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2004年10月17日 |
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「欲がはらんで罪を」(ヤコブ1・12〜16) テーマ:全ての人は罪人ではあるが、それを自らの罪のための盾としてはならない。 時:04.10.17. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
皆さんもご覧になったと思いますが、昨日の朝刊の一面トップに水俣病事件に対して国や熊本県に責任があるという最高裁判所の判決がのっていました。多くの方が当然の判決だと喜んでいると思います。 私たちの家族は先週の日曜日に水俣に行ってきましたが、以前伺ったの事のある患者さんに、今回も会いました。私たちを覚えて、不自由は言葉と仕草で私たちを歓迎してくれました。暫く話を伺い、支援団体が用意してくださった食事をも共にしました。 後で水俣病に関する資料館に行きましたが、そこに展示されている資料を見ながらいろいろ考えざるを得ませんでした。果たして、チッソは初めからそのような被害が生じる可能性に対して全く予測できなかっただろうか、それとも、予測はしていながら敢えてやったのであろうか。私はある程度予測はしながら敢えて海に流したのではないかと思いますが、兎に角、何れの答えであろうとも困った事であります。 予測できなかったとすれば、重大な科学の限界を示すことであり、予測していたのであれば、全くの犯罪であります。更に言えば、そのような工場の建設への認可ないし許可をした段階ですでに国の責任があると思いますが、今度の判決は水俣病が有機水銀による発病である可能性が指摘された段階で国はチッソに対して何かの措置をとるべきであったのにそれを怠ったという事たいして責任があるという判断でありました。 また、今度の最高裁の判決は大阪高等裁判所がすでに国と県に責任はあるという判断を示したが、これに対して国が不服として争っていた裁判でありました。つまり、国が責任を認めようとしていなかった事に対して裁判所が強制的に責任を負わせたという格好になりました。これからも他の被害者によって似たような裁判が起されようとしていますが、今度の判決が大きな働きをすると思います。 この間の水俣を訪ねた際に、先ほど申し上げた患者さんが高校生の前で話をしたのを原稿に起した文書を聞かせて頂きました。彼女はその話の中でしきりに、「水俣病事件はまだ終わっていない」と語っていました。彼女にとってはすでにチッソとの和解などによって金銭的な賠償などは終わっています。でも、彼女の記憶には未だに苦しみや悲しみがあり、また、肉体的な苦しみが続いています。彼女にとっては全く終わっていない事件であります。私たちもこの問題を一部の被害者だけの問題として片付けてはならないし、また、今度の最高裁の判決と共に終わらせてもならないと思います。なぜなら、決して公害問題は遠くにある人々の問題でなく、私たちの問題であり、私たちの子供の問題であるからです。 さて、今日の聖書の個所はヤコブの手紙でありますが、読んでいただいたように、最後の所に強い言葉として、私たちが「思い違い」をしてはならないと諭しています。これは私たちが天地を創造された神様を呼び求める者であるが故に、思い違いをする可能性に対しての言葉であります。また、私たちは罪が赦された者であるが故に、思い違いを犯す可能性を警戒している言葉であります。 今月は「罪」をキーワードにして共に聖書から聞いていますが、先週と先々週は人々は全て罪人であって、また、この罪問題を私たちの一人一人の問題として受け止めなければならないし、また、人は絶対的な善を知ることも、成す事も出来ないので、イエス・キリストに従うべきであると言う旨のメッセージを申しました。 今日の個所はこのことを誤解して、私たちはどうせ罪人であるから自分の罪に対して何の責任能力もないと言ってはならないと諭していると言っても良いと思います。また、私たちの罪は赦されるから、何をやっても自由であると言うような思い違いをしてもならないのであります。 今日の個所のすぐ後の17節以降にも示されていますが、神は天地万物と人間を創造して甚だよかったと語りました。全てを良いモノとしてお造りになったったのであります。その時は悪魔もサタンもありませんでした。しかし、人間がこの神様の業に対して勝手にこれは美しい、これは醜い、これは善い、これは悪いなどと判断をするようになりました。そして、時には自分の心から起される罪を悪魔の業だとか、神の業だとか言いながら自らの責任から逃れようとするものとなりました。 自分の罪を神の責任であると言うような事を喩えをもって一つ紹介します。実際、私が幼い時、目撃した事であります。私の家の隣には溝がありましたが、ある夜、人が酔っ払ってそこに落ちました。体中に溝だらけになって大変臭くなっていました。その人は我が家の玄関を叩いたわけであります。外に出てみるとその人は自分が何を言っているのか、分からないようで「ここに誰が溝を作ったのか、お宅が作っただろう」と言いながら、その責任をとって一晩泊まらせろと言っていました。 テレビのコメディのような場面であります。その時、私は何と答えたのか分かりませんが、今であれば、皮肉を込めて「お酒を飲んで溝に落ちたから、そのお酒を造った人に責任があります」と答えるかも知れません。 これは全く笑いたくなるような話でありますが、今日の聖書の個所はこのような事を警戒しています。つまり、自分の欲から起された罪を、神様に責任があると言う思い違いをしてはならないと語っています。そのような荒唐無稽な思い違いをする人がいるだろうかと思われるほどの事であります。言い換えれば、聖書にそのような余計な警戒の言葉を書き記す必要もないのではないかと思われるほどのことであります。 しかし、実際にそのような人がいたからこのようなことが記されていると思います。そのような教えを説く人もいただろうと思います。また、私たちも自分にはどうしようもないないと思われるほど大きい困難を前にして、思わずそのような事を呟いてしまうのが私たちの弱さかも知れません。 15節に示されていますように、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」と記されていますが、確かに、私たちたちは様々な「欲」をもっています。代表的なモノだけを申しますと、食欲、性欲、所有欲、名誉欲であろうと思います。生きている人は全てこのような基本的な欲が備えられています。また、これは神様が私たちに生きるのに必要であるから備えてくださったモノであります。 この事を喩えで言えば、酒、自体が悪モノではなく、適量に飲むことの出来ない人が悪いのであります。このように考えますと、「欲」自体が絶対悪であって、それを徹底的に取り除かなければならないとも思いません。 因みに言いますが、教派や時代によっては、酒自体を悪いものように扱って、見るのも触るのも禁止するような教えをする事もありましたが、そうであれば、婚礼の為にイエスが水を葡萄酒に変えた事を如何読むのか私には分かりません。 昔、ある坊さんが書いて本を読んだ事がありますが、その本の中にこのような話が出て来ます。私が若い頃、様々な欲に曝されていた時、この事を大いに悩み、それで、「欲」というモノ自体を憎んでいた時でもありましたので、その言葉が私の心に鮮明に残ったと思いますが、ある青年が、有名な修道僧に修道を続ければ、欲がなくなって行くものであるかと訪ねます。するとその僧侶は喩えとして「生きている土地に草が生えないのか、しかし、勤勉な農夫の土地に雑草があるのを見たか」と答えます。私たちは全ての欲を無条件憎むものとして抜き取る事が出来ません。しかし、この欲ままに従ってもならないのであります。 生きている限り、欲と誘惑は付きまとうものであります。しかし、繰り返しになりますが、この欲は畑の雑草のように全く余計なものでもありません。神様が私たちに生きるのに必要なものとして供えてくださったからであります。しかし、神様が備えて下さった「欲」であるからと言って、その欲を満たすための如何なる努力も何の罪にもならないと言いながら、「貪欲」であるとしかいい様のないところまで、その欲を追求するのであれば、これこそ自分の内から生じる欲による罪であります。しかし、このような自分の欲からの罪を神様から与えられたモノであると言うのであれば、神様への責任転嫁であります。自ら、責任の所在を知っていながら、故意に神の責任とする事であります。 神様によって私たちにプレゼントして与えられた全てが神様が望むように用いられる時、それは喜ばしいモノとなり、聖なるモノであろうと思います。つまり、私たちに供えられている欲さえも神様が見るに善き形で用いられる時、神様は私たちを見て喜ぶのであります。 しかし、思い違いをしてはならないのであります。先ほど酒に酔っ払った人の話をしましたが、これは如何でしょうか、一般的には酒に酔っ払って、責任能力がない状態で犯罪を犯すとその事は裁判所によって考慮されます。つまり、ある程度軽くなります。このような事を知っている人が、例え、わざわざ自ら酒を大量に飲んで責任能力のない状態に落ちいてから、何かの犯罪を犯しても、裁判所はその人は責任能力がなかったのでという理由で刑を軽くするでしょうか。そうではありません。自らそのような原因を作ったので全く酒に酔っていたことは考慮されません。 私たちの全ての人は原罪のただ中、つまり、生まれながら罪人であるという神様の宣言は私たちの如何なる罪に対しても責任能力がないということを言っているのではありません。このことを聖書に従って言えば、アダムとイブは如何なる罪に対しても自ら罪の認識を麻痺するために善悪の果実をとって食べたわけではありません。また、そうにもなりませんでした。彼らも善悪の果実を食べた後、自ら罪を知っていました。つまり、神様が彼らを呼ぶと罪を知っているが故に隠れるようとしたのであります。私たちは罪のただ中にいますが、罪を知らないわけではありません。 今日のヤコブ書は信仰の実践的な面を主に語っていますが、さすがに、今日の個所もその通りであります。私たちは何も困難がない時は、神様に感謝する事はさほど難しくありません。しかし、何か困難や試練が生じた時は先ず「何の間違いもない私に、何でこのような不幸が降りかかって来るのか」と叫び、そして「神様は何をしているのか」とまで言いたくなるモノであります。このように私たちは生活の中で何かの試練が与えられた時、信仰においても試練ないし困難が起こるのであります。そして、自らの罪を神からの誘惑であるとか、神が自ら造った罪であるとか言うような思い違いをもしてしまいます。このようにならないように今日の個所は私たちに諭しています。 なぜ、人々は試練が与えられるとすぐ自分を失い、神を失うのでしょうか。神様の約束の言葉に聞くのでなく、自分の言葉に聞くからであろうと思います。つまり、試練が試練で終わるかも知れない、この試練は意味のないひたすら憎むべきものであるというような自らの思いに捕らわれるからであろうと思います。 しかし、神様は言います。神様の約束によって耐え忍ぶものは幸いであります。そのような試練を忍びとおした者には永遠の命のかんむりが与えられます。この約束に立つ時、私たちは始めて今の試練や困難が無意味なものでなく、神様によって与えられる人生の糧として受け止める事が出来るのであります。 確かに、私たちには誘惑に弱い欲が備え付けられています。しかし、それだけではありません。欲を警戒することの出来る智恵も神様によって備えられています。誘惑や欲から来る試練を忍ぶ力をも備えられています。私たちの弱さを助けてくださるイエス・キリストも神様によって私たちに送られています。 今、私たちは生きる全ての領域において神の栄光が表されることを願うキリスト者として立てられています。それが故に、私たちの心の中にある欲さえも無条件に憎むのでなく、神の栄光の為に用いることを願う者でありたいのであります。決して、そのような欲にただ従いながら、神様から与えられた弱さであって、罪であって、誘惑であると言って自分の責任を逃れようとしてはならないのであろうと思います。 |