2004年12月5日

「主の道のための声」(ヨハネ福音書1・19〜23)

テーマ:『聖誕』、救いはイエス・キリストとの出会いによって与えられる。

時:04.12.5. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

いつもこの時期になりますと、私たちは時が経つのが早いと感じます。そして、人と挨拶の代わりにそのような言葉を交わしたりもします。先週の金曜日にクリスマスのツリーを立てながらと去年と同じく「また、アッと言う間にクリスマスが来た」と言うような話をしました。

勿論、時間自体の早さには昔と変わりがありません。24時間の間、地球が一回転するのは昔も今も全く同じであります。しかし、人間が勝手に早く感じたり遅く感じたりするだけであります。

この間、ある方に会いましたが、その方とも時間が経つのが早いというような話を交えながら色々話を致しましたが、とても意義深い事を言って下さいました。私も全く自分の経験から共感できる話でありました。つまり、その方はある組織の中で規則正しい生活をしていますが、それで、その組織が組んだスケジュールに一々合わせなければなりません。朝の食事の時間、昼の食事の時間、風呂に入る時間などがきっちり決まっている訳であります。その決まった時間に自分を合わせながら一日一日を送らなければなりませんので、そのスケジュールに追われるような気がすると言っていました。

私も軍隊にいる時でありますが、3年の服務期間はとても長く感じましたが、一日一日は追われるような時間でありました。朝食を食べたばかりなのにまた昼飯かという感じでありました。このように、与えられたスケジュールに自分を合わせようとすると当然精神的な余裕もなくなって行きます。それで、出来る事が限られてしまいます。例えば、午前中には病院をよるとか、床屋によるだけで昼の食事にあわせなければなりません。私たちは何処かこれに似たような毎日を送っているのではないかと思います。それが現代人の生活のパターンかも知れません。その結果、余計に時間が経つのが早く感じるのではないでしょうか。

ところが、何処か島にでも行ってみたら時間がのんびりと流れるように感じます。走りながら電車の時刻に間に合わせなくとも良い環境であるからであります。常にスピードを出して走りまわる車の代わりに地べたで横になって犬が居眠りをするのような風景が人の心に余裕を持たせてくれるからであろうと思います。そのような所では都会生活のようにスケジュールに合わせてご飯を食べたり、散歩に出かけたりしなくとも良いのであります。  

お腹すいた時にご飯を食べるような、散歩に一寸行きたい時に散歩に行くような、自分の生活のリズムで自分の環境を自ら作りながら、時にはそのような生活をしてみたいと思います。

私たちは今この世というシステムのただ中に否応なく組み込まれたような者でもあります。それで、この世の全体がいそいそ回っていますから、私たちもその部品の一つとしていそいそ回らなければ、弾き出されるかも知れない、不協和音をだすかも知れないという心配と共に暮らしています。それで、ある部分仕方ないですが、でも、結局は時を如何管理するか、また、時の流れを私たち自身が如何感じるのかは私たちの生き方によるものであろうと思います。

私たちが今このように礼拝を共に捧げています。また、時の流れとは無縁でもある2000年前のイエスの誕生を覚えつつまたその日を待ち望んでいます。このような意味で私たちは時の流れが止まった一時を神の言葉と共に過ごしているのであります。

このメッセージを準備しながら時間を哲学では如何理解するだろうかと思い、哲学辞典を開いて見ましたが、時間について先ず二つの考え方があるそうです。一つは時間はそれ自身独立した存在でなく、出来事に還元されるべきモノであると言うのがあるそうです。

すなわち、2004年前の12月24日と言うだけでは何の意味もなく、その日にイエスが誕生したとか、その場に羊飼いがその誕生を喜んで賛美をしたとかのような出来事との関係で初めて2004年前の12月24日がクリスマスという意味が付与されると言う事であります。

もう一つはそれ自体独立の存在概念であるという考え方であるそうです。つまり、時間とは何かの流れる実在であって、単独で意味をも成すというようであります。更に、この二つの中間を行くような考え方もあると紹介されていました。また、現象学が言う時間の概念は上で申しましたような考え方とはまた違う第三の考え方をとっているようであります。その他に時間に関する色んな考え方が示されていましたが、私には良く分かりませんでした。

ところが、辞書の最後にキリスト教の時間の概念として「終末論的時間論」があると紹介されていました。これであれば、少しは分かりますが、終末論ないし終末論的時間論とは簡単に言いますと「今が神の裁きが近い時であって、キリストによって赦された者のみがその裁きから救われる」という信仰によっての時代ないし時の認識であります。ですから、キリスト者は常に終末論を生きる者でもあります。

この「終末」はすでに2000年前に始まっています。イエス・キリストがこの世に来れれた時から始まっています。これは時間はただ止め処なく流れるモノであって、もう2000年も過ぎたのにと言う常識からは理解できない事かも知れません。しかしながら、私たちクリスチャンは今も終末論において、2000年まえと同じ時代認識をしているのであります。つまり、聖書に予言されたように、メシヤがこの世に再び来られるが、このメシヤに自分の罪の赦しを求め、神と和解した者のみが神の裁きから逃れることが出来ると信じているのであります。

この終末論とは私は時々ブラックホールに喩えるモノだなと思っています。勿論、ブラックホールはただSFの世界で出てくる話でなく、実際にある現象でありますが、特にヨハネ福音書の始めやバプテスマのヨハネの言葉を見ますとブラックホールを思わせてくれます。ブラックホールはすべてを吸い込んでその中に閉じ込めておく全く想像を絶する引力でありますが、光さえも吸い込んでしまうと言う私たちの常識では全く理解できない現象も起こるのであります。

それでこれに喩えられますが、終末論においては時の流れが止まってしまったり、逆転してしまったりしまいます。つまり、ヨハネ福音書始めは始めに言葉があったと記されています。この言葉は時間の流れとは無関係に止まっています。そして神がこの言葉を発すると初めて現実の世界に現われたのであります。

また、9節にはイエス・キリストが光ないし言葉としてこの世に来られたが、この世にすべては彼によって造られたと記されています。イエス・キリストによって造られたと語られています。言い変えれば、後のモノが先のものを造ったという常識としては考えられない時の流れの逆転が起こっているのであります。

ところが、今、私たちも終末論と共に、2000年前のイエス誕生の時代と同じ時代を生きているのであれば、私たちにとって時代の流れは止まっているとも言えるのではないでしょうか。なぜ、このように時が止まったり、逆転したりしたかのように記されているかと言えば、すべての認識がイエス・キリストに集約されているからであります。イエス・キリストの御名の力によってこの世的な価値もこの世的な善悪の判断も時の流れもイエス・キリストという一箇所に集められ、凝縮されているからではないかと思います。イエス・キリストの誕生はこの世にそのような想像を絶する力ないし意味を与えたのであります。

今月は「聖誕」をキーワードにしてイエス・キリストがこの世に来られたことの意味を聖書を通して学びつつ礼拝を捧げようと願いますが、今日はバプテスマのヨハネの生涯や彼の言葉を通して救いとは何かを共に考えて見たいと思います。

バプテスマ・ヨハネはイエスと最も早く出会った人でもあります。ルカ福音書の始めあたりに出て来ますが、ヨハネも自分が母のお腹にいた時でありますが、マリヤのお腹に宿っているイエスに出会って喜んで踊ったと記されています。

ヨハネはイエスより6月お兄さんであり、親戚であります。この世においての活動もイエスより早く始められ、彼はもうすでに30を前後にして独自の教団を形成し、多くの弟子をももっていました。このヨハネがイエスに出会っては、イエスの靴紐さえも解く値打のない者だと告白し止まないのであります。

彼はいち早くユダヤ教の改革の為に、ユダヤ教に対立する姿勢を示していました。そのために自分の教団を設立したわけでもあります。これは推測でありますが、ヨハネの性格からユダヤ教にも激しく衝突していたと思われます。彼には激しくぶつかる革命家のようなイメージがあります。

彼の性格を知る事件を紹介します。彼は結局そのことで命を落すことにもなりましたが、当時のヘロデ王に向かって弟の妻を娶ってはならないと批判をしました。つまり、命が例え危ないと言っても言うべき事は言う人でありました。

そして、厳しい修行をも行なっていました。荒野でラクダの毛ごろもとイナゴや蜂蜜を食べながら生活をしたと言われるのを見れば、禁欲的な生活と共に修行に邁進していたこと思います。

彼のそのような活動がユダヤ教の指導者達には目障りになっていたようで、今日の個所では彼のところにユダヤ教指導者達が人を送って、予言者であるか、またはキリストであるかなどと訪ねさせるのであります。

するとヨハネはそのような者でなく、イエス・キリストの道を整えるために呼ばわる声、そのモノであると告白します。不思議な答えであります。私たちは自分の名前で自分を現したり、自分の仕事や地位をもって自分を紹介しますが、ヨハネはただイエスの道を備えるための声であると言って自分を言い表したのであります。

これを見ますとヨハネは神の言葉を食べた人であると表現した方が良さそうです。神様の言葉を理解したのでなく、言葉を食べてそれが口を通して「声」となって出て来るそのようなヨハネであったような気がします。また、そのような者でありたいと願っていたとも思います。

因みに言いますが、日本語には「声」と「音」を区別しています。機械的なモノは音であります。人間などの生物によるモノを声と言います。この区分に従って言えば、例え、人の声を録音したものであろうともそれがカセットを通して出て来るのであればそれは「音」であります。これと同じく、聖書が語る言葉を自ら食べて消化され、出て来るのが「声」であります。ただ、機械的に繰り返すだけであれば、それは「音」であると言って良いかも知れません。

繰り返しになりますが、ヨハネは自分はイエス・キリストの道のための声であると告白したのは、自分はイエス・キリストの前では「ヨハネ」であるとか、ひとつの教団の指導者であるとかという地位は意味を成さないという告白であります。この事を先ほどのブラックホールの喩えで言えば、そのような世的なモノのすべてはイエスの名によって吸い込まれ、残された自分はただイエスを証しする声であって、そうでありたいと言う願いがあってそのような告白をしたのではないかと思います。

では、この告白の根拠は何でしょうか。イエスが自分より優れた修行をしていたからでありましょか。自分より優れた指導力をもって教団を導く力があると思ったからでありましょうか。そうではありません。ご存知のようにその時までイエスは大工の仕事をしていました。

やはり、ヨハネが自分はイエスの道を備えるための声であると告白した根拠は、イエスは神の一人子であって、この世の罪を取り除くための小羊であることが知らされたからたあります。

人は自分の罪を自分で取り除く事は出来ません。また人が取り除くことも出来ません。ヨハネさえもただ神の前で罪を告白し、これに対しての裁きは神の御手の中にあるという告白のみによって赦されようとしたのであります。神の前で罪の重荷をおろす者は幸いであります。その者が赦されるからであります。イエス・キリストがこの世に来られたのはその為でありますが、その事を知らせるのが自分の使命であであり、またそれを知ったヨハネは自分を「呼ばわる声」だと紹介したのであろうと思います。私たちも出来ればヨハネの信仰に倣いたいものであります。