2004年9月19日

「御言葉による自由」(ペテロ第一2・13〜17)

テーマ:キリスト者はすべてから自由でありながらもこの世の制約の中を生きる。

時:04.9.19. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

明日は「敬老の日」でありますが、今の日本は世界一長寿国であります。これからも平均寿命が延びる傾向は続くと思いますが、喜ばしい事であります。

ところが、平均寿命が延びることともに、昔の基準だけをもって一律にこの方は老人である、老人ではないと決めるのは難しくなってきたと思われます。例えば、私たちの周辺には定年になったと言っても全く若々しくて仕事をしないのがもったいないと思われる方が幾らでもおります。ただ寿命が延びたというより活動できる期間が昔と比べて遥かに長くなったということであります。このような事情をも踏まえてのことでありましょうが、一部の会社などでは会社の負担を出来るだけ軽くしながらいろいろ定年の後も仕事が出来るように工夫をしているようです。ただ言葉だけで「老人を敬いましょう」と言ったり、お土産を差し上げたりするだけでなく、年配の方々が生き生きと活動できる社会のシステム作りをどうすべきか、皆で考えて見る事が本当の敬老の日を迎えた意義かも知れません。

いつか、申し上げた事でありますが、私が教会に始めに来て「良いな」と思われたことの一つが生き生きとした年配の方が多くいることでありました。年配の方々が若者の為に、また、幼い子供の為によき証しを立てて、生きることの喜びや信仰による希望などを語ってくれました。その時、出来れば私もそのように年を取りたいと願っていたわけであります。当時の自分を考えてみれば、若くて死んで行く者でありましたが、教会で信仰によって生きる人方々との出会いや生ける御言葉との出会いによって、今は自分も生き続ける者となったと思います。

若いか、年寄りかと言う分け方は年の数だけでによるものではありません。肉体は衰えても精神的に若い人がいますし、肉は若くても精神的にすっかり衰えた人もいます。年の数に関係なく誰でも、精神的な若さを保つ事が出来るように心の管理をして行かなければならないと思います。その為には何より復活のイエス、言い換えれば、永遠を生きる御言葉に出会い、それに聞き従う事が何よりであると信じます。なぜなら、生きるモノに生かす力があるからです。神の恵みによって生ける御言葉に聞き従うことが出来るの者は幸いであります。

さて、今月は「御言葉」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、私たちはイエス・キリストによってすべてからの自由にされた者であります。例えば、肉が老化し死んで行くという恐怖から自由を得ています。人々が私をどう見ているかと言う不安から自由になって神様が私をどう見るかを先に考える者となっています。また、何を着ようか、何を食べようかと言う煩いからも自由を得ていますが、このような自由はイエス・キリストに従う時、与えられる自由であります。つまり、私たちが自ら得て自由でなく、イエス・キリストに捕らわれることによって与えられる自由であります。

今日の個所はそのような自由人である信仰者にとって、この世の制度は何であって、またこの制度にどのような態度で臨むべきかを考えさせられる個所であります。これは古くて難しい問でありますが、共に考えてみる一時となればと願います。

人は共同体の中で生きる者として造られています。男性と女性として造られていること自体がもうすでに共同体を前提しています。このように人は共同体をなして生きるように神様によって創造されています。言い換えれば、神様は人を自己完結的な存在として創造したのでなく、他人との関係の中で生きるようにお造りになったのであります。

個人の「個」いう言葉は単独では意味を成さないモノであります。全体ないし共同体を前提にして語る時、初めて「個」と言う意味が現れるのであります。また、「個」が語られない「全体」や「共同体」は幻想であります。なぜなら、全体の意義を語るべき「個」が埋没されているからであります。共同体と個人とはこのように切り離す事の出来ない関係にあります。

そして、この共同体には必ずルールを必要とします。そして、その共同体が大きくなればなるほどそのルールも複雑になって行くものであります。今、日本にも数えきれないほどの法律が存在します。今日も国会では様々の法律を作る為に議論や調査をし、また、文案作成をしていると思います。また、要らなくなった法律を廃止、または改定のための作業をもしていると思います。

ところが、この法律は政治的共同体である国家だけに必要ではありません。例えば、「教会法」と言う言葉があります。あまり聞きなれていない言葉かも知れませんが、昔のカトリック教会では教会の内部の倫理や、信仰を守る為に教会の内部で適用される法をもっていました。それを教会法と言いますが、このようにキリストの愛の支配だけを先ず求めているはずの教会の内部であっても、人が集まる共同体である以上、それなりのルールが必要であったわけであります。

家庭の中でもそれなりのルールが不文律として存在しているはずであります。このように如何なる共同体であろうとも互いが守る事が期待されている規則や制限があります。

この事は信仰者が教会の外にいる場合であっても同じであります。すなわち、私たち、信仰者は信仰者にとって最高たる規範である御言葉に従っていながらも、この世俗の国に身をおき、この世俗の国家の制度の制約をも受けながら生活をしています。そこで、私たちは御言葉を優先させるべきか、国家の制度を優先させるべきかと言う現実的な問題に時々遭遇するわけであります。

歴史においても二つの関係が、つまり、御言葉とこの世の制度ないし法律が、時には衝突し、時には協力しながら今まで続いてきたと言って良いと思いますが、その衝突と協力との関係を度合いによって四つに分ける事が出来ます。

始めに、国家の制度や規範を教会より優先させるべきであると言う考え方を国家優先論とも言います。この考え方の下では、教会は国家に従わなければならないし、信仰者が信仰に基づいて国家の政策や法律に反対してはならないと言う考え方であります。例えば、ヒトラ時代のドイツがそうでありましたし、先般の戦時中もそうでありました。また、今の北朝鮮もそのような価値観で成り立っていると言って良いと思います。

これとは逆に、神政主義と言う考え方もあります。この世の権力はすべて神から与えられているので、教会に世俗国家は従わなければならないと言う考え方であります。歴史においては教皇が皇帝の上に立っていた時代もありましたが、これを良しとしそれを維持するためのそれなりの制度をも整えていた時代がありました。

もう一つは教会と国家が互いを利用し合う関係であります。時にはこれを「コンスタンティンヌス主義」とも言うようでありますが、ローマ帝国は広大な領土や様々な人種を支配するためにキリスト教を一貫した理念ないし教えとして必要としました。それで、キリスト教をコンスタンティヌス皇帝の時、国教として受け入れたわけであります。それによって教会も安定した地位を確保できたわけであります。そのような持ちつつ持たれつつと言う関係の時代も歴史に往々にしてありました。

最後に政教分離を掲げる主義です。今の日本や殆どの国々がこの原則に立っての憲法をもっていますが、文字通り互いが干渉しないでいようと言う主義であります。しかし、互いが全く無関心でいる事は出来ない事であります。なぜなら、教会も自己完結的な団体でなく、外との関係の中に身を置いているからであります。個人が他者と共に生きるように造られたことと同じく、教会も社会的な存在でありますし、その故に国家も教会に全く無関心ではいられないものであります。この事を私たちは互いが緊張関係にあるとも言います。つまり牽制しあっているのであります。

一寸社会科目の授業のような話を申しましたが、今日の個所13節は私たちに「すべて人の立てた制度に主の故に従いなさい」と命じています。この世の王であろうとも、長官であろうとも彼に従いなさいと命じています。しかし、これは決して国家優先論を言っているものではありません。ここに示されているように、キリスト者はこの世の王や法律に従う時も主の故に、主の為にしたがうのであります。

私たちはイエス・キリストによってすべてから自由になっていますが、この自由は心と魂の自由であって、肉の自由ではありません。パウロはこのイエス・キリストによって得た自由をこのように言います。すなわち、ギリシャ人にはギリシャ人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、奴隷には奴隷のように、自由な人には自由な人のように自分を相手に合わせる柔軟さを自由として語っています。

このことを今日の個所に即して言えば、私たちがもっている自由とはこの世の法律や制度に合わせていける柔軟さであります。言い換えれば、私たちが得た自由は極めて柔軟な自由であって、その故に、他人と共存できる自由であり、この世の制度にも従える自由であります。

自由であるが故にこの世の制度やこの世の常識を無闇に破って行動するのであれば、自由をもって悪を行なうための口実として用いる事であり、放縦であります。

如何でしょうか、このように私たちが言うのは容易い事であります。しかし、具体的な事柄を前にして決断をしなければならない時にはそれほど簡単な事ではありません。例えば、今、日本政府は税金をもって武器をも製造し、輸入しているからと言って、信仰者として税金を納めるのを拒否するのが正しいか、また、韓国での場合であれば、クリスチャンであるが故に徴兵を拒否して良いのかなどと問われると答えに困ってしまうのであります。

この答えを出す前に少し今月の始めに申し上げてメッセージを思い出して頂きたいですが、聖書であろうともこれを間違って用いれば、それはもうすでに聖なる書物でもないという旨の話を申しましたが、例え、偶像礼拝を聖書が禁じている事をもって、神社仏閣に石を投げるのは如何でしょうか。時々原理主義的な信仰生活をする人によってそのような事が実際に発生しますが、それは犯罪であります。また、逆にこの世の制度や法律によって神社仏閣に石を投げる事が出来ないから、聖書が言う偶像礼拝の戒めは全く反故になってしまったかと言えば、決してそうではありません。

今も御言葉は生きています。すなわち、死んでしまった原理ないし文字として存在するのでなく、生きているメッセージとして私たちに迫ってくるのであります。つまり、御言葉は私たちに授けられ、私たちによって御言葉が生かされるのであります。

ところが、法律も生きているものであります。固定されていないモノであります。今日の個所にも示されていますが、すべての制度や法律は「人の手によって」作られています。それで、完全無欠な制度や法律は存在しません。また解釈を必要としない法律もありえません。繰り返しになりますが、法律とは、作られ、改定され、解釈されながら現実に適用されていく生きものであります。

それが故に、私たちの信仰者は私たちの信仰に基づいて容認出来そうでない法律や制度を作ろうとする人々がいれば、また、そのようなこの世の中の動きがあれば、私たちは声を出していかなければならないだろうと思います。また、すでに法律が出来てしまったのであれば、信仰に基づいてそれを廃止、ないし、改定する事を促さなければならないのであります。また、政治家達によって勝手な解釈が行なわれるのであれば、それに反対意見を述べなければならないのであります。

しかし、一旦出来た制度であって、それが今も有効であれば、それが悪法であろうともとりあえずそれに従いつつ、廃止、ないし改定されるように祈りつつ、その声を出していくべきであります。これがこの世の国家ないし制度と教会とが緊張関係にある姿ではないかと思います。つまり、教会がこの世の制度や法律に無関心にいるのでなく、御言葉に聞きつつ、世俗の国家に対して信仰に基づいての意見を発するのが私たちのクリスチャンと教会が負うべき責任でもあろうと思います。

イエス・キリストは神のモノは神に、カイザルのモノはカイザルと命じていますが、今まで申し上げたメッセージをもってあらゆる方向からの問に答えたとは思いません。一人一人が信仰の主体者として二者択一の決断が求められる時もあろうと思います。その時はイエス・キリストが良しとする選択が出来るようにして行きたいと願います。