|
2004年10月10日 |
|
「私は罪人の頭」(テモテ第一1・12〜15) テーマ:聖書の言う罪とは私が一人として神の前に立つ時、映し出される罪を言う。 時:04.10.10. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
カレンダを見ますと明日は「体育の日」であります。普段はあまり運動をしない人であろうとも少しジョギングでもしたくなるような季節です。昨日はナオミ(=説教者の娘)の幼稚園で運動会がありまして、見に行ってきました。多くの父兄が可愛い子供達を見ながら拍手をしたり、笑ったりしながら楽しい時を過ごしていました。 そのような心和む雰囲気の中で、私は少し捻って考えて見ましたが、子供達にはわざわざ運動会を設けて運動させようとしなくとも十分な運動量があります。外で遊ばせればよいはずであります。運動が必要なのは寧ろそこに来ている親やお祖父さん、お祖母さんではないかと思いました。私もどうしても運動不足であることを痛感しています。この頃、風邪を良く引いたり、腰が痛くなったりするのも運動不足が原因ではないかと自分なりに診断をしています。それで、実は何日か前に亜鈴を買って来て事務室に置きました。毎日10分ぐらいでも続けて見ようと思っています。また、できれば、少しでも多く歩くように心かけたいと思います。 考えてみたら、聖書には運動を勧めるような個所はありません。しかし、おそらく今のような時代に聖書が書かれたのであれば、運動を勧める個所もあったのではないかと思います。おそらく、聖書が書かれた時代の人々には「運動不足」という言葉を知らなかっただろうと思います。何でも体を動かして作ったり、何処か行くのにも基本的には歩いたはずですから、常に十分な運動量があったと思います。 しかし、今の時代には特に日本のように多くの事を機械に頼ったり、車やエレベーター、エスカレータで移動をしている国ではどうしても人々に運動不足が生じるのが現実であります。それで国ではわざわざ「体育の日」を祝日とし、国民に運動を奨励ているのであります。 「体育の日」の由来は65年の東京オリンピックが10月10日開催されたことからであるそうです。今日のあいにく雨模様でありますが、統計的には一年中最も雨が少ない日だそうです。 やや古い資料でありますが、文部科学省の調べによりますと何らかの運動を毎日する人は月一回、二回する人より5歳ぐらいの体力をもっているし、何もしない人よりは10歳ぐらい若いそうです。また、運動と言っても大げさに考えなくと良いようでありますが、ラジオ体操であっても十分な効果があるそうです。どうぞ皆さんも是非適当な運動のための時間を確保してみては如何でしょうか。そして、霊肉共に健康に過ごす事を願っています。 さて、今月は「罪」をキーワードにして共に聖書から聞いていますが、先週は全ての人は罪人であると断言されているローマ書の個所でありました。そこを通して全ての人は生まれながら罪人であって、また、構造的な罪のただ中を生きていると申しました。それがまた聖書の人間観であります。すなわち、聖書は人を罪人であるという前提をもっています。それで、これを認めない限り、聖書を読むことも、聞くことも出来ないと言っても過言ではありません。 今日もパウロによる手紙であります。メッセージのタイトルにもなっていますが、今日の個所で何とパウロは自らを「罪人の頭」であると言っています。これは口語訳でありますが、新共同訳を見ますと「罪人の中で最たる者」となっています。つまり、共同訳は比較級の最上級として訳しています。これがギリシャ語原文に近いですが、では、パウロはここで他人の罪と比べてそのように告白しているでしょうか。そうでないと思います。 人の罪の量と比べて自分の罪が最も重いという意味でなく、一人として、イエス・キリストの前に立った時、自分を「罪人の頭」であるとしか言いようのない人であると告白したと思います。もう少し詳しく申し上げれば、パウロはこの個所で、一般論として「人は罪人である」、または「私たちは罪人である」と告白したのでなく、「私が罪人である」という告白と共にどれ程酷いな罪人であるかを言っているのであります。 例えば、一般論としての「私たちは罪人である」と言う告白は「私が罪人である」と言う告白より遥かに容易いし、これには何処か逃げ腰を感じざるを得ません。つまり、ここには「皆で渡れば怖くない」と言うような心理が見え隠れして、皆で罪人であると言うのであれば、私も一応そのように告白しておこうと言うような嫌いがあります。しかし、「私が罪人である」と言う告白には最早避ける余地がありません。一本橋を歩くようなモノであります。全く避けることが出来ずに、その言葉の重みがそのままのしかかって来ます。また、例え、この世の全ての人が「自分は罪びとでない」と言っても、それとは関係のない孤独な告白でもあります。 先週のメッセージの中でも姦淫の女を捕まえてきた人々がイエスから罪のない者が女に石を投げるように言われて、石を投げる事が出来ずに皆、帰ったところを例として申しました。このことから、もう一つ今日のテーマに沿って確認しなければならない事は、姦淫の女は死に値する罪であって、自分の罪はそれよりは軽いということで石を投げる事が出来た人は一人もいませんでした。 このような意味で、人は皆が神の前で絶対的な罪人であります。この神の前での罪は人と比較にならないものであり、比較してもならないものであります。なぜなら、神様の前で皆等しく定まった罪であるからです。このことを今日の個所の言い方を借りれば、人が一人として神の前に立つ時、一人一人が罪人の頭であって、最たる罪人であります。また、ここがキリスト教の真髄でありますが、イエス・キリストの前に一人として立って自分の罪を告白するところから、神様によって、「私の罪」の赦しが始まるのであります。 このような神様と一人としての人が出会うのを「神との人格的な出会い」と言いますが、このことを喩えで申しますと、日本人の女性の平均寿命○○だから私も○○までは問題ないというのでなく、自分の一人としての健康の状況を知らなければなりません。これと同じく、信仰においても神と一人としての「私」との出会いが赦されて、初めて信仰が私において具体的の事柄になってくるのであります。 イエスもこの地上を歩まれた時、寂しいところに退いて一人で祈られたと福音書は随所で語っています。すなわち、イエスは父なる神様の前に一人として立つ時を常にもっていたのでありました。 イエス・キリストも自ら、神の前に一人で立つ事を模範として示しましたが、キリスト教はこのように一人で神の前に立ち、悔い改め、赦され、感謝の心もって再び、人込みのところに戻る信仰であります。 話を戻しますが、今日の個所の手紙はパウロが愛するテモテに当てた手紙であって牧会書簡とも言われます。つまり、テモテが教会の指導者として心得ておくべき事柄を諭そうとして書いた個人的な手紙でありますが、テモテもはパウロに絶大な影響をされクリスチャンになり、今は教会で奉仕をしようと決心しています。このような事を考えますとテモテはこのパウロの告白を聞いて内心驚いていただろうと思います。あれほど熱心で、また精力的に世界を回りながら多くの人々にキリストの愛を伝え、周りからは尊敬されているパウロが自分を「罪人の頭」だと称しているのであります。 確かにこのような告白は公な所では言いにくいモノであろうと思います。この手紙はテモテに宛てた手紙であって、テモテがパウロの事を知っているたからこそ、このような告白が出来たかも知れません。私たちもパウロの人なりを知っているからこそ、ここまで告白しているパウロであったと読むことが出来ますが、もし何も知らないのであれば誤解をしかねない告白であります。つまり、クリスチャンになってもここまで自責の念に捕らわれ苦しむのであれば、何のためのクリスチャンであるかと落ち込んでしまう可能性もあります。また、それほどの罪人であった過去を持つパウロに何の話が聞けるかと思う人も生じるかも知れません。 私はこの個所を読みながら昔のことを思い出しました。わたしが幼い時はまだ朝鮮戦争が終わって間もなくでありましだ。またとても貧しい時代でありましたので、物乞いをする人が多くいました。時には戦争で負傷した人々が松葉杖で家々を訪ねながら、お金やお米を強請ったりしていました。ある人は自分が戦争で負傷したという証明書まで見せながら、そのような願いをしていました。そのような時代でありましたが、ある人が家に物乞いの為に来たことがありますが、母親がとても怯えていました。そして多くの米などをわたすのを見た事がありますが、自分も子供心で恐ろしかったのか今もこのように覚えているわけであります。彼は自分が前科のある人で、出所したばかりの凶悪犯であったと自分を紹介しながら、お米が欲しいと言っていました。正に脅迫であります。つまり、自分は凶悪な者であって、もし何もくれないと何を仕出かすか知らないのだという脅迫でありました。 如何でしょうか、パウロの自分は罪人の頭と言う言葉にそのような殺伐なところがありましょうか。先ほど申し上げた少しの誤解の余地はあるものの、脅迫やそのような殺伐な感じは全く読み取れません。寧ろ一人の人間がイエス・キリストの前にたって、そこまで深く自分の過去や心を観照し、そこから込みあがった来る言葉であると受け止める事が出来るのではないでしょうか。 罪のないイエスは十字架に架かりながらも人々の罪の赦しを語りつつ亡くなりました。このイエスの前に立つ時、人は誰でも自分の罪を鏡に映し出す如く、自分の罪を認めざるを得ないものであります。聖書は人を憎むことと人を殺すことと同じであると言いますが、一寸自分のプライドに傷つけられ、人を罵り、一寸面倒なことで人を憎み、一寸した損をすることで人を恨みます。それが私たちの心の有様であります。 因みに言いますが、刑務所に行けば、罪人がいないと言う逆説的な言葉を私たちは時々聞く事があります。私は幸いにまだ刑務所に行った事はありませんので、想像をしながらその言葉を理解するしかありませんが、おそらく刑務所にいる人の多くは自分の罪を認めるより、社会が悪い、回りの人々が悪いなどと言いながら、自分の罪を心のそこからは認めようとしない心理に捕らわれていると思います。罪を認めると自分の存在の基盤を失うからであります。 しかし、クリスチャンはあるがままの罪をイエス・キリストに告白し、赦しを求める者であります。そこからあるがままの自分を発見し、認める事が出来るのであります。これはある意味で大きな特権であります。なぜなら、イエス・キリストの前で罪を認める者は赦され、更に大きな自由と力と使命が与えられるからであります。信仰によって新しく生きる道が示される者は幸いであります。 今日の個所の全体の中でパウロの「罪人の頭」という告白の位置を確認して話を終わらせたいですが、実は今日の個所を今日のテーマに沿って「罪人の頭」という言葉を強調する為に12節から15節までとしましたが、話の展開としては17節まで区切るのがよいと思います。すなわち、パウロは1節から11節まではテモテに挨拶の言葉と異端への警戒を語り、12節から17節まで神への感謝を述べています。ですから、パウロが罪人の頭だと告白したのは神への賛美の一環としてそのように告白しているのであります。 神様は弱きものを強いものとして用いる方であります。罪人を悔い改めさせご自分の栄光の為に用いようとする方であります。この事をパウロは自分の経験からわかっています。かつての彼は教会を迫害していた人でありました。律法に充実であろうとすることをもって自分は傲慢になり、多くの人々を迷わせ、時には罵り、人を殺す事にも賛同しました。 そのような自分を神様は赦し、正しい道を示し、また、忠実な者としてみなし、神の名を伝える任務を与えてくださったことを知っています。それで、パウロは神を賛美し、感謝をせざると得なかったのであります。パウロは今の自分の心の平安や感謝、喜び、心の自由、希望などを考え、これを以前の自分の心と比べるとあまりに大きくて、以前の自分を罪人の頭であったと告白せざるを得ませんでした。そして、今もその恵みのただ中にいるので、依然として今も罪人の頭であると言っているのであります。 私たちもこのような信仰による告白に導かれることを願いつつ毎日を歩みたいモノであります。 |