2004年12月19日

「飼い葉おけの幼子」(ルカ2・5〜20)

テーマ:幼子イエスが受け入れられるところが神の国

時:04.12.19. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

クリスマス、おめでとうございます!今日はイエス・キリストが私たちに来られた事を感謝しながら捧げる礼拝の日であります。

子供たちが通っている幼稚園や保育園に行ってみても「メリークリスマス」という言葉が壁に張られています。また、クリスマスの飾りつけもありました。最近、ヨハナが熱をだしたので何日も続けて病院に通いましたが、そこの入り口にも手の込んだツリーや飾り物が置かれていました。何処の商店街に行って見てもクリスマスのキャロルが流れています。このように世はクリスマスの雰囲気に浸っています。今日はクリスマスの意味を今日の聖書の個所をとして共に聞きたいと願います。

カレンダを見ますとクリスマスの二日前である23日はあいにくも天皇誕生日であります。祝日となっています。国がどれ程この日を重んじているのかの現われであります。憲法上、天皇は政治的な発言や仕事は出来ない事となっていますから、この国の統治者ではありません。でも、まだ多くの人々の精神的な柱になっているのであはないかと思います。つまり、言葉には表さないとしても、心の中で、天皇が自分の「主」であって、自分達はその「臣民」位であると位置付けをしている人も多いのも現実ではないかと思われます。現にそのような人は毎年、天皇誕生日に皇居に出向いて、万歳を叫びつつ彼の誕生を祝うのであります。

勿論、今の時代にそのような事は人々が自発的に行っていますが、戦前には天皇を敬うのが強制されていました。ところが、イエスが生まれた時も戦前の日本に似ている時代でありました。当時のローマ皇帝アウグストは「皇帝」として呼ばれるだけでは満足できずに、この事は皇帝によってその程度の差はあったと思いますが、概ね、人々によって自分が「主」と呼ばれるのを好んでいました。つまり、自ら神のような存在になろうと企てたのであります。この「アウグスト」と言う皇帝の名はラテン語で「尊厳者」、「崇敬すべき者」の意味をもっていますが、これを見ても当時の権力者と民との関係が如何であったかを窺い知る事が出来るのではないでしょうか。ルカによる福音書はそのような時代背景を暗々裏に語りつつイエスの誕生を伝えています。

イエスが生まれた時、アウグスト皇帝の命令によって人口調査が行なわれました。人口調査は徴税の目的でありますが、イエスの両親も自分たちが生まれた所まで行って調査の為の申し出をしなければなりませんでした。それで、彼らはナザレに住んでいましたが、その為にベツレヘムに出向いたのであります。ところが、なぜか、イエスの父ヨセフは臨月になっているマリヤをつれてナザレからベツレヘムに向かったのであります。記録によりますと当時の仕来たりとしても夫が妻に代わって人口調査のための申し出が可能であったそうです。しかし、まだ正式に結婚していなかったからそれが出来なかったのか、それとも他の理由があったのかについては聖書は沈黙しています。それで、様々な推測を駆り立てるところであります。ナザレからベツレヘムまでは直線距離で100`はありますので、交通の手段をあまりない当時としては、妊婦にとっては過酷というか、普通であればあり得ない旅であります。

ある学者はこのような推測を立てていました。つまり、結婚をしていないマリヤが身篭ったことで彼女は周りから相当の意地悪をされていたはずだから、ナザレに彼女を残してヨセフだけが旅に出るより、連れて行ったほうがましであると判断して連れて行ったのではないかと。ありうる推測だと思います。当時としては結婚をしていない女性が子供を生むとは世間からの大変な風当たりを意味していました。ふしだらな人だと言われても仕方ないことであって、律法に厳密に従えば、母子共に石で殺される事もあったのであります。

イエスがマリヤの体に宿った背景にはこのように世間では認められない理由をもっていました。生まれた時もまた状況は同じでありました。すなわち、この世はイエスが生まれる部屋を与えませんでした。また、生まれた嬰児が寝かされる場さえもなかったのあります。それで生まれたばかりのイエスは動物のえさ箱に寝かされなければならなかったのであります。過酷な運命の始まりであります。神様はご自分の愛を示す為にそのような過酷な状況を選択したのであります。

話が少し逸れるかも知れませんが、今のこの世もイエスが生まれる時と根本的には変わっていないと思っています。つまり、生まれながら、差別、偏見に曝される子供が多くいます。依然としてある地域で生まれる子供は「部落の子」として語られます。また、肌色によって、親の国籍によって、様々な理由で何の罪もない子供が、祝福されたはずの誕生が呪われたモノとして受け止められてしまう事を私たちはしばしば耳にするのであります。しかし、イエスの誕生の厳しい背景が物語っているように、神様はこの世において追いやられる人々を通してご自分の愛が示されるのを待っているのではないでしょうか。

私は時々、イエスの少年期を想像して見ます。お父さんのない子供だと後ろ指刺されたはずであります。そのような言葉が掛けられながら育ったと思います。例え、常にこのような言葉を浴びせられる事はなくとも、一回だけ聞いたとしても、このような言葉は心を刺し通すような痛みを与える言葉であったはずですから、イエスの心を揺さぶったに違いないと思います。全生涯がこの言葉に支配されて歪んでも仕方なかったと思うのであります。しかし、イエスは十字架に架かるまで、神の独り子としての使命を全うする事が出来ました。父なる神への信頼があったからであります。周りが与える言葉に左右されないで、神の言葉に聞き従うことによって神の独り子という地位を守り続ける事ができたのであります。

世間ではこれから暫く天皇の誕生日に因んで、テレビなどで皇族の人々の様子を伝えると思います。時々聞きますと、皇族の人々はとても豊かな言葉を語ったりします。皇族に似合う口調や言葉を語ります。皇族として育てられたからであります。

しかし、イエスを取り囲んでいたのは神の独り子としての条件ではありませんでした。それところか、世間の目から見れば、いわば「私生児」でありました。世間はイエスに私生児として生きるのを強いていたのでありました。でも、イエスは父なる神の言葉に立ち続けたのであります。

人はどのような言葉に従って生きるのかによってその人柄が決まります。耳を通して、目を通して受け入れたモノがその人の人格を決定します。これを喩えで言えば、良い葡萄酒が入っているビンが尊ばれるのでありますが、ビンだけが奇麗であっても、中身として、安い葡萄酒が入っているのであれば、それは安く売られるのであります。

反対に、ビンが、例え、みすぼらしくとも、その中の葡萄酒がよければ高く売れるものであります。申し上げたいことは、葡萄酒であろうとも、人であろうともその中に何が入っているかによってその人が決まるのであります。

イエス・キリストの言葉によって魂も、心も、体も満たされている者は幸いであります。その人が神の子として尊ばれるからであります。

この世の権力に聞く者はこの世の人であります。お金に聞く人はこの世の人であります。しかし、神を恐れ、神を賛美しながら、神に聴き従う人は神の子であります。

イエスがこの世に生まれた事の意味をヨハネ福音書の始めが良く表しています。つまり、ヨハネ福音書の始めあたりに、「言葉が肉となった」と記されています。これほど多くのモノを示唆する表現も珍しいと思います。なぜ、ヨハネ福音書を通して神はこのような言葉を私たちに語っているのでしょうか。

少しその背景を申しますと、イエスがこの世に来られるまでは神様の言葉は主に律法として存在していました。言い変えれば、「神の言葉が律法となっていた」のであります。ところが、この律法は制度として人々の心の外にありました。それがイエスの誕生によって神の言葉が生きている肉となって現われたのであります。それで、私たちは律法に聞くのでなく、生きているイエス・キリストに聞き従いつつ、イエス・キリストが私たちの主である告白をしているのであります。これは、また、イエス・キリストが私たちの心の中に生まれたという告白でもあります。これが私たちにとってのクリスマスの意味であります。

これらは私たちの知恵をもって理解したのでなく、イエス・キリストが私たちに訪ねて下さったから可能であったことであります。信仰は恵みであると所以であります。

今日の聖書の個所はイエス・キリストの誕生が人々にどれほど受け入れられない事かが語られている個所でもあります。つまり、馬小屋で生まれたイエスが更に飼い葉おけに寝かされなければなりませんでした。イエスの居場所が町には、人々の心にはなかった事を伝えています。

この事は今の世と同じであります。口々でクリスマスキャロルは歌いながらも、また、家の塀に、壁にメリークリスマスと書いておきながら、心の中に様々なモノでいっぱいになっていますので、イエスが生まれる場所も与えられないのであります。神の言葉が肉となるチャンスを認めないのであります。

これは私たちのクリスチャンも警戒をしなければならない事であろうと思います。イエス・キリストを心の中に受け入れないで、外観だけ飾るのであれば、世間が祝うクリスマスと同じくなってしまうからであります。

繰り返しになりますが、この世がそのように頑なになっているのは昔も今も同じであります。でも、人々の心が頑なになってイエスの誕生を拒もうとも、神様の計画は進んでこの世の永遠なる王としてのイエスが馬小屋で生まれたのであります。

馬小屋が宮廷になる瞬間であります。飼い葉おけが王のベッドとなる瞬間であります。王が住んでいるところが宮廷であります。建物だけがあってもそこに王がいなければ、宮廷ではありません。王がいて初めて宮廷となるのであります。このようにして、馬小屋からイエス・キリストが支配する神の国が始まったのであります。

このメッセージを準備しながらこの間の夏、休暇をとって山小屋で何日かを過ごした事を思い出しました。その山小屋はとても古くて、優れた設備はありませんした。おそらくその位の小屋が町にあるのであれば、100年近く経っている木造の小屋でありましたから、皆がもう住むことの出来ない家だと思い撤去したと思います。

ところが、そこに置かれていたベッドは新しいモノであって、布団も奇麗に洗濯されていました。黒ずんだ床と壁が逆にベッドと布団の清潔さを浮き彫りにさせるような格好でありました。そこで寝るのは何とも言えない満足感を与えたくれたのであります。

今日の個所の馬小屋もそうであります。馬小屋であるからこそ、イエス・キリストの誕生が、またその誕生の聞きつけ集まったいる羊飼いらが美しく、尊い存在として輝くように思われるのであります。

今、この世の中で一般的な家で生まれる子供は王のように生まれ、王のように大事に育てられています。しかしながら、王のようにならないで、心が荒れています。神と共に生きる喜びも自らの存在価値を語りかける人がいないからであります。

みすぼらしい馬小屋に集められた羊飼い達は神を賛美しました。彼らの馬小屋のような心にイエスが生まれたからであります。今日の聖書の個所は先週の続きでありますが、先週の聖書の個所でイエスの誕生が告げ知らされた羊飼い達は御使いたちと一緒になって賛美をしたと記しています。今日の個所においても彼らは賛美をしながら、自分たちの所に帰ったのであります。神の言葉が知らされた者にはこのように喜びと平安が生まれるのであります。イエス・キリストを受け入れた者は今日の個所の羊飼いのように賛美の心が泉のように湧き出るのであります。

馬小屋でイエスの誕生を確認した彼らは最早この世の権力者・アウグストを主と告白しないで、イエス・キリストを主と告白するのであります。イエス・キリストが心に入って来たからであります。これが本来のクリスマスの意味であろうと思います。