2004年9月26日

「戒めを守るならば」(ヨハネ第一手紙2・1〜6)

テーマ:『御言葉』、真理とはイエス・キリストの戒めを守ることである。

時:04.9.26. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

この間の火曜日には江頭姉妹の自宅で二回目の家庭集会がありました。キリスト教とは縁の遠い方々もお見えになっていましたが、ある方からキリスト教についての率直な疑問を尋ねられました。それは私たちにとっても大事な問でありますし、また、今日のメッセージのテーマとも関連があると思われますので、先ずその方からの質問を紹介し、共に考えて見たいと思います。

「キリスト教が言う神と一般の人々が言う神と如何違うか」と言うがその方の質問でありました。確かに、教会の中でも神様の固有の名前である「ヤァフェ」神様とは言わないで、普通「父なる神様」か、「主なる神様」と呼んでいます。それで始めに聞く方にはどの神様を指して「父なる神様」と言うのか分からないのも無理ではないと思います。

私たちが呼び求めている神様はイエス・キリストが「アバ父よ」と呼んでいた神様であります。ですから、汎神論的な考え方の下で言うような特定されていない神とは全く違う方であります。

因みに言いますが、汎神論的な宗教心においても人も神によって生かされているという事への感謝の気持ちは起こりますが、「罪や、罪の赦し」などの告白は全く起こりえないものであります。しかし、キリスト教は罪の赦しが具体的に語られます。

キリストの父なる神様は天地を創造した方であり、モーセを通して律法をイスラエルに与えた神様であります。また、その時までは神様は赦しを語るより、律法をもってイスラエルを導いていました。しかし、この神様はすべての人々を罪から救うために最後の手段として御子、イエス・キリストを私たちに送ってくださいました。この御子、イエス・キリストが父なる神様の愛を残すことなく表してくださいました。それで私たちはイエス・キリストを通して神様の愛の本質を知るようになったのであります。

この神様に私たちは仕えていますが、神様はイエス・キリストを死んだままにしないで三日後に詠み返らせて下さいました。

大急ぎで私たちの神様は何方であるかを申しましたが、このように神様を知識として申しますと大変無味乾燥に聞こえます。これが私たちの知識的な語りの限界かも知れません。勿論のことでありますが、私たちの信仰者は神さまを知識として知るのでなく、人格的な出会いが赦されています。言い換えれば、「私」と神様との出会い、また、温もりのある神様との出会いが赦されています。

さて、今月は「御言葉」をキーワードにしてメッセージをしておりますが、今日は特に御言葉を知るとは何であるか、イエス・キリストを知るとは何であるかを、今日の個所を通して共に聞きたいと思います。本文を見る前に今日の個所の全体の構造と書かれた背景とを少し申しあげます。

先ず背景を申しますと、当時のヨハネが属していた教会には宜しくない教えをしていた人々がいたようであります。すなわち、イエスは人々を罪から救う為に亡くなったわけではないなどと言っておりました。なぜ、このような思いに至ったかを簡単に言いますと、彼らはイエスがこの地上を歩まれたのは本当の人でなく、そもそも霊として歩まれたなどと難しい理論を組み立てていました。詰まるところ、イエスの約束を信じるより、神について知る知識があって始めて救われるなどと言っていたようであります。

それで教会が大きく混乱に落ちいていました。ヨハネはそのような人々に惑わされて更なる罪を犯さないようにこの手紙をおくったわけであります。

今日の個所を読みながら、この手紙を書いたヨハネは今申し上げた異端的な教えから教会を守ろうと言う気持ちが先走っていたか、相当褪せていたような気がします。と言うのは今日の個所を良く見ますと1節から2節まではいわゆるキリスト論で、イエス・キリストは人々の罪のための供え物として捧げられたと言う事が語られ、3節では、いきなり、キリストを知るとはキリストの戒めを実践することだという趣旨の話になっています。つまり、1節から2節までと3節以降とは内容が論理的に繋がっていないで飛躍しています。

しかし、教会の中で、先ほど申しましたような異端的な教えを聞いていた人々とってはヨハネが飛躍して言ったとしてもヨハネが言わんとしていることを分かっていたと思います。

すなわち、彼らが教えているように神を知るだけでなく、イエス・キリストの言葉に踏みとどまって実践をする事が本当の意味での神を知ることだヨハネが言おうとしていることだと知っていたと思います。

私はここを読みながらこの飛躍こそ大事な役割があるのではないかと思いました。つまり、私たちを立ち止まらせて考えさせてくれる役割をしていると思いました。

人々はイエス・キリストによって、救われたのであれば、それで完成であって、それ以上悩む必要もなく、他になすべき課題もないのではないかと勘違いをしたりします。しかし、3節以下は、十字架で殺され、復活をし、私たちの主となられたイエス・キリストは、私たちに赦しと救いの約束の他に戒めを守るように命じています。

ところが、ここの「戒め」とは旧約時代の掟や律法というような物々しいのでなく、全く「御言葉」と同じ意味であります。今日の個所の少し後の3章23節を見ますと「その戒めと言うのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、私たちに命じられたように互いに愛し合うべきことである」と記されています。ここを見ても、戒めとは律法が言う内容ではなく、イエス・キリストの言葉に従うという事を知ることが出来ます。

兎に角、ここで言う「戒め」とはイエス・キリストが私たちの罪からの救い主である事を知ること、そして、互いに愛し合うと言うことであります。イエスはこれを語る為に、弟子達を集め、私たちを集め、また十字架の上で苦しみをお受けになったのであります。

罪を赦し、罪が赦されるという事がどのような意味であるかを紹介します。昔ある本から読んだ事でありますが、アメリカであった実話であります。ある病院に22歳の若さでありながら、胃に病気があって入院をした青年がいました。診断の結果、彼は胃の半分を切除しなくてはならない事がわかりました。それで手術を受けて、一旦退院をしますが、暫くして再び胃にトラブルがあって入院をしました。更に半分を切除しなければなりませんでした。ですから4分の1しか残らなくなったわけであります。事態はそれで終わりませんでした。更に後になって彼はまた入院をしたわけであります。手術が成功裏に終わったと自信をもっていた医者達でありましたので、彼には他の原因があって胃にトラブルが発生しているのではないかと思うようになり、精神科医と相談をその青年の精神的な状態を診てもらったわけであります。なるほど、分かったのは彼が6歳の際に親が離婚をし、親が彼を他人に預けましたが、その養父母が良くない人たちであって、暴力をふり、また彼だけを家に残して旅行に出かけたりしたようで、その際には、彼を家に閉じ込めておいたそうです。彼はそのような虐待を受ける度に、養父母を恨むより、実の親に対して恨みを持つようになったそうです。それで実の親を見つけ殺したいと思い常にナイフをもって歩いたそうです。このことを知った病院では彼の実の両親を探しますが、父はすでに亡くなっていて、母だけを見つけたそうです。

そして、実の母に事情を説明して病院に来て青年と和解をするように願いますが、幸いに彼女はこれに応じました。始めはその青年は彼の母に背を向いて顔も合わせようとしなかったそうですが、彼の母が三日間、彼に許しを求めてながら泣いたそうです。それでようやく、三日後には彼は自分の母の胸に顔を埋めて、大声で泣いて泣いて、「会いたがった」と言ったそうです。その後、暫くして彼の4分の1残っていない胃の検査をすると切除しなくと良いほど回復していたそうです。

自分の罪や他人への恨み、人に言えない悲しみや悩みをイエス・キリストの前で告白し、赦しを求める者は幸いであります。その者は必ず神の哀れみを受け、そのような苦しみから解放されるからであります。これがイエス・キリストの約束であり、戒めであります。

ところが、3節を見ますと「もし、私たちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知る事を悟る」と示されています。大事な言葉であります。イエス・キリストを知ってから戒めを守るのでなく、戒めを守ることによってイエスを知るようになると語られています。

もう一つ江頭姉妹の家庭集会で聞かれた事でありますが、キリスト教を知ってから入信をしたいが、なかなかキリスト教を知ることが出来ないとおっしゃる方がいました。それで私はそれは不可能であると申しました。

それより、先ず御言葉に聞く事が大事であると申しました。ここでの聞くとは人間の智恵や理解の範囲の中で聞くのでなく、人間も限界を先に知って、聞くことであるということも申しました。今日の個所も言葉の表現は違いますが、これとほぼ同じプロセスを言っていると思います。

先ず、戒めを守る事によって、イエス・キリストを知るようになると言っています。つまり、キリストが正しい事を言うことを自ら分かってから、戒めを守ろうというような一般的な発想とは逆になっています。そのような意味で信仰とは決断であり、聖霊の導きによる飛躍でもあります。

話を今日の個所に戻しますが、4節を見ますと「彼を知っていると言いながらその戒めを守らない者は偽りの者であって、真理はその人のうちにない」と記されています。読み方によってはかなり厳しい言葉ではないかと思いますが、大事な言葉であります。つまり、イエスが罪の贖い主であることを知り、互いが愛するという戒めを守る事が真理であると語っています。キリスト教が言う真理とは何かを極めて分かりやすく語っている個所であります。

話が少し逸れますが、真理や正義、などの言葉は人々にとって常に魅力的な言葉であります。私は最近、映画が面白くなって時間がある時は見ていますが、その中で良く気付く事でありますが、多くのアメリカ映画のテーマは「正義」ではないかと思います。正義を実現する。正義は勝つ。正義が勝つのは真理である。などのストリーが多いのであります。人々が正義を求めているからそのような映画がたくさん作られると思いますが、正義を実現するというテーマの多くの映画は残酷なシーンもたくさんあります。人間が考える正義の限界であります。

しかし、神様はご自分の正義をこの世に表すために自分の一人子を罪の供え物とし、その神様の御旨を受け取って、胸を打ちながら自分の罪に気付くモノを哀れみました。それが神様の正義でありました。

話を戻しますが、真理という言葉も正義以上に人々に魅力的な言葉として迫って来ます。例えば、孔子は論語で「朝道を聞けば、夕方には死んでも良い」と言いました。ここの道とは「真理」に置きかえっても良いの思いますが、このように人々は昔も今も正義や真理を求め、時にはそのために命を掛けても良いとまで言いながら求めて来ました。しかし、誰がその真理や正義を分かったんでしょうか。誰がこれは絶対真理であって、絶対正義であると言えるでしょうか。神以外には誰も知らないと思います。

今日の個所の御言葉によれば、真理とは私たちが何かの外にある客体を理解し、納得することでなく、救い主・イエスの言葉に聴き従う事であります。つまり、御言葉が真理であるというのでなく、御言葉に聞き従う事が真理であります。

聞き従うという言葉を他の言い方にすれば、御言葉を自分に内面化することであります。そして、内面化された御言葉は最早自分と一体になるのであります。このことを今日の個所は「御言葉が私たちのうちに」と言う言葉で言い表しています。

例え、私たちが常に聞いて知っている御言葉と私たちの行動とが別々のモノとなっていれば、私たちが聞いている真理は何の益になるでしょうか。また、御言葉を知っている自負や喜びが何の意味がありましょうか。御言葉を聞いてそれを守る事がないのであれば、御言葉は全く無益なものであります。それどころか、御言葉が私たちを偽りモノであると断罪までをするものとなってしまいます。

しかし、御言葉が私たちの内にいれば、神の愛が私たちによって全うされます。神の愛が私たちを通して表れます。そして、自分もその神の愛によって生かされている事に気付き、感謝の言葉が溢れ出てくるはずであります。これがイエス・キリストを知るという意味であろうと思います。