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2004年11月21日 |
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「悔い改めによって」(ルカ13・1〜5) テーマ:『悔い改め』、悔い改めのみが永遠の命を得る機会である。 時:04.11.21. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
久しぶりに皆さんに伺うような気がします。先々週は私たちの教会に木村公一牧師をお呼びして特別伝道集会を持ちました。それが終わって、私は連盟の定期総会に出席する為に東京に行って来ました。また、先週の日曜日は私が芦屋教会の特伝の講師として呼ばれて行って来ました。そして、今週は慣例に従いますと収穫を感謝しつつ礼拝を捧げる週でもあります。それで、今日は色々申し上げたい話が積もっておりますが、出来るだけ今日の聖書の個所のテーマに沿うような事を申し上げます。そして別の機会に特に特伝について共に考える時があればと願っています。 今年は例年より自然災害の多い年でありました。この間、総会出席の為に、東京に行った時でありますが、総会が開かれた天城山荘まで行こうとすれば、先ず、東京から新幹線で三島まで行って、次は、在来線に乗り換えて修善寺まで行き、更にそこからバスに乗らなければなりません。新幹線に乗っていた時は分かりませんでしたが、在来線の車窓から見ると23号の台風の被害がまだまだ生々しく残っていました。台風23号は九州地方は避け、関東地方を直撃しましたが、彼方此方の道路の脇などが水で流されたままであって、多くの水田には間だに稲が倒れたままでありました。おそらく刈り入れは諦めているのではないかと思われました。一年中苦労したのに収穫が出来ない農民には私たちの知らない悲しみがあろうと思います。殆ど収穫期になって台風による被害であったからその無念は更に大きかったのではないかと思います。 絶望的な事のように聞こえるかも知れませんが、人は必ずしも努力した通りの結果を得るのではありません。また、何が間違いをすればその場ですぐそれを償わなければならないという事もありません。時には幸運にも何かの間違いが見逃されたりします。私が神学生の時ですが、出席をしていた教会に韓国から多くの人々が来ていましたので、車三台で唐津まで行くことになっていました。それで私も運転をして、私が一番後ろについて走っていましたが、前の二台がスピード違反で警察に止められました。私も全く同じスピードで走っていましたが、警察は私の車のスピードを見落としたのか、同時に三台もスピードを計る事が出来なかったのか分かりませんが、私は幸運にもスピード違反のための罰金から逃れました。 これとは逆に、時には何の間違いをしていないのに不幸が訪れることもあります。この事は聖書にも出てきます。先ず、カインによって神様が見るに良きアダムが殺されました。ヨセフも父からより愛されたという理由だけで、兄たちによってエジプトに奴隷として売られました。 私たちに毎日のように伝えられるニュースを見ても、何の関わりもない人によって命を奪われる事もあります。いわゆる通り魔事件であります。強盗によって被害も全く不幸だとしか言い様のない事だと思います。それだけでありません。事故に巻き込まれたり、災害にあったりして多くの人々が命を落したり、財産を失ったりしています。 このような事を罪があるかないかと言う観点だけで見れば、すなわち、罪ある者は罰せられ、罪のない者には何の被害も、苦しみもあってはならないと言う観点だけで見れば、このようなことは全く不条理であって、説明のつかない事であります。しかしながら、この世にはこのような不条理は日常茶飯事に起こっている訳であります。 考えてみれば、一ミリの誤差もなく罪を犯した人は皆投獄されるのであれば、刑務所はこの世より大きくなると思います。すべてのスピード違反者が例外なく罰金が課せられるのであれば、国の財政は今より遥かによくなると思います。しかし、原因があるところに必ず、それに全く一致する結果が生じるということではないようであります。特に自然の力や人との関係が絡むとそうなるのであります。 ですから、私たちの信仰者は今日も守られ、生かされている事を感謝すべきではないかと思います。今日も食べられる糧が与えられている事を感謝すべきであります。神様の赦しがあって初めて、生きていて、収穫も出来るのであります。例え、少ない収穫しか出来なかったしても、その収穫を私たちは信仰によって感謝しまた喜ぶべきであろうと信じます。今日の命を信仰によって喜ぶべきであります。 誤解がないように申しますが、私たちが如何しようもない今の不条理が不条理のままで終わってしまう事がないことをも、また、私たち信仰者は信じています。つまり、最後の裁きの日にはすべての罪を神の前で清算しなければならないのであります。永遠に闇に隠れて光に当たらないことはありません。それが真理であります。 もう一つ大きな自然災害として、新潟地震が最も記憶に新しいモノでありますが、まだ復旧がつづけられています。この自然の力の前には人間は呆然とするしかないものであります。最新の技術を尽くして地震対策を施した新幹線も今度の直下型地震には如何しようもなかったようです。直下型でない時であれば、地震が発生する直前に出る波動を予め感知して、新幹線が停止するシステムになっているそうですが、今度のような場合にはそれを技術的にも防ぐ事は出来ないそうです。このように、台風のであろうとも、地震の場合であろうともこれに対応するのには人間の知恵には限りがあります。また、自分ひとりでどんなに注意しても避けられない事件に会う事もあります。今日の聖書の個所を見ますとそのような事件・事故による被害者が言及されていて、当時の人々がそのような事件・事故を如何理解していたかを伺い知る事が出来ます。 さて、今月は悔い改めをキーワードにして共に聖書から聞こうとしています。と言っても今週と来週だけでありますが、今日の聖書の個所が悔い改めとは如何に大事であるかを語っています。当時、話題になっていた事件・事故がありました。イエスはもし悔い改めがなければ、事件・事故に巻き込まれることなく、幸運にも生き延びる事が出来ても、事件事故によって亡くなった人々と変わりのないことだと言っています。言い変えれば、本当の命は肉の命があるかないかだけによるのでなく、悔い改めから始まるという事であります。 人々はすべて罪人であります。自分は罪がないと信じる人は悔い改めもできません。ですから罪が知らされ、悲しむ者は幸いであります。本当の命、永遠の命がそこから始まるからであります。 時々、私たちはスーパーで目撃する事でありますが、もらったレシートを詳しく確認する人がいます。つまり、自分が買った以外の物が計算されているか、如何か、半額の札が貼られていたものがちゃんと半額に計算されたか、如何かを確認します。勿論、確認する事は悪いことではありません。私も時々していますが、私はこの間、ふと思いました。人がもし余計に安く計算されていたり、商品は籠に入っているが、レシートに打たれていなかったりするとどうするのであろうかと思いました。 人は得をしている時は、それが例え、不条理によるものであろうとも不平不満は言いません。それどころか、心中でラッキーと叫びつつ喜びます。時には神様有難うまで言うだろうと思います。しかし、損をするとこの世の不条理を呪い、時には神様は何も知らないとまで思うのであります。 話を今日の聖書の個所に戻しますが、今日の聖書の個所では二つの事件・事故が話題になっています。つまり、一つはピラトの軍隊によるガリラヤ人の殺害事件であり、もう一つはシロアムの塔が倒れて18人の死者が出た事故であります。もう少し詳しく申しますと、始めのピラトによるガリラヤ殺害事件は今日の個所の他に資料がないので推測に大いに頼るしかありませんが、そのような事件があった事が確かなようであります。ある日はガリラヤのある人が神殿で動物を捧げモノとしながら、礼拝をしていました。そのところを当時のイスラエルの総督ピラトの軍隊が、神殿まで来てガリラヤの人を殺害すると言う忌まわしい事件が起こりました。その事をある人がイエスに報告をするところから今日の個所が始まっています。 1節を見ますと「ちょうど、その時」と言う言葉から始まっていますが、イエスが12章後半から最後の裁きと悔い改めを群衆に語っていたところでありましたが、その時、ある人が先、申しました忌まわしい事件を報告したわけであります。 この事件は信仰的にも大変な躓きになりそうな事件であります。信仰者が礼拝をする最中に殺され、更に、これによって、神様自らがしてはならないと事として定めたことに反する結果になってなってしまったわけであります。つまり、人の血が動物の血に混ざったまま祭壇に上で捧げモノとして置かれたのであります。当時の人々にはこれは到底説明できない事件であったかも知れません。 このような事が起こりますと、今の時代の人々もそのようなところがありますが、その人は人々の知らない罪によって罰を受けたなどと思い、納得できなかったことを一旦心の中で片付けたりします。そのような事を見抜いているイエス群衆に向かって、もしあなた方も悔い改めがなければ全く同じく滅びてしまうと言います。言い変えれば、悔い改めがなければ、例え、今生きていてもそのような忌まわしく事件によって命を落すことと同じだという事になります。 そして、更に、イエスはシロアムの塔が倒れた事故をも悔い改めに関連させながら語ります。当時としてはシロアムの塔の倒壊は大型事故であっただろうと思います。今の時代のように大型事故が多発する時であろうとも18名の死者の事故は大きいのに、当時としては尚更のことであります。 それだけの多くの噂もあったと思われますが、イエスもこの事を良く知っていました。また人々の心にも強烈な出来事して残っていたようであります。このシロアムの塔は水路の確保の為に立てられた塔であったそうですが、一つの噂として、神殿建設の為にささげられたもので水路の為の塔を建てたから神の怒りがあってそのように倒れたとも言われていたようであります。 また当時の宗教指導者たちにはその事故にあった人々に神だけが知る罪があってそのようになったと言う人もいたようであります。この言葉の裏にはそのような事故にあっていない自分達にはそれほど酷い罪はないと心があります。しかし、イエスは、悔い改めがなければ、この事故の犠牲者と等しく皆滅びると言うのであります。 これに似たような考え方は日本人の心に根強く残っているのではないかと思います、つまり因縁によって罰があたるという考え方であります。時には先祖の罪によって祟りを受けるなどをも言います。このような日本人の心に便乗して宗教紛いの事を言い、時には恐怖心を煽り、利益をむさぼる者もいます。例えば、統一協会は先祖の祟りから逃れるためには罪を閉じ込めるための壷を買わなければならない等と言って高額で買わせています。このような事はあまり言及する値打ちもないですが、現実にはある問題であります。 イエス・キリストは言います。最後の時にご自分がこの世に来て、生きている者もすでに亡くなった者もすべての人を裁きます。言い変えれば、すべての罪の清算はその時、行なわれるのであります。 その時の準備の為に私たちは今悔い改めて、神と共に歩むべきであります。余計な思いを巡らしながら、不安の中で過ごしたり、自分が自らを義人だと騙したりするのでなく、神に赦されるべき者として告白し、悔い改めなければならないのであります。 悔い改めとは何でしょうか。諸々の過ちをそれ以上犯さないようにする事も勿論悔い改めの一部であります。ここを時々、特にこの世の方々が思い違いをしますが、悔い改めとは今の過ちを正すことであると思う方がいます。 しかし、もっとも根本的な悔い改めとは神の元に戻る事が悔い改めの核心であります。つまり、自らがこの世の裁き主として生きるのでなく、すべては神の御手にあって、すべてを知っていて、すべてを正しく裁きたもう神と共に生きる決心をするのが悔い改めであります。 この悔い改めによってのみ、人は出来れば、神様が見るによき、神の僕としてこの世を歩みたいという願いが起こされるのであります。これから共にこの信仰の道を歩みたいと願っています。 |