| 2004年10月24日 |
| 「肢体を義の僕として」(ローマ書6・15〜19) テーマ:『罪』、キリスト者は死と復活のイエス・キリストの僕である。 時:04.10.24. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
先ほど司会者から今日の聖書の個所を口語訳で読んで頂きましたが、口語訳でない聖書も多くの方々がお持ちであろうと思います。私たちの教会は聖書を統一しないで、それぞれ好きな聖書を使う事にしています。聖書だけでなく、讃美歌集も礼拝用の賛美歌集として一冊を決めないで、教団賛美歌や新生賛美歌などを使っています。また、祈祷会では「聖歌」も使っています。おそらく、私たちの教会のようにそれぞれ使い慣れた聖書を使うとか、多種の讃美歌集を使おうと言う方針をとっているのは珍しいと思います。これは私が就任する前から決まっていたことでありますが、個人的にはこの方針が好きであります。 私は今も口語訳を固執していますが、これは別に特別な理由があるからでなく、始めに手にした聖書が口語訳であったからです。それで、今もこの聖書が最も読みやすいし、手に慣れています。例えば、今、主流になっている新共同訳に切り替えたい気持ちにはなりません。 皆さんも私と同じく始めに手にした聖書に親しくなっていて簡単には手放せなくなっていると思います。人はこのように一旦なれた事を変えるのは簡単ではありません。 時には、身についてしまった考え方や行動様式を変えるのは極めて困難な事であります。ある人は人や社会を改革するのは走る車のタイヤを取り替えるほど難しいことであると言いましたが、私たちの様々な経験からも大いに頷ける言葉ではないかと思います。 そのような事は人だけではありません。これはオーストリアのローレンツと言う動物学者が始めに唱えた事であり、観察された事でもありますが、ハイイロ雁と言う鳥は、卵から孵化して始めに見た動く物を自分の親だと思い込む習性があるそうです。例え、動く人形をその雛の前に置くとそれが自分の親だと思い何時までもそれに付きまとうそうです。 これに似たようなことはハイイロ雁だけでなく、動物や鳥に多かれ少なかれ、広い範囲において観察されるそうです。兎に角、そのような雁の習性を利用して、人が雁の親に成りすまして育て、最後には自らプロペラ機に乗って雁を引いて旅に出る映画のシーンを記憶しています。 やや飛躍になりますが、この話と似たような話は聖書に出てきます。出エジプト記17章以下に出てくる話でありますが、奴隷として住んでいたイスラエルの人々は神様の計画とモーセの指導の下で多くの困難を乗り越えて、エジプトから解放されて荒野に逃れる事が出来ました。しかし、暫くすると荒野に水がないことを知っては、荒野で自分達の子供と共に殺すために導いたのかとモーセに文句を言い始めます。神様の計画に逆らおうとします。そして、エジプトに戻る事を願います。このような事は何回も繰り返されました。お腹が空いてくるとエジプトで食べていた肉が美味しかった。そこでは腹一杯食べることが出来た。それが幸せであったと言いながら、また、エジプトに戻ろうと言ったりしました。 この事は彼らにはすでに奴隷の精神が刷り込まれていて、体は解放されていながも、心と魂はそこから抜け出ていなかった事を物語っています。つまり、彼らの奴隷精神はそのままであって、その精神から物事を見て判断をし、語っていたのであります。 この事を喩えで言えば、奴隷をもっていた主人がある日は一所懸命に働く奴隷に褒美として、その奴隷を自由人にしてあげようと決心をしました。それで、奴隷としての身分から解放し、当分の間の生活費まで上げながら、自由に生きるように命じます。するとその奴隷は今までの習性が柵となって、どうすれば良いか分からなくては、主人にお金を返しながら、奴隷として主人の下に残した下さるように願うようなことであります。奴隷精神が骨の芯まで染み込まれているからであります。ここまでなりますと、これは奴隷精神中毒症と言っても良いと思います。 中毒とは自分の意思をもってある状態から抜け出る事が出来ない現象を言いますが、今申し上げた奴隷精神による中毒だけでなく、私たちの周辺には様々なことで中毒になっている人がいます。アルコールによる中毒、麻薬よる中毒、ギャンブル中毒、セックス中毒、お金中毒、少し軽いものとしてはタバコ中毒などがあります。これらを言い換えれば、アルコール中毒とはアルコールの奴隷であります。麻薬による中毒とは麻薬の奴隷であります。お金による中毒はお金の奴隷であります。自分がお金やアルコールを支配するのでなく、お金によって支配されているからであります。それを奴隷と言わずに何と言えるでしょうか。 しかし、考えてみたらこれらの中毒は自覚症状があります。ある程度「罪」意識があります。にもかかわらず、自力ではそこから脱出できない状態に閉じ込められているのであります。こう考えますと更に悪い中毒があります。自覚症状のない中毒があります。これは罪意識のない中毒であり、自分は絶対正しいことをやっていると思い込んでいる中毒でありますが、今日の聖書の個所の例で言えば、律法による中毒であります。 今月は「罪」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、神を知らないこともある意味で自覚症状のない中毒であります。しかし、私たちは十字架のイエスの前で全ての人にある原罪としての罪を知らせられ、また、自分の具体的な罪と弱さをも自覚し、今はこのようにイエス・キリストを求める者となりました。自分が自分を改革したのでなく、神を呼び求める者として改革されたのであります。 先ほど言いました律法による中毒とは律法を厳しく守る事は無条件に良いことであると言う意識であります。人を殺してはならないと言う律法を守る為には人を殺しても良いと言うような矛盾に繋がる意識であります。昔も今もそのような事が起こっています。例えば、アメリカにあった事件でありますが、中絶をする医師を熱心なクリスチャンが銃で攻撃した事がありました。昔のパウロも律法を破る事を教えているという理由でステパノを殺すのに賛成をしました。 少し話が変わりますが、以前、広島の平和公園に行った事があります。ところが、一つ、私には不愉快な事がありました。公園の中心に日の丸が掲げられていました。勿論、国を大事にするのは良い事であります。しかし、原爆の被害を訴えるのは、日本人として訴えるのでなく、人類として訴えなければならない事であります。日本の歴史から語るのでなく、人類の歴史から語るべき事であります。それなのに、日の丸を掲げて訴えるのであれば、その意味は半減ないし、歪曲されたものになってしまうのではないかと思われました。 おそらく、それは無条件に国を愛することは良い事だと思い込んでいる人々の考え方による業であろうと思いますが、これもやはり自覚症状のない罪であります。 さて、今日の個所はパウロによる手紙でありますが、パウロの律法理解とイエス・キリストによる恵みの理解を知ることの出来る個所であります。あらゆるこの世の柵や奴隷の状態から解放され、イエス・キリストを主と告白するものは幸いであります。そこに本当の解放と命があるからです。 ご存知のように、パウロはいち早く自分の信仰体験を踏まえて、いわゆる信仰義認を訴えていました。つまり、律法を行なって義人として認められるのは不可能であり、また、神様が望むところではなく、イエス・キリストを救い主として告白する信仰こそ義人として認められる唯一の道であることを訴えていました。するとこの事を誤解したのか、あるいは歪曲したのか、「パウロの話によると、信仰者には如何なる規範も要らなくなって、ただ無秩序と乱れなに陥るだけではないか」と反論する人々が現れわれました。このようなことで大いにパウロは悩まされた事は彼の手紙のいたる所で読み取る事が出来ますが、今日の個所を書く時、ふとこの事が頭をよぎったのか、反語法で「律法の下にではなく、恵みの下にいるからといって、私たちは罪を犯すべきであろうか」と自問自答しています。。 確かに、私たちはパウロが言うように古い律法からは自由にされています。と言って、何の規範も私たちはもっていないかと言えば、決してそうではない。イエス・キリストという生きている規範をもっています。すなわち、イエス・キリストの僕であって、生きるのも死ぬのもイエス・キリストと共にという信仰に立っているのであります。 この世の全てに対して主人として生きるのか、奴隷として生きるのかは私たちの選択次第であります。神様はそのような選択肢をイエス・キリストを通して用意してくださったのであります。イエス・キリストはこの世のすべの相続者であって、彼に従うとは彼と共に私たちもこの世の相続者となると言う事であります。私たちは信仰によって彼の体をなしているからです。 これとは逆にある人が金や、アルコール、ギャンブルなどに従うのであれば、それらの奴隷になっている事であります。 この事を今日の個所でパウロは「罪に従う罪の奴隷になるのか、罪から解放され、義の僕となるのか」という選択であると語っています。 ご覧になった方もいると思いますが、「親分はイエス様」と言う映画がありました。極悪非道の数々を繰り返していたヤクザたちがあることをきっかけにイエス・キリストの愛に目覚めて、伝道集団として活動するまでになった実在の集団“ミッション・バラバ”をモデルにした映画であります。主人公のヤクザには妻と小さな娘がいましたが、ある不始末から妻子を残し逃亡を余儀なくされるようになりました。その間、彼の無事を祈り、ひたすら彼を信じて待つ妻の心の支えとなったのはイエス・キリストの教えである事を知って、自分もイエス・キリストに従う事を決心するようになったというストーリであります。 私はこの映画の「親分はイエス様」と言うタイトルが心に響く物があるなと思っています。彼らはヤクザの世界を知っています。と言うより、その世界に身をおいて生活をしていた人々でありますので、その世界の感覚が心の深くまで染み付いていたはずでありますが、その世界は親分・子分と言う関係によって組織され、秩序を保っています。子分には親分に対して絶対服従が求められます。例え、悪事であろうとも指示されたら、従わなければならないし、それによって彼らは甘みをすいながら生活を営んでいました。全く暴力や力関係による奴隷でありました。 最近、私は一寸した悩みがありました。携帯電話にアダルト関係会社の者だと自称している人からメールや電話が来て、6万ぐらいのお金を払えという話でありました。多分、ヤクザなどによる組織だと思いますが、はじめにその話を聞いて腹が立って怒鳴ったり、後は落ち着いて、ゆっくり話をして分からせようとしてみましたが、全くラッチが開きませんでした。 彼らは全く自分のたちの論理しかもっていないので、私がどんなに真実と誠意をもって、巧みに言っても全く無駄かなと思って、仕方なく携帯電話のメールは解約してしまいました。 「親分はイエス様」の映画の主人公達も似たような事をしていたかも知れませんが、彼らがイエス・キリストの教えや愛を知ってからは今までのヤクザの親分に従うのを棄てて、イエスが親分だと唱えるようになったのであります。その心が生々しくそのタイトルに込められているのであります。 先ほど、人や社会を変えるのは走る車のタイヤを取り替えるほど困難なことであると言いましたが、彼らは十字架のイエスの死と復活を知って、ヤクザから伝導集団となりました。これは恵みであります。ある意味では奇跡であります。自らの力では抜け出ることの出来ない状態からイエス・キリストの助けによってそこから脱出することが出来たからであります。 今日の個所16節はローマの人々、すなわち、この手紙読んでいる人々に決断を迫っています。「あなた方は知らないのか。あなた方自身が、だれかの僕となって服従するのなら、あなた方は自分の服従するその者の僕であって、死にいたる僕ともなり。あるいは義にいたる従順の僕ともなるのである」と。 私たちはすでに義にいたる道としてのイエス・キリストに従うものとして立てられていますが、これからも揺らぐことなく共にこの道を歩みたいと願っています。 |