2004年10月31日

「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ福音書21・15〜17)

テーマ:私たちはイエス・キリストによって羊飼いとしての召命を頂いた罪人である。

時:04.10.31. 於:和白バプテスト教会 説教者:黄仁坤

先週は新潟地震のニュースで多くの方々が心を痛めました。また、命の尊さも目の当たりにしました。奇跡だと言われていますが、皆川ゆうた君が三日ぶりに地震による土砂崩れの中から救出されました。レスキュー隊が二次災害と言う危険の中で、懸命に救出作業をするのを見ながら、「人間の命は地球より重い」という事を再度確認する事が出来ました。「人間の命は地球より重い」と言う言葉は「よど号事件」の時、人質救出に当たっていた当時の首相福田さんの言葉であるそうですが、これをキリスト教的な言い方をすれば、「一人の命は神様によって与えられた絶対価値である」と言うことになろうかと思います。

一方、これも私たちの心を痛めている事件ですが、黒い覆面をして香田さんを前に座らせて自分達の要求が受け入れられなければ、「殺す」と脅かしている人々をもテレビを通して目の当たりにしました。これは自分達の政治的、宗教的な信念が「人の命より重い」という考え方の現れであります。覆面の裏にある顔を知りたいですが、彼らは自分の素顔を見せる事が出来ないようであります。正しい事をしているのであれば、また、自分達が恥ずかしくない事をしているのであれば、素顔で堂々とやってと言いたいですが、彼らは色々な弁明をもって覆面の裏に隠れ続けるだろうと思います。

考えてみたら、人は覆面をしたり、仮面をかぶる事を昔から思いついたようであります。私たちは色んな資料から知る事が出来ますが、西欧の文化においても仮面をかぶって舞踏会に出て、思う存分に喋ったり、踊ったりしていました。つまり、顔を隠すことによって

思うまま、欲のままをさらけ出す事が出来たわけです。これとは違うかも知れませんが、日本にも代表的なものとして「能」があります。

このように何処の国や文化圏にも仮面があろうと思いますが、韓国にも仮面劇や踊りがあります。私の知っている一つの中には庶民達、つまり抑圧されていた人々が劇のなかで仮面を被って支配層に対して痛烈な言葉や、笑いもって、風刺するものがあります。要するに、素顔の自分でなく、仮面のキャラクターを借りて、自分の気持ちや考え方を託すのであります。

今度の事件でイラクでの覆面をした人々は今申し上げた仮面的な効果を最悪の形で悪用していると言わざるを得ません。つまり、自分達の素顔は覆面の裏に隠し、これによって彼らの人間としての本心は忘れ去られ、虚偽的に作り上げられたイメージ、ない理念を代弁する道具として自ら転落してしまったのであります。

しかし、私たちは彼らを戦うべき相手であるとは思ってはならないと思います。それよりそのような覆面を脱いで素顔の姿に戻ることを期待し、またその時、和解をもしなければならない相手として受け止めるべきであろうと思います。

さて、今日の聖書の個所はとても有名な個所でありまして、殆どのクリスチャンは知っている話であろうと思います。復活のイエスがペテロに現れた場面です。ペテロと言えば、イエスが十字架に架かりそうになりますと恐ろしくなって、三度もイエスを知らないと言いながら、逃げてしまった人であります。それで、彼はいまや元の職業であった漁師になって魚を取っていました。しかし、彼は一晩中魚を一匹も取れず疲れ果てていたところにイエスが現れ、網を下ろすべきところを教え、魚を取らせました。それだけでありません。岸に炭火を熾してその上には食べ物も用意をしてくださったのでありましたが、今日の個所はお腹空いていたペテロのお腹が満たされた後、展開されるイエスとの対話の一部であります。

因みに言いますが、復活のイエスが弟子達に現れたのは今日の個所で三度目でありますが、ヨハネ福音書によれば、ペテロにあらわれたのは最後であります。このようにイエスは復活をなさっった後、愛する弟子達に順番に現れましたが、如何でしょうか。人間的な見方をすれば、十字架に掛けて殺した人々に先に現れて、気絶でもさせてから、弟子達に現れても良いのにと思われます。しかし、聖書の何処にも復活のイエスが彼を憎んでいた人に現れたり、呪いの言葉を掛けたという記事はありません。

話を戻しますが、イエスは今日の個所でペテロにご自分を愛するのかと尋ねます。するとこれに直接答えることが出来ずに、「あなたが知っています」と間接的な答えをするだけであります。この質問は三度イエスによって繰り返されますが、三度目の質問に、ペテロは自分が三回もイエスを否定しながら逃げた事を思い出したのか、恥ずかしくなって同じくあなたが知っていると同じ答えをするだけでありました。いまや、生前のイエスにペテロがどんな事があろうとも死ぬまでついて行きますと言っていた勇みはありません。寧ろ、そのように言った自分のことばが恥ずかしくなっていました。正に恥ずかしくて穴でもあれば入りたいという気持ちであっただろうと思います。

このようなペテロにイエスは現れて新しく関係を回復しようとしています。徹底的に破れていたペテロに過去を最早問わず新しく関係を築こうとしているのであります。繰り返しになりますが、ペテロはもう恥ずかしくなり、自信を失ってまっすぐに答える事も出来ない気持ちでありましたが、イエスは、自分を愛するのであれば、その答えとして「ご自分の羊を飼いなさい」と命じるのでありました。

突然ですが、私の幼い時の話を少しします。私は母親に子供の時、よく尋ねられましたが、学校で何かの試験を終えて家に帰ると母親が「今日の試験は如何だった」と尋ねていましたが、私が「易しかった」と答えますといつも心配そうに「そんなはずがないのに」と決まってそう言っていました。時には「難しかった」と答えますと「良かった」と言いながら安心をしていました。確かに、母親の予測通り、「難しかった」と答えた試験の結果がいつも良かったことを覚えています。

ペテロの性格はかなりおっちょこちょいな面がありますが、例えば、イエスが水の上を歩まれると先生私にも歩ませてくださいと言ったり、「死んでも従います」と調子の言い事を言っては、間もなく、三度もイエスを否めたりしていましたが、私もペテロと似ているところがあると思います。簡単に何かのことについて分かったつもりいたり、人に頼まれてはすぐ「わかりました」と引き受けながら、なかなか実行できずに一人で悩んだりしてしまう事があります。兎に角、そのような私の性格を早くも見抜いていた母親でありましたので、私が何か試験が受けた時の私の答えが、「難しかった」となると喜んでいたと思います。つまり、母親はその答えをそれなりに良く考えて私が解答をしたと判断していたようであります。

また、そのような私の性格でありましたので、母親は良く私に「お前に何かを言う時には棒でもって耳を穿りながら言わなければならない」と言っていました。日本語に直せば、「タコが出来るまで言わなければ」となるかと思いますが、兎に角、私は良く何でも知っているつもりになる性格でありますが、今日の個所のイエスがペテロに話をしているのを見ると幼い時、私の母親が私に話をしていたような場面であります。

イエスはすでにペテロの性格を見抜いています。ペテロもそれを認めて17節で「主よ、あなたは全てを知っています」と答えますが、兎に角、イエスはペテロに「私を愛しているのか」とほぼ同じ質問を三回も繰り返します。そして、愛するのであれば「ご自分の羊を飼いなさい」と命じるのであります。イエスがペテロの耳を棒をもって穿りながら話をしているような場面であります。

今日の個所のイエスとペテロの遣り取りを様々な観点から検討できると思われますが、今日の特に二点を共に考えてみたいと思います。その一つはイエス・キリストの羊は誰なのか。もう一つはペテロは今日の個所の出来事を通してイエス・キリストを正しく理解し、その命令を実行していただろうかと言う事であります。

イエス・キリストが集め飼おうとしている羊とは誰でしょうか。今月の召詞でもありますが、イエスは健康な人の為にこの世に来られたわけではありません。つまり、神様から離れ、迷い出た羊を集め、飼うためにこの世に来られました。神様の御旨から離れていた者を集め悔い改めさせ、神の言葉の下に置こうとして来られたのであります。

始めに申し上げた覆面をして神から与えられた香田さんの命を殺そうとしている人たちも、そのような意味で神の元から迷い出た羊であります。ですから、私たちは彼らを敵として定めるのでなく、神の言葉によって飼わされるべき者であると見るのであります。今日の個所のペテロ自身もイエス・キリストの前で徹底的に破られ、弱り果てていた一匹羊であります。にも関らず、その彼の為にイエス・キリストがわざわざ訪れ、いまやご自分の羊を飼うように言うのであります。ここで気をつけたいのは、決して、ペテロの羊を飼うのでなく、イエス・キリストご自分の羊を飼いなさいと言っておられるのであります。

如何でしょうか。私たちがペテロの羊として集められているでしょうか。決してそうでありません。復活した御子イエス・キリストの羊として集められています。おそらく、ペテロに気に入られて、また、変わりやすいペテロの性格に耐えられる事の出来る方は殆どいないと思います。私たちも今日の個所のイエスの前でのペテロのように、徹底的に破られていても、弱り果てていても、また過去において神を裏切っていても、如何なる過ちを犯していても、「それはもう済んだことだ。二度とそれを思い出さない」と語り続けるイエス・キリストであるからこそ私たちはここに集い耐える事が出来るのであります。そして、いまやそのような私たちにイエス・キリストはご自分の羊を飼いなさいと語っておられるのであります。イエス・キリストによって集められた者は幸いであります。

では、ペテロは今日の個所の出来事以来、全く正しくイエスの言葉を理解し、更に、間違いもなくイエスが望んでいた羊を集めていたでしょうか。そうではありません。多くの間違いをも犯しただろうと思います。「多くの間違い」と言うのは私の推測であります。しかし、ペテロが自ら「イエスを愛する」と言った自分の言葉を自らが理解できていませんでした。更に、「イエスが捜し求めていた羊とは誰か」と言う事を理解していなかったという事を窺い知る事の出来る出来事を聖書は語っています。

使徒行伝10章9節以下に記されていますが、この個所はある意味でペテロの本当の改心であります。つまり、ペテロがやっと本当に神の声を聴いて造り変えられた事を伝えています。ペテロは今日の個所での出来事以来、教会つくりや伝道の為に走り回っていました。しかし、今日の個所では三度も聞かれ、三度も答えたのに、まだイエスの本当の声は聞いていなかったのであります。

使徒行伝10章9節以下を見ますと、ペテロは伝道においても祈りにおいても熱心でありました。そのような日々を過ごしていたペテロでありますが、ある日は人の屋上で居眠りをしていましたが、夢で神様が彼に語ります。つまり、仮の改心の状態にあったペテロは今までの慣わしや考え方から抜く出る事が出来ずにユダヤ教的なの教えにしがみついていました。それで、彼にとって人が食べてはならない汚れた動物があったり、食べるのが赦される清いモノがあったりしました。そのような彼に神様は清くないとされている動物を見せながら屠って食べなさいと命じます。すると彼は自分が信仰に正しい人であると言わんばかりにそのような事は出来ません。また、そのようなことをした事もありませんと言いながら神様の言葉を拒みます。すると神様は自ら「清められたモノを清くない」と言ってはならないと諭します。このような遣り取りをここでも三度繰り返されます。

余談になりますが、ペテロに関る話の中でなぜか、神様と彼との対話の中で言葉が三度繰り返される個所もまた三箇所あります。数えて見ますと、初めはイエスに死んでも従いますと言いながら、三回もイエスを知らないと答えた個所であります。次が今日の個所であってイエスを愛すると言う言葉の間接的な言い方として「主、あなたが知っています」を三回繰り返します。そして今紹介した使徒行伝の個所でも「清くないものは食べられません」と三回繰り返すのであります。

この使徒行伝の個所を通して神様はペテロの何を語ろうとしたかと言えば、実はコルネリオという異邦人をペテロに受け入れなさいと言おうとしていました。その時までのペテロは神によって造られ、神の恵みよって清められている人をも自分の教理をもって清くないとして拒んでいたのでありました。しかし、この使徒行伝の出来事を通して彼は全ての人に開かれた心をもつようになったと思います。つまり、全ての迷い出た羊が、全ての罪の只中いる羊がイエス・キリストが集めようとする羊である事を知ったと思われます。これが本当ペテロの改心でありました。

今日はご覧のように主が用意してくださった晩餐が私たちの前に備えられています。これを頂いて霊的に満たされ改めてイエス・キリストの羊を集め、飼う事を決心できればと願います。