2004年9月12日

「甘い御言葉」(詩篇119・97〜104)

テーマ:『御言葉』、信仰者にとって御言葉は生きる力であり、喜びである。

時:04.9.12 於:和白教会 説教者:黄仁坤

私たちは時々近くのうどん屋に行っておりますが、この間はうどん屋に入るとビートルズのyesterdayが流れていました。何時もであれば日本伝統の楽器による音楽や日本的なメロディの歌が流れますが、その日はなぜか西欧風であって、少しうどん屋の雰囲気には似合わないと思いました。しかし、色々昔、自分が口ずさんでいた歌などをも思い出す切っ掛けとはなりました。と言うのは、私も青年時代にはビートルズが大好きで、良く夜遅くまで聞き入って、寝不足のまま登校したりしていた時代がありました。そう言う事がありまして、今でもyesterdayであれば、歌詞や楽譜を見ないで自分なりに歌える曲の一つであります。名曲であると思いますし、好きな曲であります。

また、私は日本に来る前から加藤登紀子さんの歌が好きでした。彼女の歌の歌詞が先ず、とても詩的であると言う事もありましたが、何より、何処か知的に聞こえる、甘い声が好きでした。その時は録音したテープを友人から頂いて聞いていたので、彼女の顔を写真で見る機会がありませんでした。それで、勝手にとても美しい顔であろうと想像していたりした事もありましたが、日本に来てテレビで見たら自分が想像していた顔ではないと思ったりして苦笑いをした記憶もあります。しかし、今も彼女の歌がとても好きです。

もう一つ、忘れる事の出来ない歌があります。坂本九さんの「上を向いて歩こう」と言う歌であります。これは私が東京にいる時、とても苦しくなって、良く泣きながら夜道を歩いていましたが、その時、時々歌っていました。今は昔みたいに聞く時間もなく、歌う機会もあまりありませんが、この曲も名曲であると思います。

おそらく、皆さんの中でもかなりの方が賛美歌以外にも好きな歌があって、時には口ずさんだりしているだろうと思いますが、なぜ、人は好きな曲が各々あって、その好きな曲を繰り返し聞いたり、歌うのであろうかと考えますとやや不思議な感じがします。すなわち、人は常に新しいモノや事が好きで、それを求めて冒険をしたり、また様々な形で投資をし、新しいモノを得ようとします。新鮮な刺激が欲しいからであります。

しかし、好きな歌となりますと歌詞はいつも同じ内容でありますので、新鮮というより、繰り返す内に陳腐にまでなっていくものであります。しかし、人々は一旦好きになりますと飽きずに繰り返し聞き、歌い続けます。時には時間と金を出してでも、その歌手を追っかけたり、様々なバージョンのテープを集めたりもします。

このことについて心理学的な答えは出来ませんので、あくまで推測でありますが、メロディの良し悪しもありましょうが、もう一つ特定の歌が好きになると言うのは、きっと自分の感情を移入しやすい歌が好きになるのではないかと思います。また、その歌の歌詞が自分の感情や境遇を代弁でもしてくれるような歌になりますと、それを繰り返し聞くようになり、また歌うたびに、自分の悲しみや苦しみ、その他の感情をその歌を通して表現ないし発散できるところから、一人一人の愛唱の歌になっていくのではないかと思います。

ところが、私たちの信仰者が聖書を読むのもこれに少し似ているところがあります。すなわち、私たちは同じ御言葉を繰り返し聞いているが、それに飽きるところか、聞くたびに感動を覚え、自分の内面に響いてくるのを知るわけであります。勿論、流行歌は私たちの感情に訴えますが、言い換えれば、私たちの心の表面を掠るような働きをします。しかし、御言葉は心の奥、つまり、魂に響きますので、そのような深さないし重さにおいて両者は別のモノでありますが、その繰り返し聞きながら飽きないと言う仕組みにおいては似ていると思っています。

さて、今日の聖書の個所は詩編であります。この詩編は信仰者の歌であると言って良いと思いますが、特に詩編の中でも今日の119編は繰り返し、暗誦する為にという言うか、暗誦させるために、作られたモノであります。今日の個所の始めにカタカナで「メム」と書かれていますが、これはヘブライ語の13番目のアルファベットの名前であります。今日の個所の一節一節はこのメムが頭になっている単語で始まっています。つまり、一節毎に始めの部分の語呂を合わせて作ったわけであります。なぜそのようにしたかと言えば、語呂によって覚えやすくし、それを常に口ずさむ事が出来るようにしようとしたからであります。例えば、羊を追いながら、家事をしながら、農作業をしながら、時には戦場で戦いをしながら、厳しい時であろうとも嬉しい時であろうとも何処でもそれを思い出しそれを口ずさむ事が出来るようにわざわざ語呂を合わせ、覚え易くしたわけであります。

119編は詩編の中でも最も長い詩でありますが、全体を貫く主題は律法であります。ここでの律法とは人を裁くための基準という意味より、御言葉という意味として使われている言って良いと思います。それは今日の個所を読んでみても、そのように理解しても無理のないことが分かります。

今月は「御言葉」をキーワードにしてメッセージをしていますが、今日の個所の作者は97節で掟、すなわち、御言葉を愛していると告白しならが、常にこれを心の深いところに留めておくという旨を詠っています。また、最後では御言葉は蜂蜜より口に甘いと告白しています。

御言葉は恋人であるかのように愛し、また当時の美味しさの象徴でもあったはずの蜂蜜より甘いと歌っていますが、正に詩的な表現であります。しかし、これらはただ詩の表現として美しく伝えるための修辞的に用いられたとは思いません。これは彼らの生活の中で得られた信仰の言葉であります。それをこの詩編の作者達は自分らの後の世代の人々が常に口ずさむ事が出来るように語呂合わせと言う工夫をしながら作ったのであります。つまり、自分らの子供や孫たちに出来るだけ容易く暗誦させる為に作ったのであります。

自分の子を偽る人はいませんが、詩編の作者達は彼らにとって最も真摯で良い御言葉を蜂蜜のように甘いと表現をもって自分達の後の世代に勧めたわけであります。ここでの「蜂蜜より甘い」と言う表現は私たちも知っています。つまり、私たちの感情や信仰とも一致する言葉であります。ですから、私たちも聖書を繰り返し読みながらいつも新しい喜びや慰めを覚える事が出来るのであろうと思います。

私の事でありますが、今も時々、根拠のない不安や悲しみ、また葛藤などを覚える事があります。きっと昔であれば、まず、音楽を聴いたり、友人と話し込んだりしながら、そのような時が過ぎるのを待っていたと思います。しかし、今はやはり聖書を読んだり、ゆっくり散歩をしながら、御言葉を思い出して見たり、また初めて教会に行き始めた時の喜びなどを思ってみたりしています。これが正に私には慰めの言葉であり、希望の言葉であります。何より美味しい言葉であります。

話を今日の個所に戻しますが、先ほど言いましたようにはじめに作者は御言葉を愛していると告白し、最後において御言葉は甘いと歌いながら締めくくっていますが、この二つの枠に挟まれている真ん中あたりを良く見ますと、内容的に大きくは二つに分ける事ができます。すなわち、98節から100節までを一区切りにし、101節から102節までを一区切りにしています。101節から102節では、御言葉から離れないで常に共に歩くと言う作者の決意が示されています。

今日、特に注目したいところは前の98節から100節まででありますが、98節では御言葉は敵よりわたしを賢くすると歌っていますし、99節では全ての師より、私に智恵を与える御言葉であるという言っています。そして、100節では御言葉は老いた者よりあなたにモノごとをわきまえさせると言っています。それぞれ象徴的な素材の言葉が用いられていることをお分かりになると思います。つまり、98節の「敵」より賢くすると言うのは力や武力より、御言葉があなたを賢くすると語っています。ここを読みながら特に嬉しかったのは敵より私を強くすると言わないで、敵より私を賢くすると言う言葉でありました。

人の智恵であれば、敵より多くの力や武器を蓄えて、つまり敵より強くなることによって、安心と平和を保とうとしますが、今日の個所の御言葉は信仰によって敵より賢くなりなさいと言っています。

最近、韓国で核兵器開発に繋がるような実験をした事があった事が明らかになりましたが、まったくあってはならない事であります。例え、韓国が核兵器を開発すれば、周辺の国々も直ちに核兵器を開発するだろうと思います。また、それぞれそのような技術は十分にもっていると言われています。武器によって平和を維持できると思うのは常識でありますが、これは錯覚であります。武器で立ち上がる者は武器によって滅ぼされます。武器で立ち上がる者は人を殺し、自分もそうなっていくものであります。

日本も平和憲法を諦めようとしていますが、今の平和憲法を守る事がより賢い選択であると信じています。イエス・キリストは十字架の上でもご自分を十字架に掛けた人々に対しても呪いませんでしたが、正に神様の賢さであって、強さであります。私たちはこのイエス・キリストに従っていますが、イエス・キリストが示す道に永遠の命があり、絶対的な希望があります。この御言葉を心に留め、口ずさむものは幸いであります。

99節を見たいと思いますが、御言葉は全ての師より智恵を与えると示されています。ここでの「師」とは知識を象徴すると言って良いと思いますが、正にあらゆる知識や学者に御言葉が勝っていると私たちは信じています。なぜなら、御言葉に従うことのみが真理であるからです。夥しい学者が、神学、哲学、心理学、言語学、論理学、歴史などあらゆる分野に分かれて研究し、自分なりの言葉をもって研究の成果を論文や講演などの形で発表します。しかし、これらの全ては絶対的な真理にはなりえません。何より大事なのは信仰であります。すなわち、御言葉を信じ、それに従って生きることであります。これが真理であります。もし、ある人が教えた道や発見した法則に従えば、人は平安があたえられ、幸せになり、他人との関係においても平和の中で生きる事が出来るのであれば、それは真理であろうと思いますが、そのような法則や言葉を今まで誰も私たちに提示していません。

そもそも人間は絶対、且つ、普遍的な真理を発見できる能力をもっていないと思います。また人間は神を顔と顔を合わせて知る事も出来ません。人間はただ極めた小さい主観しか持ち得ない存在であります。すなわち、自分のめがねを掛けてしか自分やこの世を見ることが出来ないモノであります