|
2004年12月12日 |
|
「与えられる喜び」(ルカ2・8〜14) テーマ:この世が与える喜びは消え去るが、神によって与えられる喜びは限りがない。 時:04.12.12 於:和白教会 説教者:黄仁坤 .
昨日は「子供クリスマス会」がありましたが、35名の子供が来てくれました。共に賛美歌を歌い、また、イエスの誕生と関る聖書の個所からメッセージを聞きました。その後はプレゼント交換やゲームをしながら楽しい一時を過ごしました。この35名と言う人数は去年より多いですが、とても嬉し事であります。このクリスマスの会の為に祈りに覚え、また準備をしてくださった方々には特に嬉しかっただろうと思います。 子供達に語るべき言葉を失っているこの世でありますが、このような時代であるからこそ、教会の使命が大きいのではないかと思います。 ところが、殆どの子供たちにとって、「イエスの誕生日」と言ってもそれを如何理解すれば良いのか、まだ分からないと思います。でも、子供達が教会はクリスマスになるとイエスの誕生日を喜び、楽しい時を過ごすところであると記憶してくれるだけでも十分ではないかとも思います。勿論、聖書の言葉を一つでも二つでも心に残してくれれば、更に嬉しいですが、たとえ、今は分からなくとも、何れかはクリスマスを共に教会で過ごしたことが切っ掛けになって教会に繋がっていくと信じています。 昨日のメッセージはミヒャエラがしましたが、彼女は始めに2,000年前がイエスの誕生日であったが、それが今と「繋がっている」という言い方をしていました。子供達にそれ以上の言葉をもって、「今においてのクリスマスの意味」を語るのは難しいかなと思いながら聞いておりました。 先ず、この2,000年前のイエスの誕生日が「今に繋がっている」と言う事を少し考えてみたいと思います。もし、私たちが今に繋がっていない2,000年前のイエスの誕生日を記念しているのであれば、私たちはただ記録をみながら過去を想像しつつ喜ぶのに過ぎません。しかし、私たちはこの時期になりますと、イエスの誕生それ自体を祝うのであります。私たちの今においての出来事として喜ぶのであります。 これは世間でやっているのようなことでありますが、例え、ベートベーン生誕100年を記念してのイベントなどとはその性格において全く違うモノであります。つまり、ベートベーンと生誕100年記念コンサートであれば、彼の作品を改めて鑑賞したり、彼の一生の間の業績を讃えたりする事でありますが、クリスマスはイエスの誕生そのものを祝うのであります。 これは先週のメッセージにおいて、もうすでに少し申し上げました。それで、繰り返しになりますが、特にヨハネ福音書を見ますと、時間が止まっていたり、逆流していたりするような語りになっているところがあると申しました。それはイエス・キリストの誕生が人々のすべての認識や経験などを吸い込んでイエス・キリストと言う一点に凝縮しているからであって、これを喩えでいえば、すべてを吸い込んでしまうブラックホールのようなモノであります。 すべてがイエス・キリストにおいて凝縮されているとは時間の流れもイエス・キリストにおいて止まっているという事になりますが、これは私たちが時間は流れるものとして、当たり前のように受け止めている概念のひとつである過去、現在、未来の区分が消え去ってしまうという意味でもあります。 このように過去、現在、未来が一点に凝縮されているような捉え方は、例えば、アウグスティヌスの『告白』の中からも見いだすことができます。彼はキリスト教の歴史において最も優れた思想家であり、信仰者でありました。引用しますと「すなわち未来も過去も存在せず、また三つの時間、すなわち過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。それよりむしろ、三つの時間、すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう」と言っています。 他の言い方をすれば、これもある哲学者からの引用でありますが「過去とは『想起』という仕方での現在経験であるし、未来とは『期待』という仕方での現在経験であり、現在は、過去や未来と対立するのではなく、それを内に含んでいるのです。ですから、現在があって初めて、その中で、過去も未来も成立する」と言っています。 このような難しい言葉でなくとも私たちの体験の中でも過去と現在が同時に存在するようなことを見る事が出来ます。夜、空を見ますと多くの星が見えますが、その数多くの星の中であるモノは地球から何十光年も離れています。と言うのは、その星が瞬くのを「今」見ているとしても、その星の今見えている光は実は何十年も昔のものであります。 「今」というのは、勿論の事でありますが、「昔」ではない21世紀であると同時に、その何十年もの「昔」の光を見ているのであります。不思議なことであります。こう考えますと常識として過去、現在、未来とはそれほど絶対的な区分でないことを知ることが出来るのではないでしょうか。 この過去、現在、未来の統合を信仰者としての言い方で言い表しますと、「2000年前のイエスの誕生と共に終末が始まり、その終末は現在もまだ続いていて、正に私たちはその時代を生きています。そして、再臨の約束によってその期待は現在のモノとなっている」ということになるかと思います。これが終末論的な時間の理解であります。それで、私たちは今、この時期にクリスマスをイエスの誕生を祝う時期として喜んでいるのであります。 さて、今日の聖書の個所は神様がイエス・キリストの誕生を羊飼い達に知らせる場面でありますが、今日は二点を共に確認したいと願います。 先ず、今日のメッセージのタイトルになっていますが、「イエス・キリストによって与えられる喜び」であります。この言葉にはすでに、これはこの世が与える喜びと違うものであるという意味を含んでいます。もう一点は10節に示されているように「すべての民に与えられる喜び」であります。 先週礼拝が終わって消防訓練をいたしましたが、私たちはその時、消防士から聞いて驚きました。今の火事の原因の中で最も多いのは「放火」だそうです。これはそれほどこの世は不満やストレスに満ちている事を物語っています。また、昨日の朝日新聞の一面トップ記事として載っていましたが、多くの公立学校教師が精神疾患で休職を余儀なくされているようであります。昨年度は3000人を越えたそうですが、また、この数字は十年前より2.7倍だそうです。 度々青少年による凶悪な犯罪や非行がニュースになって私たちを驚かせていますが、これらの事と学校の教師が精神疾患に悩まされる事などと皆同じことであろうと思います。それほどこの世も学校も荒れています。 如何でしょうか。このような傾向は近い将来おさまって行くと期待を持てるでしょうか。私はこのままであれば、決して収まらないと思います。逆にその数が増えていくのではないでしょうか。 それで私たちは如何すれば良いのかを真剣に悩まなければならないのでありますが、世間ではただクリスマスを商売のチャンスとしてしか受け止めていないようであります。 人々は豊かさを確保する為に努力して来ました。物を作る知恵や技術を発達させて来ました。また、そのための社会システムをも作りました。治安を強化し、社会福祉施設を充実させて来ました。備えあれば憂いなしという考え方下であらゆる手を尽くしてきたと言って良いと思います。これが未来への期待でありました。それで、一見、社会は豊かになり、更なる進歩を成し遂げて行けそうに見えました。しかし、様々な証言やデータが物語っているように人々の心は益々鬱憤や怒りなどに満ちて来ているのであります。そして、その一角としてある人々はストレスや精神的な疾患に苦しんでいたり、更に攻撃的になって人の家に火をつけたりする人が増えてきたのであります。 私の東京でも経験を一つ申します。皆さんも似たような光景を見る事があろうと思います。私が東京にいる時、暫く飲食店でアルバイトをした事がありますが、その店に良くひとりで来るお客さんがいました。彼は来ると必ず、隅っこに座ってお酒を頼んで飲みながら、暫くすると何かをぶつぶつ言い出すのでありました。前に人が座っているかのように、時には顔に表情を浮かばせながら何かを呟いていました。彼はそのようなことを店に来る度に繰り返していました。それを見ながら私は時々一人芝居でも見ているような気がしていましたが、近くの会社に勤めていると思われるようは身なりをしている方でありました。おそらく、一日のストレスや鬱憤などをそのようにして解消していたと思います。今の時代を生きる多くの人はこのような孤独や不満の中にいるのでないでしょうか。 今、申し上げた例の方は偶々そのような鬱憤を酒の力を借りて言葉に、顔に出したと思いますが、私たちの心も似ているところがあります。言葉にはしませんが、多くの不満を心に溜めています。また、人の弱点を思い出して一人で囁いたりしています。時には過去のつらい経験に囚われて苦しみます。ですから、私たちはそのような私たちの限界を知り、弱点を知って神の前で罪人であると告白し、出来れば赦された者として、感謝と喜びを回復し他者と共に生きるの願う者であります。これが信仰者であります。 話を今日の個所に戻しますが、野宿をしながら羊飼いをしている人々に先ずイエスの誕生が知らされました。そして御使いは彼らにイエスの誕生自体が「すべての民に与えられる大きな喜びである」と言います。言い変えれば、この世が与えるような喜びでもなく、また自ら獲得した喜びでもなく、神から与えられる喜びであると言うのであります。 この喜びを受け取る者は幸いであります。ところがこの喜びを受け取る事の出来る人は限られています。つまり、この世が与える喜びや、自分でそれを獲得しようとして努力してきた事が、虚しい業であると事を知らされた人のみであります。この世が与える喜びで十分であると思う方は神を呼び求める事が出来ません。もうすでに満足しているからであります。また、この世の問題点は人間の知恵や努力が足りないところに原因があると思う方は神を呼び求める事も、神が約束した喜びも受け取る事が出来ないと思います。なぜなら、この世の問題は自らのところにあると信じてそれだけが改善されれば喜びが戻ってくると信じているからであります。 イエス・キリストがこの世に来られたのは、御言葉がこの世に現われるためでありますが、これは罪のただ中に生きている人々をイエス・キリストによって神と和解させ、喜びの中で生かすためでもあります。神との和解とは何かを他の言い方ですれば、人が自らの言葉によって生きるのでなく、神の言葉によって生きる事であり、神の言葉であるイエス・キリストに従って生きる事であります。 今日の個所は野宿をしながら羊の世話をすることでやっと生きていく人々に神は喜びを与えると約束しました。この言葉を心に受け入れた彼らは、羊飼いというつらい仕事からから解放されない限り自分達には喜びも平和もないと言うのでなく「いと高き所では神に栄光があるように、地の上ではみこころにかなう人々に平和があるように」と歌うことが出来たのであります。ある意味では天真爛漫な子供のような心であります。 先ほどこの神からの喜びはすべての人に約束されたと申しましたが、この世は私たちに競争に勝ち抜いた者だけが喜ぶ資格があるかのように語りかけています。多くのモノや才能、また高い地位についている者だけが喜ぶ資格があるかのようなシステムになっています。そうでない者は隅っこに座って不平を言ったり、他人の悪口を言ったりする事をもってでも、時には酒に頼ってでも脱出しなければ、病気になりそうなこの世になっています。 しかし、神様は私たちに、この世のすべての人々に「この喜びはすべて人のための喜びである」と語ります。それで先ず取るに足らない羊飼いにその知らせがありました。そして、彼らはその喜びを受け取って神を賛美したのであります。 時々キリスト教は排他的な宗教であると言う人がいます。これはキリスト教を知らないからそう言うのであろうと思います。御言葉が何かこの事が出来る人を神が愛しているとか、この地位にいる人を神が愛しているとかを語るのであれば、排他的であると言って良いと思いますが、キリスト教は今日の御言葉が示しているようにすべての人の喜びのための信仰であります。つまり、生まれた嬰児イエスを喜ぶことの出来るすべての人に救いの道が用意されているのであります。この事を信じて信仰の道を歩む者は幸いであります。 |