「先生、見て」と叫んでいるだろうと想像しています。また、大きくなって彼氏でも出来たら今度は彼氏の名前を呼びならが「見て、見て」と強請る事は間違いないと思います。
如何でしょうか、今日の個所は王の前に立つ業ある人が語られています。また、このことの似たような例としてオリンピック選手やナオミの事を申しましたが、人はこのように誰かの前に立たなければならないし、また、誰かに認められたいと言う避けられない願望をもっています。ところが、私たちの信仰者は究極において誰の前に立って、誰に認められたいと願うべきでありましょうか。この世の権力者である王でありましょうか。この世間の目の前でありましょうか。それとも自分夫や妻などの家族でありましょうか。
答えはもうすでに皆さんの心にあると思いますが、私たちの信仰者の業や心は常に私たちの主・イエス・キリストの前にあります。私たち心、言葉、業が愛するイエス・キリストに認められたいモノであります。
今日のメッセージのタイトルをいつもの事であるから、さほど悩まずに、聖書の個所の一部をとって「王の前に」としましたが、後になって私の思いが至らなかった事を後悔しました。つまり、「王の前に」より「主の前に」とした方が良かったのにと思いました。常に主なる神の前で生きる者が「神の子」でもありますが、私たちの信仰者は先ず神の前に立つ者であり、神と共に生きる者であります。
教会は多くの奉仕が必要であり、現に皆さんの一つ一つの奉仕によって成り立っていますが、そのような中で良く耳にする事でありますし、私も同意しますが、教会の奉仕には上手、下手の問題より、その心が問題であります。つまり、神の前に立つ者して奉仕をするのか、どうかが問題であります。ですから、たとえ奏楽の場合、上手だから或る方にしてもらいましょうと言う事ではありません。
勿論の事でありますが、私たちは教会の中での業は神の前で行い、教会の外での仕事や人間関係は人の前でするような二重のスタンスの生活をする者ではありません。この世のあらゆる業においても、私たちの主なる神の前で行なう者であります。
すべての業において恐れと誠意をもって神の前で行なう者は幸いであります。そのような人は何れか必ず、神からも、人からも認めら、褒められるからであります。
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