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2004年11月28日 |
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「悲しみと悔い改め」(コリント第二7・5〜10) テーマ:『悔い改め』、真の悲しみは悔い改めに導き、それによって命を得させる。 時:04.11.28. 於:和白教会 説教者:黄仁坤 昨日は恵美姉妹と小鉢兄弟の結婚式がありました。多くの方々の祈りと奉仕によって心あたたまる素晴らしい結婚式ができたと思います。新郎新婦もとても感謝し喜んでいました。結婚式の土産として多くの花が教会に残っていますが、昨日の喜びの余韻が未だこの会堂に満ちているような気がいたします。 ナオミ(説教者の娘、三才)も真之介君(三才)と共に花巻をしましたが、それが楽しかったようで、昨日の夜はナオミがミヒャエラに(説教者の妻)自分も結婚したいと強請ったようであります。それでミヒャエラは私たちの結婚の時の写真を取り出して見せながらここまで大きくならなければ出来ないとなだめるのに時間がかかった様であります。 メッセージをを始める前に申し上げるべきか、後で申し上げるべきか大分迷いましたが、やはり先に申すべきだと思われたので、お知らせいたしますが、私たちの教会の開拓の時から携わり、未だに私たちの教会を愛して下さっていた佐藤夫妻が昨日を事故で亡くなったそうです。詳しくはまた後で申し上げますが、先ずこの事を覚えつつ、今日の礼拝を捧げたいと思います。 今日はまた第一アドベントの日であります。今日から教会はイエス・キリストの誕生を感謝し喜び、またクリスマスのための準備を始めるわけですが、そう言うわけで、今日は教会が特に華やかになっています。 これから日曜日毎にロウソクを一つずつ増やしながら火を灯しますが4つ目のロウソクに火が灯されれる日曜日はクリスマスを祝う礼拝であって、その週の24日にはクリスマスイブー礼拝となります。 毎年、アドベントの由来について申し上げて来ましたから、今年はその由来についての話は省きますが、私たちクリスチャンは特にアドベントと共にクリスマスが訪れるのを、後三週、後二週と数えながら待ち続けます。なぜなら、御子・イエス・キリストがこの世に来られたことによって、この世の歴史が新しく始まり、私たちの一人一人の個人史もまた新しく始まった事を共に喜び合いたいからであります。 さて、今月は「悔い改め」をキーワードにして共に御言葉から聞いておりますが、今日の聖書の個所を見ますと表面的で、感情的な悲しみと真の悲しみとをパウロは対比させています。つまり、ただ1人として涙を流しながら悲しむのは、パウロは「この世の悲しみ」と言っておりますが、このような悲しみは、死をもたらします。しかし、心の最も深いところまで達する悲しみないし、魂に触れるような悲しみは悔い改めに導き、命に至らせるという旨の話を述べています。 考えてみたら、悲しみにも、涙にも色々あります。例えば、愛する人が亡くなったことによる典型的な悲しみがあります。これに似たような事でありますが、親しい人と離れ離れになることによる悲しみもあります。この場合は怒りと言った方が言いかもしれませんが、自分に失望することによる悲しみもあり、他人に失望することによる悲しみもあります。また、人に負けたことによる悲しみや、人に怒られたり、裏切られたりして覚える悲しみもあります。そして、悲しみが深まって涙となって出てくる事もあります。 余談になるかもしれませんが、私は以前涙とは体のとこかにその液体が溜まっていてそれが刺激され流れてくるのかと想像していましたが、実は血液が涙に変わって出てくるそうです。始めにそれを知った時は不思議な気がしましたが、神様は薄い水のようなモノを涙としないで、命の象徴でもある血液をもって人間が涙を流すようにお造りなったのであります。日本では涙を流すことを出来るだけ抑えようとしますが、本当の悲しみから来る涙であれば、自然に流しても良いのではないかと私は思います。そのように人間は造られているからであります。 話を戻しますが、悲しみには、他人の事を心配し、他人の苦しみを見て覚える悲しみもあります。これがパウロの言う「この世の悲しみ」とは反対側にある悲しみではないかと思われます。イエス・キリストは私たちの罪を悲しみました。神様と和解できずに、律法の下で苦しむ人々を悲しみ、偽善的なパリサイの人々を見て時には怒り、また悲しんだのであります。その悲しみからご自分を神様との和解のための供え物として捧げたのであります。 パウロもイエス・キリストの伝道者として立てられた後は、自分のための悲しみより大いに他人の為に、教会の為に悲しみ、苦しみました。例えば、今日の個所で示されていますように、コリント教会の為に悲しみ、多くの涙をながしました。今日の個所の前になりますが、第二コリント2章は「涙の書簡」とも言われるほどであります。 コリント教会はパウロによって開拓された教会でありますが、多くの問題を抱えていた教会でもありました。具体的にどのような問題があったかは第一コリントの手紙に示されている通りであります。なるほど、開拓に携わっていたパウロにとってそのようなコリント教会がいつも気がかりであったようです。 しかし、聞こえてくる消息は益々悪くなるばかりでありました。時にはパウロを誤解したのか、中傷誹謗する人々も現われました。例えば、エルサレムの教会などの為に献金を集めた事に対してパウロが着服したなどの噂が立つほどでありました。 パウロはこのように、コリント教会は多くの問題もありましたから、時には厳しい言葉をもって、時には自分の悲しみを涙ながらそれを手紙に託し送ったわけですが、それがまた、その教会を大いに悲しませ、時には受け入れ堅いものとなっていたようであります。 ところが、今日の個所はパウロにとって大いに嬉しい知らせが届きました。伝道旅行の為にマケドニヤについた時、テトスがコリント教会からパウロの所に来て、コリント教会に変化があった事を、つまり悔い改めが始まったことを知らせてくれたのであります。今日の個所はその知らせを聞いた時のパウロの喜びを窺い知る事の出来る個所であります。 因みに言いますが、パウロは多くの書簡を幾つかの教会に書き送りましたが、このコリント人への第二手紙の一つの特徴として、パウロが伝道しながら経験した苦しみや喜びなどが良く現われています。そう言う事で、パウロの内面の世界を少し覗かせてくれる個所でもあります。 5節を見ますとパウロの当時の伝道の苦労がどのようなモノであったかが記されていますが、パウロは何処にいても休む暇もなく、様々な患難に会い、外には戦いが、内には恐れがあったと語っています。 そのような苦しみのただ中にいたパウロでありましたが、今日の個所はパウロにとっての大きな二つの喜びを伝えています。一つはテトスとの再会であります。私にはパウロの性格はどちらかと言えば、かなり厳格で、少し近寄り堅い人のようなイメージがありますが、今日の個所を見ますと、先ほど申し上げた苦しみと悲しみの中でも、愛して止まないテトスに出会って手を取り合って喜んでいるような場面が想像されます。パウロの人間臭さが現われる場面であります。 もう一つの喜びは繰り返して申し上げますが、コリント教会の悔い改めであります。悔い改めと共に、パウロについての誤解も解けて、パウロとの関係も回復されたようであります。この喜びを伝えながらパウロは今までの自分の悲しみやコリント教会にとっての悲しみは無駄でなく、その悲しみによって悔い改めに導かれたのだから喜ぼうではないかと語っているのであります。 先ほど悲しみと涙には色々あると申しましたが、その中で一つであると言っても良いかも知れませんが、「ワニの涙」または「空涙」があります。このメッセージを準備しながら「ワニの涙」とは何であるかが気になりまして、ミヒャエラに頼んで、少し調べましたが、実はワニは涙を流さないそうです。まぶたの上にある他の器官から涙のように見える液体が流れてくる事があるそうですが、それが涙のように見えてそのようなイメージと言葉が出来たそうであります。 兎に角、ワニのような凶暴な動物が涙を流すという意外性からそうなったと思いますが、幾つかの伝説もできまして、例えば、ワニは獲物をおびき寄せる為に子供のように泣くとか、自分によって殺される獲物を哀れんで泣くとかのようなモノがあります。そこから見せかけの涙を「ワニの涙」と言うようになったわけであります。ワニの涙と言う言葉は西欧では度々使われる表現のようで、あの有名なマーティンルーターも偽善的な悲しみの意味で彼の文書にも表れるそうです。日本語にも時々聞くような気がしますがそれより空涙の方がより使われるような気がします。 私たちの人間の悲しみや涙がただ表面的で、感情的なところだけに止まっているのであれば、それはある意味で本当の悲しみや涙でないと言わざるを得ません。例えば、何かを間違ったことを後悔して、悲しみながらもそれが正されなければ、それを本当の悲しみ、ないし涙であったとは言えないのではないかと思います。本当の悲しみや涙であれば、その人は過ちを正し、そこから立ち直るはずであります。更に言えば、悔い改めて神の元に戻るはずであります。 聖書には悔い改めに至らなかった悲しみが二つ紹介されています。一つはユダの悲しみであります。ユダは自分の期待通りに、動いてくれないイエスに絶望し、イエスを銀貨30枚で売りましたが、彼は直後それを後悔し悲しみます。そしてその銀貨30枚を神殿に投げ込んでしまい、首を吊って死んでしまうのであります。死に至らせた悲しみであります。しかし、最も心の深いところまでその悲しみが至っていたのであれば、そこからは悔い改めがおこったはずであります。つまり、自分の罪を自分で処理するのでなく、実際にはそのような事は人間には出来ないものでありますが、兎に角、自分の罪が神に赦される事を求めたはずであります。 そこから人は本当の命を得るのであります。生きる勇気と力が与えられるのであります。神の前に悲しむ者は幸いであると言う所以であります。 もう一つはエサウの悲しみであります。彼についての記事は創世記にありますが、彼は長子の特権を一杯の飲み物と交換してしまいました。長子の特権を飲み物一杯と交換したというのは信仰者としての特権を放棄したという事であります。言い変えれば、神の恵みによって赦されつつ、生きるのでなく、自分の力で生きるという意味であります。しかし、彼もそれの後悔し、すぐ哀願しながら、父にその特権を願い求めましたが、叶えられませんでした。それで、後も彼は自らの力で生き抜こうとした人となったのであります。その事をヘブル書12章17節は「涙を流しそれを求めたが、悔い改めの機会は得なった」と記しています。 この悔い改めに至らなかった悲しみの二つの例は私たちに大いに教えてくれるところがあります。つまり、罪や過ちは自ら処理できるものではないという事であります。この世が定める罪でさえもそうであります。罪が明らかになり、起訴された後は、それは裁判官に委ねるのであります。自らが自分は懲役10年と決めて10年間の自ら牢屋を作り、閉じこもったとしても国が定めた刑罰が免除されるわけではありません。 このように本当の罪意識から来る悲しみは自分では如何しようもありません。それで残された道は、それを神の前にもっていくしかないのであります。人はこのような限界や弱さを知る時から、神の声を聞く事が出来るのであります。この事をパウロも今日の個所の6節で「うちしおれている者を慰める神は」と語っています。話を纏めて終わらせたいですが、この世の悲しみ、つまり、表面的で、感情だけによる悲しみ、また自分の弱さと罪との自覚を伴なわない悲しみは死に至らせます。しかし、そのような弱さと罪とに気付かせるような悲しみは悔い改めに導いてくれるのであります。そのような悲しみは人に神の赦しと慰めを求めさせるのであります。この悲しみは命に至らせるのであります。無闇に悲しみを憎んではならないと思います。 |