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2004年10月3日 |
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「義人はいない」(ローマ書3・9〜12) テーマ:『罪』、全ての人は構造的な罪のただ中を生きる。 時:04.10.3. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
やっと涼しくなったような気がします。今年は例年より台風も多く、また、熱かったですが、これから暫くは一年中最も豊かなで過ごし易い季節になります。「秋」と言えば私には柿が先ずいつも思い浮かびますが、葉っぱが落ちた枝に柿がだいだい色を帯びてぶら下っているのを見ると心まで豊かになるような気になります。実に美しい季節であって、また豊かな季節であります。 韓国ではまだ旧暦で御盆と正月を過ごしていますが、この間の火曜日が御盆でありました。今も、勿論、御盆になれば家族が集まって団欒な時を過ごしますが、昔とは少し様変わりをしているようであります。というのは昔は貧しくて、御盆となれば、季節的に多くのものが収穫されますので、それで目一杯ご馳走を作って、お腹一杯を食べるのが、多くの人々にとって大きな楽しみでもありました。私には今もそのような印象が残っています。しかし、今はどの家でも食べ物などは簡単に用意をしているようです。母に電話して見ると今年も何にも特別に用意をしなかったと言っていました。一般的に今はさほど食べ物に困らなくなって、食べ物自体にはもうこだわらなくなったようであります。おそらく伝統的なご馳走を用意して孫を待っていても彼らはそのようなモノより、マックドナルドや、ケンタキチッキンなどを好んで、密かに買いに走ってしまうかも知れません。 今は確かに日本も韓国もこのように食べ物や生活環境などは遥かに昔より良くなっています。便利になっています。すべてが早くなっています。しかし、如何でしょうか。人々の心は物質の発達に比例して豊かになったでしょうか。それとも反比例しているでしょうか。物質的な豊かさと心の豊かさは反比例しているは言えないと思いますが、でも、私たちの実際の感覚から考えて、物質の豊かさと心の豊かさは比例しているとは誰も言えないと思います。つまり、物が豊富になって、便利になって、その分だけ、以前より幸せで、暮らしやすくなったとは誰も思わないのであります。これは、人間は物だけによって生きるモノでないという私たちの体験でもあります。 その故に、人は経済的な活動だけで満足することが出来ずに、というより経済的な活動だけで生きるすべがないと言ったほうが良いかも知れませんが、兎に角、人は「人間とは何か」、「如何生きるべきか」「何が価値か」などを問い続けるものでもあります。 勿論、このような問は直接的にモノの生産量につながる訳ではなく、進んでいく老化を食止めるわけでもありません。しかし、これは決して贅沢な悩みではありません。なぜなら、これらの問は人の生き方や方向を左右してしまうからです。 そのような問には様々な観点からのモノがあろうと思いますが、その中でも今日のテーマとの関連の中で一つ紹介をします。詳しくは知りませんので、常識的な線で申し上げます。先ず、有名な孟子による性善説があります。つまり、人は生まれながら善であると説きます。しかし、これは生活の中での体験や、心の中で起こっくる悪の起源については緘口しています。また、朱子による性悪説があります。これは性善説と正反対でありますが、これも性善説とは逆に善の起源については何も説明できない嫌いがあります。 しかし、聖書は「人間とは何か」という問に対して明確な答えをもっています。つまり、人間は全て罪のただ中にいる聖書は断言します。 因みに言いますが、キリスト教は神がいるかいないかを問う信仰ではありません。人間とは何か、神はどのような方であるかと言う人間側からの問いに対して神様からの答えとして与えられた聖書とイエス・キリストを信じる信仰であります。 今月は「罪」をキーワードにして共に聖書から聞きたいと思いますが、今日の聖書の個所でパウロは旧約聖書を引用しながら、「義人はいない、一人もいない、善を行なう人はいない、一人もいない」と断言しています。これは詩編の14編からの引用でありますが、この詩編14編はほぼ同じくまた53編で重複されています。これはダビデによる歌であるとされていますが、この重複から考えますと、この詩が人々の心に共感するところがあって、繰り返し人々によって歌われていたようであります。 ところが、この詩を始めに歌ったダビデは自分は義人であるつもりで、他人を見下しながらこのように言ったのではありません。自分を含めて全ての人は罪のただ中にいる事を嘆いているのであります。この事は今日の個所で引用しているパウロも同じであります。ダビデもパウロも私たちから見れば信仰熱心な人であって、また素晴らしい業績を残した人であり、尊敬に値するひとであると思われます。おそらく、パウロやダビデと同時代を生きていた人々も私たちと同じく彼らを尊敬し、高く評価していただろうと思います。 しかし、彼らは自分を静かに省みる時、また自分たちの今までの辿ってきた道を思い出す時、罪の只中にいると告白せざると得なかっただろうと思います。 私が聖書を読み始めた時、とても新鮮なショックでありましたが、聖なる書物であると言いながら人々の弱さや罪をあるがまま記しているのは驚きでありました。例えば、アブラハムは自分の女房を盾にして命拾いをしました。ノアは酔っ払って裸で寝たことが記されています。ヤコブは兄や父親を騙しました。 私が始めに聖書を手にしたの時は自分は如何しようもない人間であると自分を深く呪っていましたので、人間の弱さと罪とをあるがまま曝け出す聖書が読めたと思います。その経験から言える話でありますが、自分は罪びとでなく、正しい人であると自負している人は聖書を読むことも、神様に聞くことも出来ないだろうと思います。自分が義人であると自負が目を神に向けさせないからであります。当然そのような人には神の赦しを請う必要もないと信じて生きるのであります。 聖書に登場する人の中でイエス以外の全てがこのように罪人であります。にも関らず、神様は彼らを祝福し、守ります。人間的な目で見れば不思議な事であります。 話が逸れましたが、このように人類始まっての昔から今に至るまでの全ての人は罪人だと聖書は断言しますが、この聖書が言う罪は構造的な罪であります。つまり、人間は罪を犯さざると得ない構造の中に生まれながら置かれています。これを神学的な原罪であると言いますが、換えれば、罪を犯すから罪人でなく、生まれながら罪人であるから罪を犯さざるを得ないということになります。 人は生まれながら何で罪人であると言うのかと異議を唱えたくなる方がいるかも知れません。実際に、私たちは赤ん坊が犠牲なるような事件をニュースなどで見て「子供が何の罪があるんだ」とか言いながら怒りを表します。しかし、聖書は人間は生まれながら罪人であると言います。 笑い話のような例えでありますが、子供は本当に可愛いものであります。寝ている時や笑っている顔は全くの罪のない天使、そのものであります。しかし、例え、夜鳴きをして自分が起されたり、綺麗な壁に落書きをされたりすると親は大変苦しくなります。勿論、子供が夜鳴きをするのは当たり前であります。これを心得ていない親や大人はいません。寧ろお腹が空いても泣かなければ困ると思うぐらいであります。でも、泣かれると苦しくなります。それで時にはこちらも怒りたくなります。可愛い子供であるから、泣き声が自分の好きな音楽のように聞こえるのであれば、どんなに良いでしょうか。しかし、実際には、音楽のようにも、小鳥のさえずりのようにも聞こえないのであります。逆に愛する子供の泣き声であるが故に親は神経が擦り減らされるような感じがします。やはり人間は子供であれ大人であれ、このような罪の構造のただ中にいます。 また、例え、人が豊かになる為に努力するのを否定できません。生活の質を改善する為に努力するのは善い事であります。自分の仕事にベストを尽くすことは誰にでも求められます。しかし、これらが絶対善でありましょうか。つまり、これらは悪いところの全くない事であると言えるでしょうか。決してそうではありません。 車を作って殆どの人が便利に乗り回しています。しかし、これによって空気の汚染は深刻になりました。魚を取る技術も道具も改善され、人々の食卓が豊かになりました。しかし、今はそれによって逆に魚が取れなくなってきたと言われています。 多くの人々の勤勉と誠実によって経済が発展し、生活の水準が世界トップになりました。多くのモノを海外から輸入できる力をもっています。それで、世界中から良いモノ、美味しいものが日本に入って来ています。しかし、これによって地球の裏側で飢えを覚えざるを得ない罪のない子供達が生じているのも否めない現実であります。 全ての人は罪のただ中にいることをイエスが実証的に物語っている個所があります。有名でありますが、イエスは姦淫をする女を捕まえてきて怒りを表す人々に、罪のない人がその女に石を投げなさいと言います。すると一人一人石を置いて皆が帰り一人も残る事が出来ませんでした。イエスの言葉を聞くまでは、彼らはこれが善だの、これが正義だのと口々に叫んでいた人々でありましたが、イエスの問いかけによって彼らは自分の罪を知るようになったのであります。 今まで、聖書がいう人間とは性善説が言うように無条件に善なるものでもなく、性悪説が言うように無条件に悪でもなく、罪人であると言う事を申しました。また、この罪は構造的な罪であるとも申しましたが、もう少し創世記の創造物語やアダムとイブの話を思い起こしながらこの原罪について共に考えて見たいと思います。 神様は人間を含めて全ての被創造物をお造りになって、はなはだ善かったと語りました。つまり、絶対善として人間をもお造りになったのであります。しかし、人間は自ら善と悪を判断したくなり、神の言葉に逆らいながらもそれを手にすることが出来ました。その結果、人間は神様によって絶対、善しと造られた自分を自らそうでないかも知れないと思い込むようになったのであります。そして、その判断は自分だけにでなく、他人にも向けます。 このようにして、アダムとイブは善悪の果実を食べた後は自分達のあるがままを恥とせざると得なくなり、また、互いをののしる者なりました。このアダムとイブの罪の構造を私たちもそっくりそのままもっています。 例えば、私たちは自分の顔を自分で作ったわけでなく、神様から頂いたものでありながら、これに対して不満を呟きます。自分の顔は悪いし、隣の人の顔が善しと思い込むようになったからであります。この逆のパタンもありますが、何れもこれらは神の業への不平であります。結局はこの善悪の判断と共に、あるがままの自分を喜ぶ事も、感謝する事が出来なくなってしまったのであります。 もう時間がなくなってしまいましたが、今日の個所の9節を見ますと「私たちには何かまさったところがあるか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪のしたにある」と記されていますが、このことを今の私たちの言葉に置き換えますと、「信仰者であろうとも、信仰者でなくとも全ての人は罪の下にある」という意味であります。 イエス・キリストの前の時代の人々はそのような罪から解放されるために、律法を徹底的に守ろうとしていました。正にパウロがそうであります。しかし、彼は自分の体験としてどんなに人間が律法を守っても罪から解放されることがなく、ますます罪の深さが知らされるだけでありました。そのような絶望の中にいたパウロは復活のイエス・キリストに出会います。その後は律法や行いよって罪から解放されようとするのでなく、イエス・キリストに罪の赦しを求める者となったのであります。 最後に話を纏めて終わらせたいと思いますが、人間は全て罪人であります。信仰者もまたく同じであります。であれば、信仰とは全く無益なモノでありましょうか。決して、そうではありません。旧約の時代の信仰者は律法を守ることによって自ら罪からの解放を願っていましたが、今の私たちは信仰によって、イエス・キリストに罪の赦しを求める者となりました。そして、私たちは人間とは何かを問うより、イエス・キリストに罪の赦しを求める信仰者でありながら、罪びととして、如何生きるべきかを問う者として立っているのであります。 |